2020-02-15

初期仏教の主旋律/『初期仏教 ブッダの思想をたどる』馬場紀寿


『原始仏典』中村元
『上座部仏教の思想形成 ブッダからブッダゴーサへ』馬場紀寿

 ・小部は苦行者文学で結集仏典に非ず
 ・初期仏教の主旋律

 このように、「成仏伝承」に説かれる「ブッダの悟り」の内容は、「律」の仏伝的記述において説かれる「ブッダの教え」の内容と、よく対応する。すなわち「四聖諦(ししょうたい)」「縁起」「五蘊六処」、および六処と構造を共有する「十二処十八界」は、諸部派の出家教団でともに中心的教理に位置づけられているのである。

【『初期仏教 ブッダの思想をたどる』馬場紀寿〈ばば・のりひさ〉(岩波新書、2018年)以下同】

 六処以降は私もよく知らず。特に知る必要もないと考える。ブッダが説いた教理は四諦・縁起・五蘊と覚えておけばよろしい。

 テキストの成立という点では、こうして重要な点が不明なままである。しかし、思想の成立という点では、かなりの程度はっきりとしたことが言える。諸部派、少なくとも上座部大寺派化地部法蔵部説一切有部大衆部の結集仏典で共通して伝承される「布施」「」「四聖諦」「縁起」「五蘊」「六処」などの教えは、初期仏教の時代、すなわち遅くとも紀元前後までに成立していたといえる。
 というのは、紀元後1-2世紀のガンダーラ写本にも、2世紀に訳出された漢訳仏典にも、1-2世紀に著されたアシュヴァゴーシャ(馬鳴)の作品にも、これらの教えは広く説かれているからである。(中略)
 以上の事実をふまえると、諸部派がブッダの教えとして共有した「布施」「戒」「四聖諦」「縁起」「五蘊」「六処」などの教えは、紀元前に、かつ大乗仏教の興起以前に存在していたことがわかる。これらが初期仏教で広く伝承されていた思想であることは確実である。初期仏教の思想における「主旋律」があったとすれば、これらを措いて他にない。

 ガンダーラ写本については以下の記述がある。

 1990年代中頃に始まるガンダーラ写本の発見は、近代仏教学の歴史のなかでも衝撃的なものだった。なぜなら、ネパールや中央アジアのサンスクリット写本の作られた年代が古くともせいぜい紀元後7-8世紀なのに対し、ガンダーラ写本は紀元前後から紀元後3-4世紀のものと考えられ、それまでの年代をはるかに遡るものだったからである。

 ウーム。もしも古い写本が見つかるたびに教理が変わるとしたら、仏教は既に宗教ではなく歴史なのだろう。「教え」が与えた余韻は長く響き渡り、人々の心を震わせたはずだと私は考える。

 もう一つは北伝仏教をどう捉えるかという問題がある。ブッダの教えからどんどん乖離して変形していった背景にはまず気候の違いがある。文化を支配するのもまた気候である。仏教東漸の歴史を思えば日本仏教までの道程は進歩史観さながらである。

 問われるべきは「悟ったかどうか」であり「悟りの中味」である。そう考えると禅宗を除いた鎌倉仏教は悟りから離れていったように見えてならない。

 今後あるべき日本仏教の姿としては鎌倉仏教から密教要素を取り除くか、あるいはルネサンス運動として部派仏教に回帰するのが望ましいと思う。もちろん「密教の正当化」という方向性もあるが、これだとヒンドゥーイズムに取り込まれてしまうだろう。

 鎌倉仏教が日本思想の精華であるのは確かだが、当時の情報量の少なさを思えば現代の仏教徒はもっともっと知的格闘を行う必要があろう。

読み始める

2020-02-14

小部は苦行者文学で結集仏典に非ず/『初期仏教 ブッダの思想をたどる』馬場紀寿


『原始仏典』中村元
『上座部仏教の思想形成 ブッダからブッダゴーサへ』馬場紀寿

 ・小部は苦行者文学で結集仏典に非ず
 ・初期仏教の主旋律

 このように五部派で一致して、結集仏典の「法」に位置づけられる四阿含(四部)が成立した後に、「小蔵」(または「小部」「小阿含」)という集成が「法」に追加されたということは、「小蔵」に収録されている仏典がもともと結集仏典に位置づけられていなかったことを示している。実際、この集成に収録されているのは、基本的に韻文仏典であり、経蔵の「四阿含」の諸経典が用いる定型表現を用いていない。まったく異なる様式のものなのである。
 以下に説明するように、韻文仏典のなかには紀元前に成立したものが含まれているが、元来、結集仏典としての権威をもたず、その外部で伝承されていたのである。
 このことは、かつて中村元らの仏教学者が想定していた、韻文仏典から散文仏典(三蔵)へ発展したという単線的な図式が成り立たないことを意味する。韻文仏典に三蔵の起源を見出すことには、方法論的な誤りがあるのである。

【『初期仏教 ブッダの思想をたどる』馬場紀寿〈ばば・のりひさ〉(岩波新書、2018年)以下同】

犀の角のようにただ独り歩め
ただ独り歩め/『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳

 馬場紀寿が「初期仏教」としたのは「原始仏教」に対する批判が込められている。更に小部(しょうぶ/パーリ五部のうち半分以上の量がある)は苦行者文学で結集(けつじゅう)仏典に非ずとの指摘は『ブッダのことば スッタニパータ』が「ブッダの言葉ではない」と断言したもので、少なからず中村元〈なかむら・はじめ〉に学んだ者であれば大地が揺らぐような衝撃を覚えるだろう。

 『犀角』も、『経集』と同様に「小部」に収録されている『義釈』において『到彼岸』とともに注釈されており、『経集』のなかでも成立の古い偈である。おそらく紀元後1世紀頃に書写されたと考えられるガンダーラ写本が見つかっているから、その成立は紀元前に遡ると考えてよい。
 しかし、これらの仏典には、仏教特有の語句がほとんどなく、むしろジャイナ教聖典や『マハーバーラタ』などの叙事詩と共通の詩や表現を多く含む。仏教の出家教団に言及することもなく、たとえば『犀角』は「犀の角のようにただ一人歩め」と繰り返す。多くの研究者が指摘してきたように、これらの仏典は、仏教外の苦行者文学を取り入れて成立したものである。

 古いから正しいわけではない。これは「小乗非仏説」といってよい。小部には「スッタニパータ」以外にも「ダンマパダ」「テーラガーター」「テーリーガーター」を含む。

「いやあ参ったなー」と思うのは私だけではないだろう。困惑のあまり不可知論に陥りそうだ。

 ま、言われてみれば「犀の角のようにただ一人歩め」というのは単なる姿勢であって教理ではない。「自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人(せんまんにん)と雖(いえど)も吾(われ)往(ゆ)かん」(『孟子』公孫丑篇)と同工異曲だ。クリシュナムルティの仏教批判は正当なものであった(『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ)。

毀誉褒貶に動かされるな/『原始仏典』中村元


『ブッダの 真理のことば 感興のことば』中村元訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元
『ブッダ入門』中村元
『世界の名著1 バラモン教典 原始仏典』長尾雅人責任編集

 ・毀誉褒貶(きよほうへん)に動かされるな

『初期仏教 ブッダの思想をたどる』馬場紀寿

「比丘たちよ、他の人たちがわたしを誹謗しようとも、あるいは法を誹謗しようとも、あるいは僧団を誹謗しようとも、それに対してあなたたちは怒ったり、不機嫌になったり、心を不快にしてはいけあい。比丘たちよ、他の人たちがわたしを誹謗し、あるいは法を誹謗し、あるいは僧団を誹謗して、あなたたちがそれに対して怒り、あるいは快く思わないなら、それはあなたたちの障害となるであろう。(中略)
 比丘たちよ、他の人たちがわたしを賞賛しようとも、あるいは法を賞賛しようとも、あるいは僧団を賞賛しようとも、それに対してあなたたちは喜んだり、うれしく思ったり、心に得意に思ったりしてはならない。比丘たちよ、他の人たちがわたしを賞賛し、あるいは法を賞賛し、あるいは僧団を賞賛して、あなたたちがそれに対して歓び、うれしく思い、得意に思うなら、それはあなたたちの障害となるであろう。

【『原始仏典』中村元〈なかむら・はじめ〉(ちくま学芸文庫、2011年)】

 感情の相対性理論である。ブッダが示すのは中道の生き方だ。瞑想とは怒りや喜びを見る行為である。見るためには離れる必要が生じる。毀誉褒貶(きよほうへん)に動かされるなとの指針は心理的テクニックを教えるものではなく、自身の反応を静かに見つめる内省的な次元でそのメカニズムを解体するとことに目的がある。

 ブッダはかつて存在した。しかしブッダの教えは変遷に変遷を重ねて仏教各種を生んだ。そこにブッダの面影を偲ぶことは可能だろうか? 私が想うブッダはインドを闊歩したブッダと同じであろうか? ひょっとすると脚色を施されたブッダという名のキャラクターを勝手に妄想しているのかもしれない。

 中村元が編んだ仏典シリーズは『ジャータカ全集』(全10巻、春秋社)~『原始仏典』(全7巻、春秋社)~『原始仏典Ⅱ』(全6巻、春秋社)と続く。

2020-02-13

宇宙開闢(かいびゃく)の歌/『はじめてのインド哲学』立川武蔵


『世界の名著1 バラモン教典 原始仏典』長尾雅人責任編集
『ウパニシャッド』辻直四郎

 ・宗教とは「聖なるもの」と「俗なるもの」との相違を意識した合目的的な行為
 ・宇宙開闢(かいびゃく)の歌

『バガヴァッド・ギーター』上村勝彦訳
『仏教とはなにか その思想を検証する』大正大学仏教学科編
『最澄と空海 日本仏教思想の誕生』立川武蔵、1992年
『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵、2003年

リグ・ヴェーダ』に含まれる10点近い宇宙創造に関する讃歌(紀元前10-9世紀の成立)のうち、「宇宙開闢(かいびゃく)の歌」(10・129)は次のようにうたう。

 一、そのとき(宇宙始原のとき)無もなく、有もなかった。空界もなく、その上の天もなかった。(中略)深く測ることのできない水は存在していたのか。
 二、その時、死も不死もなかった。夜と昼のしるしもなかった。かの唯一物は自力によって風なく呼吸していた。これより他の何も存在しなかった。
 三、始原の時、暗黒は暗黒におおわれた、この一切はしるしのない水波だった。空虚におおわれて現れつつあるもの、かの唯一物は、熱の力によって生まれ出た。
 四、最初にかの唯一物に意欲が現われた。これは思考の第一の種子だった。詩人たちは心に探し求めて、有の始原を無に見つけた。(以下略)

【『はじめてのインド哲学』立川武蔵〈たちかわ・むさし〉(講談社現代新書、1992年)】

「リグ」は「讃歌」、「ヴェーダ」は「知識」を表す。紀元前1000~500年に編まれた。ブッダ以前の聖典である。後期仏教(大乗)では善知識・悪知識など知識を「友」の意で使うがヴェーダとの関連性は不明にしてわからず。

 個人的には旧約聖書の天地創造より好みである。一読して感じるのは宇宙開闢が胎児の意識に酷似している点である。あるいは目覚めの瞬間を詳しく捉えたようにも読める。

 カンブリア紀の大爆発(5.42~5.3億年前)で眼が完成したと考えられている(アンドリュー・パーカー)。生命の起源はまだはっきりしていないが約40~30億年前のこと。つまり眼ができたのは最近のことだ。長い暗黒時代が続いたわけである。

 光りを感知できるようになったことは認識のビッグバンといっても過言ではない。それまで世界は手(感覚)の届く範囲内に限られた。ところが眼の誕生によって生命の感覚は宇宙にまで広がったのである。仏道では真理を覚知することを「開眼」(かいげん)と表現する。眼は開(あ)いていても節穴レベルである。見えているようで見えない何かがある。今まで見えなかったものが見えるようになれば生きてる価値があると言えよう。

2020-02-12

口と手の形は、その主食の種類によって決められる/『親指はなぜ太いのか 直立二足歩行の起原に迫る』島泰三


『好きなものを食っても呑んでも一生太らず健康でいられる寝かせ玄米生活』荻野芳隆

 ・口と手の形は、その主食の種類によって決められる

・『人類史のなかの定住革命』西田正規

 マダガスカルのそのほかの原猿(げんえん)類を調べるにつれて、指と歯の形が主食と関連するという視点は、霊長類一般に通用すると思うようになった。このアイデアを「口と手の形は、その主食の種類によって決められる」とまとめると、人類にも適用できるのではないかと、ある日私は考えついた。人類の主食は、その口と手によって決められている、と。マダガスカルの原野を行く長い単調な旅のあいだのことである。それは、身震いをするような経験だった。

【『親指はなぜ太いのか 直立二足歩行の起原に迫る』島泰三〈しま・たいぞう〉(中公新書、2003年)】

 推理小説の趣がある。生きる姿勢で私が一番大切だと考えるのは「問う」ことである。学ぶ行為の奥に問うという自主性が働いている。島泰三の問いは単純にして深い。同じ霊長類でも手の形は実に様々だ。




 これを適応の結果(=進化)と考えることは自然だろう。ホモ・サピエンスの手は棒状の物を握るように構成されている。ヒトの骨格は立つようにできていて足の構造は走るようにできている(不自然な姿勢が健康を損なう/『サピエンス異変 新たな時代「人新世」の衝撃』ヴァイバー・クリガン=リード)。

 ホモ・サピエンスの技術開発はハンド・アックス(握斧〈あくふ〉)に始まる。以降、手斧~槍~弓と進化するわけだが、いずれも「握る」機能が中心となっている。運動量が少ない野球に人気があるのはピッチャー=槍投げ、バッター=薪割り斧を想起させるためだろう。

 そう考えるとドアノブも握り玉式よりもレバー式の方が人体構造にしっくりくる。日常生活の自然な動作で「ひねる」ことは殆どないからだ。


 優れた問いは答えよりも重要だ。むしろ問いの中に答えがあるといっても過言ではない。

「出る杭は打たれる」日本文化/『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール


『人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』三井誠

 ・“思いやり”も本能である
 ・他者の苦痛に対するラットの情動的反応
 ・「出る杭は打たれる」日本文化

『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
フランス・ドゥ・ヴァール「良識ある行動をとる動物たち」
『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」がうまれたとき』山極寿一、小原克博

必読書リスト その三

 アメリカでは「きしむ車輪ほど油を差してもらえる(声が大きいほど得をする)」のに対し、日本では「出る杭は打たれる」のだ。

【『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール:藤井留美〈ふじい・るみ〉訳(早川書房、2005年)】

 出る杭は打たれ、打たれなければ出る悔い。12年前に読んだのだが当時とは受け止め方が違う。他民族の距離が近く、戦争に明け暮れてきたヨーロッパの歴史を踏まえれば自己主張するのが自然である。一方、日本のような同質社会では言葉を介さぬ阿吽(あうん)の呼吸が空気を支配する。日本男児には長らく多弁を嫌う伝統があった。「男は黙ってサッポロビール」(1970年)というわけだ。

 日本人は感性を解き放つ道具としては言葉を大切にしてきたが、他人を説得するための理窟を忌避してきたように見える。「理窟じゃない」「口先だけなら何とでも言える」「生意気を言うな」などといった表現には言葉を低い価値と捉える日本的な感覚が表出している。言葉とは「言(こと)の端(は)」で言(こと)は事(こと)に通じる。言葉が「事の端」を示し幹や根ではないことに留意すれば日本人の達観が理解できよう。

 村八分(火事と葬式で二分)は稲作の水利権を巡って始まったとする説がある。水の管理は村(集落)全体で行う必要がある。そこで勝手な真似をする輩が出てくれば皆が迷惑を被る。出る杭が打たれるのは当然で、むしろ積極的に打つ必要さえあったのだろう。ところがコミュニティが町や都市、はたまた国家へと拡大する中で同様のメンタリティが働けば新しい産業の創出が阻まれる。天才も登場しにくい。イノベーションを成し遂げるのはいつの時代も型破りな人間なのだ。ここに大東亜戦争以降、変わらることのない日本の行き詰まりがあるのだろう。

2020-02-10

「棒をのんだ話 Vot tak!(そんなことだと思った)」/『石原吉郎詩文集』石原吉郎


『「疑惑」は晴れようとも 松本サリン事件の犯人とされた私』河野義行
『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子
『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』山下京子
『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』ヴィクトール・E・フランクル:霜山徳爾訳
『それでも人生にイエスと言う』ヴィクトール・E・フランクル
『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』プリーモ・レーヴィ
『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編

 ・究極のペシミスト・鹿野武一
 ・詩は、「書くまい」とする衝動なのだ
 ・ことばを回復して行く過程のなかに失語の体験がある
 ・「棒をのんだ話 Vot tak!(そんなことだと思った)」
 ・ナット・ターナーと鹿野武一の共通点
 ・言葉を紡ぐ力
 ・「もしもあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない」

『望郷と海』石原吉郎
『シベリア抑留とは何だったのか 詩人・石原吉郎のみちのり』畑谷史代
『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治
『シベリア抑留 日本人はどんな目に遭ったのか』長勢了治
『失語と断念 石原吉郎論』内村剛介

必読書リスト その二

 小説は短篇の方が難しいといわれる。限られた紙数で物語を描くのだから構成や結構で勝負するしかない。石原吉郎は詩人であるが、味わい深い短篇小説も残している。

「気がかりな夢から目を覚ますと男は毒虫になっていた」というカフカ的手法に近い。不条理を戯画化することでシンボリックに描き出している。

 主人公の男は棒をのんでいる。なぜ棒をのまないといけないのかは一切語られない。

 要するにそれは、最小限必要な一種の手続きのようなものであって、「さあ仕度しろ」というほどの意味をもつにすぎない。それから僕の返事も待たずに、ひょいと肩をおさえると、「あーんと口を開けて」というなり、持ってきた棒をまるで銛でも打ちこむように、僕の口の中へ押しこんでしまうのである。その手ぎわのたしかさときたら、まるで僕という存在へ一本の杭を打ちこむようにさえ思える。
 一体人間に棒をのますというようなことができるのかという、当然起りうる疑問に対しては、今のところ沈黙をまもるほかはない。なぜなら、それはすでに起ったことであり、現に今も起りつつあることだからだ。

【『石原吉郎詩文集』石原吉郎〈いしはら・よしろう〉(講談社文芸文庫、2005年)以下同】

 石原吉郎はシベリア抑留という不条理を生きた。

 敗戦必至という状況下で日本政府は天皇を守るため、ソ連に労働力を提供する申し出をしていた。この取引は実現することはなかったが、酷寒のシベリアに連れ去られた同胞を政府が見捨てたのは事実であった。

 それはまさしく「棒をのまされた」様相を呈していた。

 それにしても僕が、なんの理由で刑罰を受けなければならないかは、やはり不明である。

 僕はその日いちにち、頭があつくなるほど考えてみたが、何がどういうふうにしてはじまったかは、ついにわからずじまいだった。

 こうした何気ない記述の中には石原が死の淵で叫んだであろう人生に対する疑問が込められている。具体的には国家に対する疑問でありながら、理不尽や不条理はやはり神に叩きつけるべき問題だ。

 理由が不明で、いつ始まったかもわからない──こんな恐ろしいことがあるだろうか? 不幸はいつもそんな姿で現れる。

 僕がこころみたおかしな抵抗やいやがらせは、もちろんこれだけではない。だがそれはつまるところ、棒に付随するさまざまな条件に対する抵抗であって、かんじんの棒をどう考えたらいいかという段になると、僕にはまるっきり見当がつかないのである。僕が棒について、つまり最も根源的なあいまいさについて考えはじめるやいなや、それは僕の思考の枠をはみだし、僕の抵抗を絶してしまうのだ。要するに災難なんだ、と言い聞かせておいて、帽子をかぶり直すという寸法なのだ。

 ここだ。巧みな描写で石原は政治と宗教の違いを示している。「棒に付随する条件への抵抗」が政治、「棒の存在そのもの」が宗教的次元となろう。

 棒をのまされたことで、主人公はどうなったか?

 すると、その時までまるで節穴ではないかとしか思えなかった僕の目から、涙が、それこそ一生懸命にながれ出すのである。
 だがそれにしても、奇妙なことがひとつある。というのは、いよいよ涙が、どしゃ降りの雨のように流れ出す段になると、きまってそれが一方の目に集中してしまうのである。だから、僕が片方の目を真赤に泣きはらしているあいだじゅう、僕のもう一方の目は、あっけにとられたように相手を見つめているといったぐあいになるので、僕は泣いているあいだでも、しょっちゅう間のわるい思いをしなければならないのだ。やがて、いままで泣いていた方の目が次第に乾いてきて、さもてれくさそうに、または意地悪そうにじろりと隣の方を見つめると、待っていたといわんばかりに、もう一方の目からしずかに涙がながれ出すというわけである。

 私は震え上がった。不条理は一人の人間の感情をもバラバラにしてしまうのだ。悲哀と重労働、飢えと寒さがせめぎ合い、生きる意志は動物レベルにまで低下する。希望はあっという間に消え失せる。今日一日を、今この瞬間をどう生き抜くかが最大の課題となる。

 帰国後、更なる悲劇が襲った。抑留から帰還した人々をこの国の連中は赤呼ばわりをして、公然とソ連のスパイであるかのように扱ったのだ。菅季治〈かん・すえはる〉は政治家に利用された挙げ句に自殺している(徳田要請問題)。

 石原の心の闇はブラックホールと化して涙を吸い込んでしまった。

「それに場所もなかったよわね。あんなところで問題を持ち出すべきじゃないと思うな。」
「じゃ、どこで持ちだすんだ。」
「そうね、裁判所か……でなかったら教会ね。」
 僕は奮然と立ちあがりかけた。
「よし、あした教会へ行ってやる。」
「そうしなさいよ。」
 彼女は僕の唐突な決心に、不自然なほど気軽に応じた。
「それでなにかが変ることはないにしてもね。」

 裁判所と教会の対比が鮮やか。どちらも「裁きを受ける場所」である。最後の一言が辛辣(しんらつ)を極める。政治でも宗教でも社会を変えることは不可能であり、まして過去を清算することなど絶対にできない。それでも人は生きてゆかねばならない。

 果たして、「棒」は与えられた罪なのだろうか? そうであったとしても、石原は過去を飲み込んだのだろう。鹿野武一〈かの・ぶいち〉や菅季治の死をも飲み込んだに違いない。体内の違和感に突き動かされるようにして、石原は言葉を手繰ったのだろう。

ことばを回復して行く過程のなかに失語の体験がある/『石原吉郎詩文集』石原吉郎


『「疑惑」は晴れようとも 松本サリン事件の犯人とされた私』河野義行
『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子
『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』山下京子
『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』ヴィクトール・E・フランクル:霜山徳爾訳
『それでも人生にイエスと言う』ヴィクトール・E・フランクル
『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』プリーモ・レーヴィ
『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編

 ・究極のペシミスト・鹿野武一
 ・詩は、「書くまい」とする衝動なのだ
 ・ことばを回復して行く過程のなかに失語の体験がある
 ・「棒をのんだ話 Vot tak!(そんなことだと思った)」
 ・ナット・ターナーと鹿野武一の共通点
 ・言葉を紡ぐ力
 ・「もしもあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない」

『望郷と海』石原吉郎
『シベリア抑留とは何だったのか 詩人・石原吉郎のみちのり』畑谷史代
『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治
『シベリア抑留 日本人はどんな目に遭ったのか』長勢了治
『失語と断念 石原吉郎論』内村剛介

必読書リスト その二

 自覚された状態としての失語は、新しい日常のなかで、ながい時間をかけてことばを回復して行く過程で、はじめて体験としての失語というかたちではじまります。失語そのもののなかに、失語の体験がなく、ことばを回復して行く過程のなかに、はじめて失語の体験があるということは、非常に重要なことだと思います。「ああ、自分はあのとき、ほんとうにことばをうしなったのだ」という認識は、ことばが取りもどされなければ、ついに起こらないからです。

【『石原吉郎詩文集』石原吉郎〈いしはら・よしろう〉(講談社文芸文庫、2005年)】

 言葉を取り戻さなければ失語の体験を語ることができない。人は語り得ることを失った時、言葉を失うのだろう。凍てつく大地で強制労働をさせられ、目の前で同胞が虫けら同然に殺されてゆく。しかも祖国は手を差し伸べてはくれない。更に周囲は社会主義の洗脳で赤く染まってゆく。語るべき言葉を失い、沈黙の中で死んでいった人々もまた多かったことだろう。その壮絶を思え。日本政府は北朝鮮による拉致事件でも同じことを繰り返した。この国には命を捨てて守るほどの価値はないかもしれない。

詩は、「書くまい」とする衝動なのだ/『石原吉郎詩文集』石原吉郎


『「疑惑」は晴れようとも 松本サリン事件の犯人とされた私』河野義行
『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子
『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』山下京子
『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』ヴィクトール・E・フランクル:霜山徳爾訳
『それでも人生にイエスと言う』ヴィクトール・E・フランクル
『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』プリーモ・レーヴィ
『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編

 ・究極のペシミスト・鹿野武一
 ・詩は、「書くまい」とする衝動なのだ
 ・ことばを回復して行く過程のなかに失語の体験がある
 ・「棒をのんだ話 Vot tak!(そんなことだと思った)」
 ・ナット・ターナーと鹿野武一の共通点
 ・言葉を紡ぐ力
 ・「もしもあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない」

『望郷と海』石原吉郎
『シベリア抑留とは何だったのか 詩人・石原吉郎のみちのり』畑谷史代
『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治
『シベリア抑留 日本人はどんな目に遭ったのか』長勢了治
『失語と断念 石原吉郎論』内村剛介

必読書リスト その二

 ただ私には、私なりの答えがある。詩は、「書くまい」とする衝動なのだと。このいいかたは唐突であるかもしれない。だが、この衝動が私を駆って、詩におもむかせたことは事実である。詩における言葉はいわば沈黙を語るためのことば、「沈黙するための」ことばであるといっていい。もっとも耐えがたいものを語ろうとする衝動が、このような不幸な機能を、ことばに課したと考えることができる。いわば失語の一歩手前でふみとどまろうとする意志が、詩の全体をささえるのである。(「詩の定義」)

【『石原吉郎詩文集』石原吉郎〈いしはら・よしろう〉(講談社文芸文庫、2005年)】

 これは決して「気取った文章」ではない。戦後、シベリアのラーゲリに抑留された石原にとって「言葉を語る」ことは、そのまま実存にかかわることもあった。言葉にした途端、事実は色褪せ、風化してゆく。時間の経過と共に自分の経験ですら解釈が変わってゆく。物語は単純化され、デフォルメされ、そして変質する。

 石原は「語るべき言葉」を持たなかった。シベリアで抑留された人々は、「国家から見捨てられた人々」であった。ロシアでも人間扱いをされなかった。すなわち「否定された存在」であった。

 消え入るような点と化した人間が、再び人間性を取り戻すためには、どうしても「言葉」が必要となる。石原吉郎は詩を選んだ、否、詩に飛び掛かったのだ。沈黙は行間に、文字と文字との間に横たわっている。怨嗟(えんさ)と絶望、憎悪と怒り、そしてシベリアを吹き渡る風のような悲しみ……。無量の思いは混濁(こんだく)しながらも透明感を湛(たた)えている。

 帰国後、鹿野武一(かの・ぶいち)を喪った時点で、石原は過去に釘づけとなった。シベリアに錨(いかり)を下ろした人生を生きる羽目となった。石原は亡霊と化した。彼を辛うじてこの世につなぎ止めていたのは、「言葉」だけであった。


「書く」行為に救われる/『往復書簡 いのちへの対話 露の身ながら』多田富雄、柳澤桂子

依正不二/『「原因」と「結果」の法則2 幸福への道』ジェームズ・アレン


『「言葉」があなたの人生を決める』苫米地英人
『アファメーション』ルー・タイス
『「原因」と「結果」の法則』ジェームズ・アレン

 ・依正不二

『新板 マーフィー世界一かんたんな自己実現法』ジョセフ・マーフィー
『未来は、えらべる!』バシャール、本田健

 あなたの世界は、あなたがどんな人間であるかの現れです。あなたの世界は、あなたの内側の状態が投影されたものであり、これからもそのすべてが、あなたが内側で体験することによって色づけされることになります。
 あなた自身の思い、希望、願望が、あなたの世界をつくり上げています。あなたの世界内にあるものは、たとえそれが、あなたにとって美しいものであっても、喜びであっても、醜いもの、あるいは痛みであっても、そのすべてが、あなたの内側に存在しています。
 あなたは、自分自身の思いによって、自分の人生、自分の世界を、あなたが思いのパワーによって内側の人生を築き上げると、あなたの外側の人生は、その内側の人生に従って自然に築かれることになります。
 たとえあなたが、心の奥底のどんな秘密の場所に、何を隠そうとも、あなたの内側に存在するすべてのものが、やがて必ず、あなたの外側の人生のなかに姿を現してきます。

【『「原因」と「結果」の法則2 幸福への道』ジェームズ・アレン:坂本貢一〈さかもと・こういち〉訳(サンマーク出版、2004年)】

 湛然〈たんねん/天台中興の祖。妙楽大師とも〉の十不二門(じっぷにもん)の中に依正不二(えしょうふに)がある。依報(えほう)が環境で正報(しょうほう)が生命主体のこと。報は報いで因→縁→果→報という時間の方向性を示す。身口意の所作は繰り返されることによって業(ごう)の慣性が働く。怒りっぽい人は些細なことでも怒りを露(あら)わにする。彼の世界は怒りの炎に包まれていることだろう。

 人類が犯した残虐さに目を向けてみよう。ナチスの強制収容所シベリア抑留のラーゲリルワンダでも依正不二は通用するだろうか?

 思考は感覚に基づいて比較し、社会もまた比較によって人々をランクづける。幸不幸も比較を通して感じることが多い。強制収容所の内側と外側を比較すれば明らかに理不尽の度合いが異なる。しかしながら外部世界にも悲惨な目に遭ったり、非業の死を遂げた人々は存在した。割合の違いだけを注目すれば比較は比率の問題になる。自由が不自由の中で試されるとすれば、幸福も不幸の中で鍛えられる。

 程度の差こそあれ万人が収容され、強制的な労働を強いられ、自由を損なわれていると考えることも可能だろう。例えば牢獄で生まれた子や孫にとっては牢獄が当たり前の世界と認識するように。現代では経済力が幸不幸を左右するため報酬の高い職業ほど会社に隷属せざるを得ない。社会の至るところで自由と不自由のフェアトレードが行われている。

 世界は塀で截然(せつぜん)と分けられているのではない。人々が織りなす安定と混沌が点在し、明滅しながら色彩を変化させている。不幸な世界であっても幸福な家庭はあり得る。とすれば不自由な強制収容所であっても自由な精神を確立することは可能だろう。

 世界から何を受け取り、何を思い、いかなる行動をしたかで世界観が形成される。幸不幸は解釈の問題であって自分を縛る事実ではない。今日、自分の内側にどんな種を蒔いたかを振り返る。それが憎悪の種ではなく感謝や歓びの種であれば周囲は必ず明るくなる。

2020-02-09

土地の価格で東京に等高線を描いてみる/『我が心はICにあらず』小田嶋隆


 ・洗練された妄想
 ・土地の価格で東京に等高線を描いてみる
 ・真実
 ・「お年寄り」という言葉の欺瞞
 ・ファミリーレストラン
 ・町は駅前を中心にして同心円状に発展していく
 ・人が人材になる過程は木が木材になる過程と似ている

『安全太郎の夜』小田嶋隆
『パソコンゲーマーは眠らない』小田嶋隆
『山手線膝栗毛』小田嶋隆
『仏の顔もサンドバッグ』小田嶋隆
『コンピュータ妄語録』小田嶋隆
『「ふへ」の国から ことばの解体新書』小田嶋隆
『無資本主義商品論 金満大国の貧しきココロ』小田嶋隆
『罵詈罵詈 11人の説教強盗へ』小田嶋隆
『かくかく私価時価 無資本主義商品論 1997-2003』小田嶋隆
『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド』小田嶋隆
『テレビ標本箱』小田嶋隆
『テレビ救急箱』小田嶋隆

 この発想が天才的だ。オダジマンは企業の意向に沿って出来上がった町を嫌悪する。これぞ江戸っ子の心意気か。捏造されるのは歴史だけではない。町もそうなのだ。

私鉄不動産複合体財閥企業がつくった東京の山の手/『山手線膝栗毛』小田嶋隆

 で、土地の価格で東京に等高線を描くとどうなるか――

 現在の東京は大雑把に言えば西高東低の原則で構築されている。この西高東低の原則は、海抜高度、土地価格、住民の最終学歴、住民の平均年収、その地域にある学校の偏差値分布など、かなり広い範囲で適用できる。
 仮に土地の価格で等高線を描くとすれば、東京の地形は港区、千代田区、渋谷区といった中心部をピークにして西側に向かってなだらかなカーブで降りて行く。東急沿線、または小田急沿線の世田谷あたりはちょっとした尾根のようになっており、田園調布、等々力、成城学園あたりは峠になっている。
 東および北に向かう斜面は急であり、等高線の間隔はひどく狭い。そんな中で赤羽は川口市に向かってざっくりと落ちる崖っぷちの斜面に位置している。
 赤羽は国鉄とともに発展してきた町である。町の成立と発展を考える上で、このことは重要だ。国鉄の沿線と私鉄の沿線では全然違う町が出来上がる。つまり私鉄沿線(特に西側の私鉄)では都市計画の一部として線路を通すのだが、国鉄は単に線路を通すために線路を通すのだ。そのため国鉄の沿線では町は無秩序に、雨の後のタケノコのように自然発生してしまうのである。

【『我が心はICにあらず』小田嶋隆(BNN、1988年/光文社文庫、1989年)】

 実に見事だ。実際に地図をつくるだけの価値すらある。地価格差地図。これを全国に広げれば、湖のように陥没した地域も数多く出現することだろう。現在は隅田川から東側を下町と呼ぶのが一般的となっている。古くから東京に住む人は「川向こう」と嘲っていた。

 私が青春時代を過ごした亀戸(かめいど)はゼロメートル地帯で昔は大雨が降るたびに川が溢れたという。小学校から渡し舟で家に帰ったことがあると後輩の父親が語っていた。深川から東京湾にかけては江戸時代の埋立地で、隅田川と旧中川を結ぶ小名木川(おなぎがわ)という運河は徳川家康が作った。家康が江戸入りした頃は雨が降れば各所が水浸しになっていたことだろう。

 私が北海道から上京したのは昭和61年(1986年)だが、まず貧富の差に驚いた。新玉川線と東武亀戸線の客層はブティックと洋品店ほどの差があった。しかもその差が老若男女に及んでいた。ま、今時は山の手も下町もユニクロっぽい服装になっているから昔ほどの大差はないことだろう。下町からは木造アパートも姿を消して鉄筋コンクリートのビルになっている。

 昨年の台風19号による水害を思えば、やはり低い土地には危険が伴う。東京に地の利があるのは確かだが、地のリスクも高いことを弁えるべきだろう。

特攻隊員は世界の英雄/『神風』ベルナール・ミロー


『国民の遺書 「泣かずにほめて下さい」靖國の言乃葉100選』小林よしのり責任編集
『大空のサムライ』坂井三郎
『父、坂井三郎 「大空のサムライ」が娘に遺した生き方』坂井スマート道子
『新編 知覧特別攻撃隊 写真・遺書・遺詠・日記・記録・名簿』高岡修編
『今日われ生きてあり』神坂次郎
『月光の夏』毛利恒之

 ・読書日記
 ・フランス人ジャーナリストが描く特攻の精神
 ・仏教は神道という血管を通じて日本人の体内に入った
 ・特攻隊員は世界の英雄

『高貴なる敗北 日本史の悲劇の英雄たち』アイヴァン・モリス

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 実際にこれらの兵器で、戦果をあげ得る前にあえなく散華した多くの純粋な日本の若者たちには、彼らの驚嘆すべき祖国愛の高揚と、その比類ない勇気のゆえに、いっそういたましく、まことに胸えぐられる悲痛さを禁じ得ないものがある。
 しかしこれらの武器が我々の眼にはいかに悪魔的と映り、それによってあたら命を捨てた若者たちの冷たい勇気と決意のほどがいかに我々を畏怖せしめようとも、それでもなおかつこれら日本の若者たちは、言葉の最も高貴な意味において英雄であり、未来永劫英雄として我々の心中に存在しつづけることはまちがいない。

【『神風』ベルナール・ミロー:内藤一郎〈ないとう・いちろう〉訳(ハヤカワ・ノンフィクション、1972年)以下同】

 日本人の殆どが特攻隊を忘れていた時に異国の人物が丹念に軌跡を辿り英雄と仰いでいた。その落差に私は愕然とした。更に本書が絶版となっている出版状況に心底落胆した。フランスには敵国の軍人を「若き英雄」と讃(たた)えるほどの精神性があるのだ。全くもって羨ましい限りである。

 日本は戦争に敗れたのだからどんな仕打ちをされようと致し方ない。だが問題はサンフランシスコ講和条約以降である。1951年(昭和26年)9月8日に署名され、翌1952年(昭和27年)4月28日、日本は主権を回復した。「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」も行った(1953年/昭和28年)。しかし憲法を破棄せず国軍を創設しなかった。吉田茂は経済の立て直しを優先して安全保障をアメリカに委ねた(『重要事件で振り返る戦後日本史 日本を揺るがしたあの事件の真相』佐々淳行)。

 中野好夫が“もはや「戦後」ではない”と書いたのは1956年の『文藝春秋』2月号であった(1956年度〈昭和31年度〉経済白書に引用され流行語となった/もはや戦後ではない―経済白書70年(2) | 小峰隆夫)。高度成長は1954年(昭和29年)12月から1973年(昭和48年)11月まで19年間も続き(Wikipedia)、その後経済成長率は鈍ったものの実質国民総生産は1997年まで増え続けた(戦後の日本経済の歩み 高度経済成長期:TERUO MATSUBARA)。

 国家にとって最大事は安全保障である。外交は軍事力で決まる。その軍事力を日本はアメリカに委ね、外交はひたすらカネをばらまくことで対処してきた。経済発展を遂げてからも一度として国民が憲法改正を望んだことはなかった。それどころか左翼の跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)を許し、1989年の参院選ではマドンナブームの旋風が吹き荒れて社会党が大勝した(社会党46、自民党36議席)。その後、北朝鮮による拉致事件が発覚するが社会党は消え去ったものの立憲民主党という左翼政党が今でも野党第一党となって政治を混迷させている。

 戦時下の日本はたしかに奇妙な国であった。近代技術社会に育ちながら中世的倫理を棄てようとしなかった日本人は、いわば稚すぎる翼であまりにも速く飛ぼうと焦りすぎる若鳥のようでもあった。彼らは国体の新価格化をぼやけさせてしまうようなあらゆるものを拒否した。そして個人主義に接することが最も遅かった。日本は人間精神の進展の流れの中での不毛の地を一時形成していたといってよく、日本人は近代社会の人間の特権のひとつである個人をかちとる闘争をすら行使しようとしなかった。そして工業化社会の中で伝統を保ち、伝説の中にとじこもろうとしていたのである。
 この日本と日本人がアメリカのプラグマティズムと正面衝突をし、そして戦争末期の数カ月間にアメリカの圧倒的な物量と技術的優位の前に、決定的な優勢を敵に許してしまったとき、日本人は対抗手段を過去からひき出してきた。すなわち伝統的な国家への殉死、肉弾攻撃法である。
 このことをしも、我々西欧人はわらったり、あわれんだりしていいものであろうか。むしろそれは偉大な純粋性の発露ではなかろうか。日本国民はそれをあえて実行したことによって、人生の真の意義、その重大な意義を人間の偉大さに帰納することのできた、世界で最後の国民となったと筆者は考える。
 たしかに我々西欧人は戦術的自殺行動などという観念を認容することができない。しかしまた、日本のこれら特攻志願者の人間に、無感動のままでいることも到底できないのである。彼らを活気づけていた論理がどうであれ、彼らの勇気、決意、自己犠牲には、感嘆を禁じ得ないし、また禁ずべきではない。彼らは人間というものがそのようであり得ることの可能なことを、はっきりと我々に示してくれているのである。

 国を超え、時代を超えて響き合い、通い合う何かがある。これこそが人間の出会いであろう。日本人が消費という幸福に酔い痴れ、戦争を忘れ去った時に特攻隊を讃えるフランス人が存在した。西洋の常識から完全にはみ出した特攻隊に感動を禁じ得ないとまで言い切る。

 若き特攻隊員が命を賭して守ろうとしたものは何であったか? それを忘れた時に国は滅ぶのだろう。英霊の魂はどんな思いで現在の日本を見つめていることだろう。

読み始める