2018-08-21

純粋直観と慈悲/『紫の火花』岡潔


『春宵十話』岡潔
『風蘭』岡潔

 ・純粋直観と慈悲
 ・如何とも名状し難い強い懐しさの情

『春風夏雨』岡潔
『人間の建設』小林秀雄、岡潔
『天上の歌 岡潔の生涯』帯金充利

 数学の研究は、主として純粋直観の働きによって出来るのです。ところで、私が数学の研究に没入している時は、自然に生きものは勿論殺さず、若草の芽も出来るだけ踏まないようにしています。だから純粋直観は、慈悲心に働くのです。
 私は本当によい数学者が出て来てほしいと思います。数より質が大事です。闇との戦いにはぜひ働いてほしいからです。(「新義務教育の是正について」)

【『紫の火花』岡潔(朝日新聞社、1964年/朝日文庫、2020年)】




 昨日ツイッターでこのようなやり取りがあった。今朝開いたページにドンピシャリの記述が出てきたので紹介しよう。間もなく読了。

 nipox25氏は論理的思考の陶冶(とうや)を指摘したのだろう。気が短い私なんぞはついつい罰のあり方を思うが、原因を探り罪の芽を除くことに想像が及ばない。何にも増して少年犯罪に対して「数学だ!」と断言するセンスが侮れない。

 本書は殆ど『風蘭』と重なる内容で幼児と10代の教育に主眼が置かれている。情緒に関しては5歳から「人の喜びを我が喜びとする」よう育てよと教える。天才数学者は老境に入り国家の行く末に深刻な危機感を抱いた。かつて奇行で知られた岡が仏教や脳科学を紐解きながら恐るべき情熱をもって教育を説く。

 30年前に「価値観の多様化」という言葉が蔓延(はびこ)った。それから10年くらい経つと「モラルハザード」という言葉が飛び交った。道徳とは社会における一定(最低)の基準であろう。その間にオバタリアンが登場し、援助交際をする少女が現れた。

 青少年はいつの時代も問題なのだが、昨今の場合は戦後生まれの親が最大の原因だろう。既に祖父母となっている。子や孫を猫可愛がりし、甘やかしてきたツケが回ってきているのだ。しかも子供は甘やかしただけでは心が満たされない。しっかりと自分が育つことで生まれる信頼関係が必要なのだ。まして他人は甘くない。甘やかされた者同士の衝突が「いじめ」という形に転化することも十分考えられる。

 戦後生まれは「学生運動の世代」でもある。勝手気ままに革命を叫んでいた彼らの影響が影を落としているのも確かだろう。

 幼児期の獣性を抑えるためにはダメなことをダメだと教える必要がある。いわゆる躾(しつけ)だ。ところが今どきは躾けられていない子供がそのまま親になってしまったから手のつけようがない。

 昔の学校教育には学ぶ厳しさがあったという。岡と同級の秀才は皆夭折(ようせつ)したそうだ。学問も命懸けなのだ。

2018-08-20

ツール・ド・フランス/『サクリファイス』近藤史恵


 ・ロードバイクという名のマシン
 ・ツール・ド・フランス

『エデン』近藤史恵
『サヴァイヴ』近藤史恵
・『キアズマ』近藤史恵
・『スティグマータ』近藤史恵
・『逃げ』佐藤喬

 世界でいちばん有名なレースであるツール・ド・フランスでは、3週間にわたって、1日150キロ以上の距離を走り続け、その間、何度も峠を越える。走行距離は3000キロを越え、高低差は富士山を9回上り下りするのに匹敵する。しかも、2日ある休養日を除けば、1日たりとも休むことは許されない。休んだ時点で、リタイアとなる。

【『サクリファイス』近藤史恵〈こんどう・ふみえ〉(新潮社、2007年/新潮文庫、2010年)以下同】

 本州縦断(※青森県下北半島の大間町から山口県下関南霊園まで)の距離が太平洋側で紀伊半島をぐるっと回っても2000km少々である。富士山を9回上れば3.4万mだ(因みにエベレストの標高は8848m)。実際は自転車だと5合目(2305m)までしかゆけないので15回上る高さである。我が家から富士山5合目までの距離は約100kmだから、15往復すればツール・ド・フランスを体感することができる。現状ではまだ道志みちにすら辿り着いていない(笑)。ツール・ド・フランスの道も一漕ぎから始まることを銘記しておく。

 プロレーサーの足は獣(けもの)さながらのスピードを出し、自動車にも匹敵する。ツール・ド・フランスの平均速度は時速40kmを超え、平地では70km、下りだと120kmに迫る。凄い。全く凄いとしか言いようがない。オリンピック、サッカーワールドカップと合わせて世界3大スポーツと呼ばれるのも納得できる。


 近藤史恵は自転車を買おうと色々調べているうちに競技レースを知り、すっかりハマってしまったという。一度もロードバイクに乗ったことがないにもかかわらず、これだけのストーリーを練り上げるのだから、やはり作家の創造力恐るべしと唸(うな)らされる。私自身はレースにとんと興味がない。ギャラリーがクズ過ぎてレースの障害となることが少なくないからだ。また、クラッシュシーンを見るたびにスタートを時間差にするなど何らかの工夫をするのが先だと思う。

 また初めて知ったのだが自転車レースでは他チーム選手と力を合わせることも珍しくないそうだ。高専柔道が軍事的であるとすれば、自転車レースは極めて政治的である。1チームは8人で編成されるがエース以外は全員がアシストだ。

 栄光のツール・ド・フランスはランス・アームストロング(1999年から2005年まで7連覇を成し遂げたアメリカ人選手)のドーピングによって失墜した。

 自己輸血。それはドーピングの一種だ。
 なにもないときに、自分の血液を抜いておき、それを冷凍保存する。そしてレースの前に輸血するのだ。そうすれば赤血球の量も普段より増え、パフォーマンスが上がる。もちろん禁じられているが、ものは自分の血液だ。ヘマトクリット値の上限にさえ気をつければ、一般のドーピングテストではまだ発見することが難しい。

 手口がここまで巧妙になると単なるインチキというよりは、各国で軍事的な研究が行われているような気がしてくる。ロボット兵器の研究開発費用を思えば、兵士の耐性をドラッグで高める方が安上がりだと考えても不思議ではない。

 ランス・アームストロングが史上最強と思いきやそうではなかった。区間優勝回数ではエディ・メルクス(ベルギー)が34回で、アームストロングの22回を軽々と上回っている。


 主人公がかつて交際していた初野香乃〈はつの・かの〉という女性が出てくるのだが、女性としての魅力が全くない。しかも障碍者スポーツマンと恋愛関係となった後のことが描かれておらず、単なる馬鹿女で終わってしまっている。更に名前がよくない。凝ったネーミングを付けるには相当なセンスが必要で、風変わりな印象にとどまっている。

 既にサクリファイスシリーズは全部読んだので先走って結論を書いてしまうが、近藤史恵は「男」が描けていない。チカの柔らかな印象は巻を重ねることにイライラさせられる。なぜか? それは彼が男ではなくて女だからだ。で、チカのキャラクターを確立させすぎて香乃の影が薄くなっている。

 それでも本書が面白いことに変わりはない。

サクリファイス (新潮文庫)
近藤 史恵
新潮社
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真のエリートとは/『隠蔽捜査』今野敏

2018-08-19

三島への愛惜と厚情/『三島由紀夫の死と私』西尾幹二


『国民の歴史』西尾幹二
『決定版 三島由紀夫全集 36 評論11』三島由紀夫
『三島由紀夫が死んだ日 あの日、何が終り 何が始まったのか』中条省平

 ・三島への愛惜と厚情

『昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』中川右介

 彼(※保守系知識人)らは過激な死を嫌って、逃げ腰でした。

【『三島由紀夫の死と私』西尾幹二(PHP研究所、2008年/戎光祥出版増補新訂版、2020年)以下同】

 西尾幹二は一時期よくテレビに出演していた。一見して小柄で表情の乏しい大きな顔と傲岸な話しぶりが悪印象として残った。かつての保守系は強面(こわもて)タイプが多かったように思う。映画に出てくるアメリカ南部のオヤジみたいで、信念を論理的に述べるのではなく思い込みをでかい声でまくし立てるのが所謂「右」であった。

 前にも書いたが私が西尾を見直したのは東北大震災後、原発推進派から反対に転じたことだ。インターネット番組で語る西尾は思想ではなく事実を通して過去の意見を翻した。「君子(くんし)は豹変(ひょうへん)し、小人(しょうじん)は面(おもて)を革(あらた)む」(『易経』革卦〈かくか〉/『中国古典 リーダーの心得帖 名著から選んだ一〇〇の至言』守屋洋)とはこのことである。

 文芸評論家として登場した無名の若き西尾を三島は見逃さなかった。一流の人物はやはり目の付けどころが違う。デビュー作『ヨーロッパ像の転換』(新潮選書、1969年)に三島は推薦文を寄せた。

 本書は西尾の告白である。三島文学を論じたものではなく、三島の死から受けた衝撃を赤裸々に述べている。ここには岡潔が新しい生命を吹き込んだ「情緒」が流れ通っている。

 三島由紀夫氏にお会いしたのは一度だけである。昭和43年の秋であったと思うが、ある人が橋渡しをしてくれて、特徴のあるあのお宅を訪問することになった。多忙な氏が、無名の外国文学者の最初の仕事(その頃私はある雑誌にヨーロッパ論を連載していた)に関心を持っているとある編集者から伝え聞いていた。そこへ橋渡しをしてくれる人が別に現われたので、若干とも私のことを氏が知っていて下さるという安心感から、ようやくお訪ねする気になったのだと思う。世の中は大学紛争で騒然としていたころのことであった。
 階段をぐるぐる昇って三島邸の一番高いところに位置した、白壁の明るい部屋に通された。橋渡しの知人と一緒にしばらく待っていると、やがて大きな、元気のいい声がした。氏は椅子から立ち上がった私の正面にきちんと姿勢を正し、三島です、と明晰な発音で挨拶された。それから円卓をはさんで、私にビールを注いでくれた。氏は年下の、まだたいした仕事もしていない文学青年を相手にしているという風ではなかった。物の言い方は遠慮がなく、率直であったが、客である私には礼儀正しく、外国の作家のことが話題になると、まず私の見解を質した。男らしく、さっぱりした人だと私は思った。日本の文化人の誰彼が話題にのぼると、氏はそうとうに辛辣なことをずけずけ言ったが、陰湿なところがまるでなく、からっとしていた。たった今怒りの言葉を述べて、次の瞬間にはもうそれにこだわっていないという風だった。私もまた、怒りはときに大切だと思っている方だが、氏の前に出ると勝負にならなかった。そう私が述べると氏はとても愉快そうに爽快な笑い声をあげた。私がしばらくしてトイレに立とうとすると、氏はすばやく私を先導し、階段を三つも跳ぶようにして降りて、なんのこだわりもなく便所のドアを開いてくれた。私はこのときの氏の偉ぶらない物腰と、敏捷な身のこなしをいつまでも忘れられないでいる。そのときはなんでもないことだと思っていたが、あとでよく考えてみると、年下の無名の人間を、このように友人のように扱う率直さはじつは大変なことだと思った。私は大学関係の先生や先輩を訪問して、こんな風にわけへだてなく遇されたことはたえて一度もなかったからである。

 巷間に流布している三島像と全く違う。肉体改造(ボディビル)から自決に至るまでコンプレックスの裏返しとして戯画的に描かれることが珍しくない。ところがどうだ。西尾が綴る第一印象のスケッチは過激とは無縁な日常の三島をものの見事に捉えている。

 三島への愛惜と厚情が彼の末期(まつご)を嘲笑する世間を許すことができなかった。

 江藤淳のこの「『ごっこ』の世界が終ったとき」は明らかな生存中の三島さんへの批判です。そして江藤淳は、三島さんが死んだときにも嘲ったのです。それが私には許せなかった。三島さんの死後に書いた「不自由への情熱」のなかで、私は江藤淳のこの点を避難しました。それを引いてみます。

 三島氏の死に到った行動について、ある著名な評論家が、まるで白昼夢を見ているようで、死んでもなお本気でないようにみえるところがあるなどと、気楽なことを言っていたが、こういうことでは孤独な心の謎などはなにひとつ見えないし、時代のニヒリズムにも初めから目をふさいでいるようなものである。
(「不自由への情熱」『新潮』昭和46年2月号)

 西尾は「江藤が三島を殺した」とまで書いている。つまり江藤の嘲(あざけ)りが三島を決起へと駆り立てたという見方である。江藤淳は西尾より早く論壇に登場したエースで、小林秀雄亡き後は文芸時評の第一人者と目された人物である。その江藤に噛み付く勇気が西尾の気概を示して余りある。傍証として西尾は小林と江藤の対談を挙げる。

小林秀雄●三島君の悲劇も日本にしかおきえないものでしょうが、外国人にはなかなかわかりにくい事件でしょう。

江藤淳●そうでしょうか。三島事件は三島さんに早い老年がきた、というようなものなんじゃないですか。

小林●いや、それは違うでしょう。

江藤●じゃあれはなんですか。老年といってあたらなければ一種の病気でしょう。

小林●あなた、病気というけどな、日本の歴史を病気というか。

江藤●日本の歴史を病気とは、もちろん言いませんけれども、三島さんのあれは病気じゃないですか。病気じゃなくて、もっとほかに意味があるんですか。

小林●いやァ、そんなこというけどな。それなら、吉田松陰は病気か。

江藤●吉田松陰と三島由紀夫は違うじゃありませんか。

小林●日本的事件という意味では同じだ。僕はそう思うんだ。堺事件にしたってそうです。

江藤●ちょっと、そこがよくわからないんですが。吉田松陰はわかるつもりです。堺事件も、それなりにわかるような気がしますけれども……。

小林●合理的なものはなんにもありません。ああいうことがあそこで起こったということですよ。

江藤●僕の印象を申し上げますと、三島事件はむしろ非常に合理的、かつ人工的な感じが強くて、今にいたるまであまりリアリティが感じられません。吉田松陰とはだいぶちがうと思います。たいした歴史の事件だなどとは思えないし、いわんや歴史を進展させているなどとはまったく思えませんね。

小林●いえ。ぜんぜんそうではない。三島は、ずいぶん希望したでしょう。松蔭もいっぱい希望して、最後、ああなるとは、絶対思わなかったですね。
 三島の場合はあのときに、よしッ、と、みな立ったかもしれません。そしてあいつは腹を切るの、よしたかもしれません。

江藤●立とうが、立つまいが……?

小林●うん。

江藤●そうですか。

小林●ああいうことは、わざわざいろんなこと思うことはないんじゃないの。歴史というものは、あんなものの連続ですよ。子供だって、女の子だって、くやしくて、つらいことだって、みんなやっていることですよ。みんな、腹切ってますよ。(小林秀雄・江藤淳「歴史について」『諸君!』昭和46年7月号)

 江藤の見立ては通俗的すぎて、街角インタビューに出てくる主婦と遜色(そんしょく)がない。時代の常識に反するものはおしなべて狂気と受け止められるが、古い常識を覆して新しい常識へと誘(いざな)うのもまた狂気なのだ。無論、狂気とは世間の印象に過ぎなく、時代を揺り動かす人物にとっては正真正銘の正気である。

 その点、小林は傍観者的な冷めた見方ではなく、三島を理解しようとする苦衷(くちゅう)が垣間見える。

 割腹が狂気に映った時、日本の武士道は完全に死んだのだろう。

2018-08-17

三島由紀夫が憂えた日本の荒廃/『三島由紀夫が死んだ日 あの日、何が終り 何が始まったのか』中条省平


『決定版 三島由紀夫全集 36 評論11』三島由紀夫

 ・三島由紀夫が憂えた日本の荒廃

『三島由紀夫の死と私』西尾幹二
『昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』中川右介

 三島由紀夫の死には、政治的な速効性はありませんでしたし、三島自身もそんなことは初めから思ってもいませんでした。しかし、30年以上たった今から考えると、彼の最後の行為は、戦後日本の精神的荒廃への生命を賭した警告という意味が際だって見えてきます。この日本の荒廃を、三島は一貫して、今のインタビュー発言にもあるとおり、「偽善」と呼んでいます。
「偽善」とは、民主主義の美名のもとに人間の生き方や国の政策に関する意思決定を自分でおこなおうとせず、個人と社会と国家のとりあえずの目的を経済成長(つまり金もうけ)のみに置き、精神の空虚を物質的繁栄で糊塗する態度にほかなりません。

【『三島由紀夫が死んだ日 あの日、何が終り 何が始まったのか』中条省平〈ちゅうじょう・しょうへい〉(実業之日本社、2005年)以下同】

 もともと三島由紀夫には興味がなかった。中条省平はフランス文学者だが書評や映画評を書いていて時折り目を惹(ひ)くものがあった。ところがどうだ。中条の文章を読むつもりだった私は完全に三島の虜(とりこ)となった。果たして今、「切腹してまで伝えたいメッセージ」を持つ人物がいるだろうか? 腹を切るのは日本男児として最高の責任の取り方である。政治家も学者も教師も責任逃れの言いわけばかり巧みになり、大人が無責任になってしまった時代のきっかけは、三島の声に耳を傾けなかったところに遠因があると思われてならないのだ。

 佐藤栄作首相(当時)は「憲法改正を考えるならば、他にいろいろな方法があるはずだ。暴力行為に訴える了見はわからない。気が狂っているとしか思えない」と語り、中曽根康弘防衛庁長官(当時)は「世の中にとってまったく迷惑だ」と言い放った。三島の行動を浅墓にもテロと見なした自民党政治は、学生運動の衰退に合わせて腐敗の度を増していった。

佐藤栄作と三島由紀夫/『絢爛たる醜聞』工藤美代子

 多くの人々が嘲笑う中で三島のメッセージを肚(はら)で受け止めた人も少ないながら存在した。作家の森茉莉はこう記した。

「首相や長官が、三島由紀夫の自刃を狂気の沙汰だと言っているが、私は気ちがいはどっちだ、と言いたい。現在、日本は、外国から一人前の国家として扱われていない。国家も、人間も、その威が失われていることで、はじめて国家であったり、人間であったりするのであって、何の交渉においても、外国から、既に、尊敬のある扱いをうけていない日本は、存在していないのと同じである。……三島はこの無風帯のような、日本の状態に、堪えられなかったのと同時に、文学の世界の駘蕩とした、(一部の優秀な作家、評論家は除いて)無感動なあり方にも堪えられなかった」

 敗戦から復興までは駆け足で進んだ。朝鮮特需(1950-55年)をテコにして日本は高度経済成長を迎える。暇な学生たちが大騒ぎをしたのも「食う心配」がなくなったためだろう。マスコミや知識人たちは学生運動の味方をすることで戦争責任の免罪を試みた。かつての軍人は肩身が狭く沈黙を保った。豊かになれば食べ物が余り、そして腐ってゆく。人の精神もまた。








 戦争を工事現場に例える感覚がまったく理解できない。そもそも戦争とは殺し合いなのだ。で、平河某は工事現場で300万人の死者が出ても同じ考え方をするのだろうか?

 戦後の戦争アレルギーが平和ボケとなり、平和ボケがより一層戦争アレルギーを強める。軍事力を持たないチベットやウイグルが中国共産党によって虐殺され、中国が領空・領海侵犯を繰り返し、北朝鮮が核弾頭を日本に向ける現状において、反戦・平和を唱える連中は頭がおかしいと言わざるを得ない。大体、戦争もできない国家が国民を守れるはずがないのだ。

 我々は今こそ三島由紀夫の遺言に耳を傾けるべきだ。

 私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。
 このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。
 日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう。

「果たし得ていない約束」三島由紀夫/サンケイ新聞 昭和45年7月7日付夕刊

 三島の演説に対して自衛官は野次と怒号で応えた。日本人は魂までGHQに占領されてしまったのだ。三島事件こそは東亜百年戦争のエピローグであった。

2018-08-15

数学は論理ではなく情緒である/『春宵十話』岡潔


『天上の歌 岡潔の生涯』帯金充利

 ・数学は論理ではなく情緒である

『風蘭』岡潔
『紫の火花』岡潔
『春風夏雨』岡潔
『人間の建設』小林秀雄、岡潔

必読書リスト その四

 人の中心は情緒である。情緒には民族の違いによっていろいろな色調のものがある。たとえば春の野にさまざまな色どりの草花があるようなものである。
 私は数学の研究をつとめとしている者であって、大学を出てから今日まで39年間、それのみにいそしんできた。今後もそうするだろう。数学とはどういうものかというと、自らの情緒を外に表現することによって作り出す学問芸術の一つであって、知性の文字版に、欧米人が数学と呼んでいる形式に表現するものである。
 私は、人には表現法が一つあればよいと思っている。それで、もし何事もなかったならば、私は私の日本的情緒を黙々とフランス語で論文に書き続ける以外、何もしなかったであろう。私は数学なんかをして人類にどういう利益があるのだと問う人に対しては、スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだと答えて来た。(「はしがき」1963年1月30日)

【『春宵十話』岡潔(毎日新聞社、1963年光文社文庫、2006年/角川ソフィア文庫、2014年)】

 カテゴリーを「エッセイ」にしたが岡潔の口述を毎日新聞社の松村洋が筆記したものらしい。

 この噂を聞きつけた当時毎日新聞奈良支局にいた松村洋が、何度かにわたって岡にエッセイのようなものを書かないかとくどいたのである。
 ところが岡は、自分は世間とは没交渉しているので、またそれで研究時間がおかしくなるのも困るからと、何度も固辞した。そこを粘っているうちに、そこまでおっしゃるなら口述ならかまいませんということになって、陽の目をみたのが「春宵十話」の新聞連載だった。

947夜『春宵十話』岡潔|松岡正剛の千夜千冊

 昭和38年2月10日、岡先生の第一エッセイ集
 『春宵十話』(毎日新聞社)
が出版されました。定価380円。すでに公表された三つのエッセイ「春宵十話」「中谷宇吉郎さんを思う」「新春放談」に、新たに19篇のエッセイ(すべて口述筆記。口述は前年3月から9月にかけて行われました。記録者は松村記者)と一篇の講演記録を合わせて編集されました。「春宵十話」の採録にあたり、若干の加筆訂正が行われました。「はしがき」の日付は「一九六三・一・三○」。「あとがき」の日付は「一九六三年一月」で、執筆者は「毎日新聞大阪本社社会部松村洋」と明記されています。昭和38年を代表する話題作になり、この年、「第17回毎日出版文化賞」を受賞しました。

日々のつれづれ (岡潔先生を語る85)エッセイ集の刊行のはじまり

日々のつれづれ 岡先生の回想

 ダイヤモンドは磨かなければ光を発しない。松村記者の筆記・編集という行為が研磨作業となったのだ。いい仕事である。タイトルは「しゅんしょうじゅうわ」と読む。

 岡潔は「世界中の数学者が挑んでも、1問解くのに100年はかかる、といわれた3大難問を1人で解いた天才で、文化勲章受章者」(佐藤さん講演 | 高野山麓 橋本新聞)。更に「その強烈な異彩を放つ業績から、西欧の数学界ではそれがたった一人の数学者によるものとは当初信じられず、『岡潔』というのはニコラ・ブルバキのような数学者集団によるペンネームであろうと思われていたこともある」(Wikipedia)。つまり天才を二乗したような人物なのだ。

 私が生まれたのは1963年の7月である。『春宵十話』がある世界に生まれて本当によかったと思う。

 岡は戦後の日本に警鐘を鳴らし続けた。編まれた文章のどれもが「黙っておらるか」という気魄(きはく)に貫かれている。

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祖父の教え/『天上の歌 岡潔の生涯』帯金充利


 ・祖父の教え

『春宵十話』岡潔
『風蘭』岡潔
『紫の火花』岡潔
『春風夏雨』岡潔
『人間の建設』小林秀雄、岡潔

 文一郎の教えはただ一つ、
「他人(ひと)を先にして、自分をあとにせよ」
であった。これは、前述したように私財をなげうって村のために尽くした文一郎の言葉だけに、幼い潔の胸にも非常な説得力を持って響いたことだろう。そして文一郎は、この唯一の戒律を潔がきちんと守っているかどうか、遠くから見守ったのであった。戒律というのは自ら進んで守らなければ意味がない。だから「遠くから見守る」ということが非常に大切だったのである。
 そして潔もその教えを徹底的に守り抜いたようである。潔は一時期、八重の自分に対する無条件でひたむきな愛情を利己的な愛情であると言って非難したことがあったというが、それは、母親がわが子を愛するのも「他人(ひと)を先にする」ことに反していると潔が思ってしまったからであった。つまり、文一郎の教えはそれほど徹底していたのである。

【『天上の歌 岡潔の生涯』帯金充利〈おびがね・みつとし〉(新泉社、2003年)】

 数学の天才が情緒を説くに至ったのは幼少時に受けた影響が大きいためか。岡潔は自らの随筆でも幼い日の思い出を実に生き生きと書いている。

 私が私淑(ししゅく)するクリシュナムルティ(1895年生まれ)や竹山道雄(1903年生まれ)とほぼ同世代である(岡は1901年生まれ)。岡潔の著作は当たり外れがあるのだが2~3冊は必読書に入れる予定である。その強いメッセージ性と仏教性が数学者から放たれる意外性に不思議な感興を覚える。

 この世代は前半生を戦争と共に過ごした人々である。祖父の文一郎はたぶん明治以前の生まれだろう。「他人(ひと)を先にして、自分をあとにせよ」との教えは維新後の混乱から導かれたものではなかったか。まだ情報化社会ではなかったがゆえに、人伝(ひとづて)に流れる情報は生々しく社会を動かしたことと想像する。

「他人に譲る」行為は心の余裕によって為(な)されるものである。自分しか見えていない人間には実践することができない。また譲る行為そのものが「競争を拒む」精神に彩られている。「どうぞ」と譲る一言に心の豊かさが凝結している。

 岡文一郎は「橋本市古佐田の丸山公園には、岡博士の祖父・文一郎氏の碑があります。文一郎氏は〝橋本のまちは高野街道と大和街道が交差する交通・文化の要衝〟として、当時、高野口町妙寺にあった伊都郡役所を橋本に移設した人物」(佐藤さん講演 | 高野山麓 橋本新聞)。また同ページによれば。「大人になった岡博士は、数学界の3大難問が解けたのは“祖父の徹底したこの教育があったから”と述懐している」とも。

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2018-08-14

格安ロードバイクを嗤(わら)うことなかれ


55歳から始めるロードバイク

 ・格安ロードバイクを嗤(わら)うことなかれ

余生をサドルの上で過ごす~55歳の野望

 新宿でサイクルメンテナンスブログ)を経営する飯倉清氏の動画である。格安ロードバイクを嗤(わら)うことなかれ。むしろ高価なロードバイクで失敗するよりは、入門用としてお薦めできる。













2018-08-13

ロードバイクという名のマシン/『サクリファイス』近藤史恵


 ・ロードバイクという名のマシン
 ・ツール・ド・フランス

『エデン』近藤史恵
『サヴァイヴ』近藤史恵
・『キアズマ』近藤史恵
・『スティグマータ』近藤史恵
・『逃げ』佐藤喬

 かちり、とシューズがビンディングペダルにはまった。
 こぎ出す瞬間は、少し宙に浮くような、頼りない感覚。だが、それは2~3度ペダルを回すだけで消える。
 ホイールは、歩くよりも軽やかに、ぼくの身体(からだ)を遠くまで運ぶ。サドルの上に載った尻(しり)など、ただの支えだ。緩やかに回すペダルと、ハンドルで、ぼくの身体は自転車と繋(つな)がる。
 この世でもっとも美しく、効率的な乗り物。
 最低限の動力で、できるだけ長い距離を走るために、恐ろしく計算され尽くした完璧(かんぺき)なマシン。これ以上、足すものもなく、引くものもない。空気を汚すことすらないのだ。
 自転車の中でも、より速く走るためだけに、ほかのすべての要素をそぎ落としたのが、ロードバイクだ。

【『サクリファイス』近藤史恵〈こんどう・ふみえ〉(新潮社、2007年/新潮文庫、2010年)以下同】

 書き出しの文章である。即物的で完結な文体がハードボイルド好きには堪(たま)らなく魅力的だ。ロードバイクという名のマシンを雄弁に物語る。ところが主人公のチカこと白石誓〈しらいし・ちかう〉は細やかな精神の持ち主で、普通ならば短所になるであろう優柔さが独特の個性を醸(かも)し出している。文章のハードさと人間の柔らかさのバランスこそが本書の魅力といってよい。

 初めて知ったのだが自転車レースはチーム主体で高専柔道や七帝柔道と同じ考え方をする。チームのエースを支える「アシスト」という役割は、高専柔道の「分け役」とそっくりだ。つまり最初から「勝つことを許されない」メンバーがいるのだ。チーム競技には何らかの犠牲が伴うが(例えば野球のバントなど)、メンバーそのものが犠牲になる競技は少ない。スピードスケートのチームパシュートと少し似ているが順位は飽くまでも個人のものである。

 チカはアシスト役であった。

 ときどき、思うのだ。
 自らの身を供物(くもつ)として差し出した月のうさぎの伝説のように、自分の身体(からだ)をむさぼり食ってもらえれば、そのときにやっと楽になれるのではないかと。
 だが、現実にはそんなことは起こりえない。
 むしろ、それは、ひどく尊大で、人に負担を強いる望みだ。
 だれも、他人の肉を喰らってまで生きたいとは思わないだろう。
 月のうさぎは、美しい行為に身を捧(ささ)げたわけではなく、むしろ、生々しい望みを人に押しつけただけなのだ。

「サクリファイス」(生贄〈いけにえ〉、犠牲)の所以(ゆえん)である。スポーツや芸術は才能で決まる世界だ。才能がない者はいかに努力しても栄冠を手にすることはできない。才能のある者が努力をしてしのぎを削る。トップアスリートとは天に選ばれたほんの一握りのエリートを指す。私は中学生の時、札幌優勝チームの4番打者であったが、自分に野球の才能がないことを思い知らされた。その程度の高みですら真実はわかるものだ。

 どんな分野でもそうだが上の次元を知ることで概念が変わる。趣味としてのサイクリングであっても競技レースの世界を知ることで体の動きが微妙に変化する。スピードと効率が上がれば楽しさも増す。

 ミステリの味付けはスパイス程度で純粋な小説として十分楽しめる。瑕疵(かし)は改行の多さと凝(こ)った名前くらいか。あと、近藤史恵は「身体」(からだ)と書いているが、「身」は妊婦を意味するので「体」と書くべきだろう。

サクリファイス (新潮文庫)
近藤 史恵
新潮社
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2018-08-10

辺境文化とバイタリティ/『石田英一郎対談集 文化とヒューマニズム』石田英一郎


『昭和の精神史』竹山道雄
『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘
『見て,感じて,考える』竹山道雄
『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
『ビルマの竪琴』竹山道雄
『歴史的意識について』竹山道雄
『主役としての近代 竹山道雄セレクションIV』竹山道雄
『みじかい命』竹山道雄

 ・辺境文化とバイタリティ

『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男

辺境文化とバイタリティ

竹山道雄●元に戻しまして、石田さんは、日本人は軽佻であってバイタリティがあるということを書いていますが、軽佻浮薄というと、これはネガティブな価値観をふくんだ言葉ですね。それと関係づけると共に、もっと別な、ポジティブなものを考えたいと思うんですよ。軽佻でバイタリティなものと裏腹をなすものというと、感受性の鋭さとダイナミックであるということではないでしょうか。

石田英一郎●ええ、そうですね。

竹山●だからそう考えるとそのセンシビリティは、『古事記』以来やはり日本人に独特なものです。ダイナミズムのほうが出てきたのは、どうも応仁の乱あたりからで、それまでは、特に激しいバイタリティを示さなかった。人口が少なかったせいもあるでしょうが……。それで、応仁の乱あたりから進取的になって、結局一番実力のある者が天下を統一し、自分の思うままの社会をつくった。つまり「人工作品としての国家」という絶対制をつくったのは信長以来で、それまでは、日本は西洋の昔と同じように多元的であった。それからあとは一元的になったわけです。信長、秀吉のころなどは、おそろしく拡張して、外へ出ていく。ちょうどイギリス人みたいなもので、海賊になって出ていった。それが鎖国のためにふさがれた。その鎖国も、結局実力のある者が天下を治めるためだったので、一種の歴史の流れに沿った絶対制というものをつくったものかと思うんです。
 そこのこまかいところはともかくとして、日本にだけセンシビリティとダイナミズムがあって近代化ができた。日本は東洋での例外であるように思えますが、一体例外なのか、もしそうだとしたらなぜ例外なのかということは大きな問題ですけど、わからないのです。そこのところをひとつやってくださいませんか。

石田●いや、また難しい問題を……。

竹山●むずかしいですね。それに日本じゃ文化の発展が絶えずあったでしょう。イタリアにはローマとルネッサンスだけで、あとはない。16世紀、17世紀と、あとはないといったふうに、よそではポツンとできて、あとはだめになるのが多い。シナなんかも、ぐらいまでは文化的創造力があったけれども、次に来るものがない。日本も、徳川の後半期とか、それからわれわれが学生だった大正、昭和の初めとか、あんな気分が続けば滅びていたと思うんですよ。しかし、いつも新しいものが興って、新しい状態になって生まれかわってきているところは、東洋で日本だけが例外と違いますか。

石田●まあ現実的にそうでしょうね。

竹山●なぜですか。

石田●なぜということを完全に解釈しつくすことは不可能だと思うんです。ぼくの一つの観点としては、いわゆる辺境文化というもの、日本がユーラシア大陸文明のさいはての辺境に位置して、しかも大陸から適当に隔離されていたというその条件は、やっぱり無視できない。イギリスも辺境だったけれども、ドーバーにくらべると、対馬海峡は5倍も広い。そして大陸から外敵の侵入や征服を受けるという危険なしに、今度の大戦まで、とにかく千数百年――まあ建国の事情はどうだったか知らないけれども――適当に隔離された大陸から、自分の好きな文明だけを一方的に吸収していくことが可能であった点ですね。陸続きにいろんなまわりの民族と、侵入したり侵入されたりの、あの対立相剋を繰り返し、異民族にいじめ抜かれたという経験なしに、大陸のおもしろいと思ったものをどんどん取り入れてきた。
 それから辺境文化というものは、一番おくれて何でも進んだ文明を取り入れ取り入れていく。そのうちに今度は文明の中心が、元の発生の地から辺境へと移動していく。どうも世界史の一般的な形式としてそういう傾向が認められます。その意味ではアメリカもソ連も辺境だったし、日本も辺境だった。古代オリエントの文明から見れば辺境にすぎなかった西ヨーロッパに文明のピークが移ったときは、オリエント文明はもとより、これにつづくエーゲ海ギリシア、ローマの文明も衰亡してますし、西ヨーロッパもすでに文化の生命力の衰えを示しはじめているのかもしれません。ところが最後に日本は、まだ生命の焔が下火になる条件が熟さないままに、西ヨーロッパよりももっと長い歴史を経てきたんじゃないか。それで説明の全部にはならないけれども、この世界の一般形式は無視できないだろうと思うんです。
 それで、さっき応仁の乱以後とおっしゃったんですが、その前でも、たとえば大化改新前後は、やはり非常なエネルギーの爆発したものがあったのではないか。船がどれだけ沈んでも、次から次へとこりずに遣唐使を、大陸に送り出す。そして大唐の文明を貪るように吸収しようとした。聖徳太子から大化改新、壬申の乱あたりまでの民族的エネルギーには、応仁の乱以後に似たものが見られないでしょうか。

竹山●応仁の乱ちょっと前、足利時代なんかにも、貿易や海賊なんかずいぶん出ているわけですね。

石田●吉野朝から和冦の話題が見られますし、それからずっと八幡船(ばはんせん)とか御朱印船とか、安土桃山から徳川初期にかかての日本人のヴァイタリティー(ママ)は相当なものだった。

竹山●その辺境にあって、あとからあとからと新しい文明のチャレンジを受ける。その常にチャレンジを受けてリスポンドするアティテュード――心がまえが日本人の中に定着していると、そういうこともいえるでしょうね。

石田●ええ、それはもう主体の側にチャレンジを受けて立つだけの条件が具わっていたということがもちろん前提になるでしょう。しかも侵入や征服のような形式でないチャレンジをほどよく、何度も繰り返して受けてきた。これは大陸の民族とは違った大きな特徴ではないでしょうか。したがって非常にホモジーニアスな、等質的な民族がこの島の上ででき上がった。陸続きにヘテロジーニアスな民族と民族とがひしめき合ったような、ユーラシア大陸と比べて、適度の隔離が、日本の島の中で同質的な文化を持った単一民族を形成せしめた。この単一民族の間では、ことばや、論理を媒介しないでも、いわゆるハラとハラとがツーカーで通じ合えるコミュニケーションの世界が特に形成されやすかったのではないか。それがまた日本人の情緒性の発達とも関係があるだろう、とこんなふうにぼくは考えるわけです。

竹山●異質の文化はあとからあとから入ってきて、日本独特のベールを上へかけて、結局同質に近いようなものにしてしまいますね。

石田●してしまうんですね。それは、ほかから力で押しつけられないからそれができるのではないか。主体性をもって、その点を歴史家は見落としてはならないと思うんです。模倣模倣というけれども、単なる模倣でもないんですね。(『自由』昭和43年8月号)

【『石田英一郎対談集 文化とヒューマニズム』石田英一郎〈いしだ・えいいちろう〉(筑摩叢書、1970年)】

「チャレンジ・アンド・レスポンス」とはアーノルド・J・トインビーの史観で「文明発生の原因は、自然環境や社会環境からの挑戦(チャレンジ)に対する人間の応戦(レスポンス)にある。創造的少数者が大衆を導きながら文明を成長させてゆくが、やがて創造性を失い、支配的少数者になり、文明は挫折する。--------(そこから、宗教的文化を内包した新しい文明が生まれる)」(歴史観(3) 文化史観 | ”現在・過去・未来” 歴史の日暦)というもの。

 親しみが漂う阿吽(あうん)の呼吸で対談が進むのは長年の友情によるものだろう。実はこの二人、同い年で旧制中学(東京府立第四中学校〈現東京都立戸山高等学校〉)~旧制一高以来の友人なのだ。本書に収められている九つの対談のうち三つが竹山との対談である。内容は『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』に先んじるもので、文明史を通して日本の文化や特性を浮かび上がらせる稀有(けう)な視点となっている。

 竹山としては当然、左翼の進歩史観に対する忸怩(じくじ)たる思いがあり、就中(なかんづく)ナチス・ドイツと日本を同列に裁いた東京裁判に対する拭い難い嫌悪感があったに違いない。そこから正視眼に基づく日本文明の再検証を行うところに対談の眼目を置いたのであろう。

 石田が答えた「辺境の地の利」も絶妙な視点である。論理(ロゴス)は神学によって精錬されたが、所詮相手を言い負かす類いの代物だ。異なる民族をまとめ上げるために必要とされたのだろう。ところが日本の場合、侵略-非侵略という関係性の異民族は存在しなかった。パトス(情念)ではなく情緒に向かったところに日本文化の特徴がある(情緒については岡潔を参照せよ)。

 結局、大陸文化の波は日本の岸辺を洗ったが、押し流すまでには至らなかったということなのだろう。変化を好む性格も各時代の波に応じる中で身につけたのだろう。

 個人的には縦に長い国土が同質性の中にも多様性を育む要因になっていると考える。言葉を文化の尺度とすれば方言の豊かさが多様性を示している。

石田英一郎対談集―文化とヒューマニズム (1970年) (筑摩叢書)
石田 英一郎
筑摩書房
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2018-08-08

日本はキングではなくエンペラーを持つ唯一の国/『アンダー・プロトコル 政財暴一体で600億円稼いだ男の錬金哲学』猫組長


 日本ではあまり知られていないがヨーロッパにおいては貴族・王族を保有しているかいないかが、その国の価値を決める一つの基準になっている。民主主義国歌となった現在でも、モナーク(君主)を持っているかいないかは、ナショナルバリューにおいては非常に大きな問題なのだ。あの芸術大国を誇るフランス人の最大のコンプレックスこそ、貴族や王族の不在である。18世紀、世界に先駆けて市民革命を起こしたことで、フランスの貴族や王族は滅亡。そのことで、王室外交においてフランスは格下に置かれたのだ。
 IMFが2017年に発表したデータによれば、世界の名目GDPランキングでフランスはイギリスに次いで6位、デンマークはフィリピンより1つ上の35位である。このように経済規模ではフランスに比べて圧倒的に小国なデンマークだが、外交においては非常に尊重されている。その理由はデンマークが、世界で2番目に古い王室を持っているからである。どれほど巨万の富を築いても「歴史」を買うことはできない。つまり、「歴史」は価値なのだ。その歴史が育むものが「文化や伝統」である。【希少性こそが最も価値を創造する要素であり、唯一無二には高いバリューがある。】
 現在、世界に王室は27しかない。
 その中で一番古い君主こそが日本の天皇である。日本はキングではなくエンペラーを持つ唯一の国。天皇家は古事記と日本書紀を信じれば紀元前660年から、きちんとした資料によれば6世紀以降から続く「万世一系」である。現在の世界の覇権国であるアメリカ大統領が、自分より格上の儀礼としてホワイトタイ(白い蝶ネクタイ)で空港まで迎える人物は、ローマ法王とイギリス女王、そして日本の天皇であることを知らない日本人は多い。
 私は特に特定の思想を持たないプラグマティストであるが、プラグマティックに考えれば「天皇」は国家の価値であり、この歴史が日本の文化や伝統を生んだのだ。

【『アンダー・プロトコル 政財暴一体で600億円稼いだ男の錬金哲学』渡邉哲也監修:猫組長(徳間書店、2018年)】

 経済ヤクザの識見恐るべし。嘘が少ない世界で生きているがゆえに物事の本質がよく見えるのだろう。

 浜島書店編集部編『ニューステージ 世界史詳覧』では日本は紀元前3世紀半ばから始まっており、後漢の後でローマ帝国の後半という時代である。日本に遅れてビザンツ(東ローマ)帝国(4世紀末)、フランク帝国(5世紀)、イングランド王国(9世紀)、神聖ローマ帝国(10世紀)となっている。ま、日本以外は新興国と断言しておくよ(笑)。

 そんな古き歴史もGHQの占領によって断絶されてしまった。殆どの知識人が過去を否定して赤く(社会主義・共産主義)染まった。確か朝日新聞だったと記憶するが「報道で天皇に敬語を使うのはおかしい」というキャンペーンを張っていたことがある。もう30年以上も前の話だ。今日に至っても尚、朝日新聞・毎日新聞は不敬な態度を取り続けている。譲位という言葉を使わないで「生前退位」と報じた。毎日はつい先日、「天皇代替わり」とやったらしい。これほど小馬鹿にされると不敬罪を蘇らせた方がいいように感じてくる。

「天皇制打倒」とのコミンテルンの指示がまだ生きていることに恐れを抱く国民は少ない。他国の意のままに動き、国家を転覆して、別の国家をつくろうとする連中が山程いるのだ。そのマインドコントロールの度合いは宗教のレベルに達している。

 平成の30年間はバブル崩壊に始まり、地下鉄サリン事件、二度の大震災など、とても平成とは思えぬ時代であった。次の元号に「安」の字がついたとしても戦争は避け得ないことだろう。

アンダー・プロトコル: 政財暴一体で600億円稼いだ男の錬金哲学
猫組長
徳間書店
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自転車運動の利点/『大人のための自転車入門』丹羽隆志、中村博司


 ・自転車運動の利点

『ロードバイク初・中級テクニック』森幸春

 自転車運動はそのスピードによって、常に風を受けるので汗が蒸発しやすい運動なのだ。
 自転車運動では、大汗をかきながら苦しい運動をすることなく、汗の蒸発によって体温は適正に保たれる。そのため、必要な心拍数を保ちながら楽しく運動を継続できる。これが、自転車運動の最大のよさかもしれない。

【『大人のための自転車入門』丹羽隆志〈にわ・たかし〉、中村博司(日本経済新聞社、2005年/日経ビジネス人文庫、2012年)以下同】

 文章が硬くて読みにくいが内容はかなり充実している。食事の改善からメンテナンス法まで網羅。エンゾ早川や菊地武洋のような後味の悪さがないだけでも評価すべきか。

 自転車本は良書が少ない。好きなものに対してただ情熱を込めて好きと言われても説得力に欠ける。そこに知性と情緒が加わらなければ読み物としては成り立たない。

 肥満の人は主食(炭水化物)を必ず摂ること。脂肪を燃やすためには炭水化物が必要なので、まったく摂らないのは逆効果だ。

 これは糖質の間違いではないのか? 炭水化物は糖質+繊維である。だが炭水化物=糖質ではない。なぜなら糖質を含む食べ物はごまんとあるからだ(例えば根菜、果物、練り物、乳製品、お菓子など)。糖質が慢性的に不足すると筋肉が細くなるという(タンパク質を分解してアミノ酸からグルコースを合成する)。ただし反論もある。

「糖質制限をすると筋肉が減る」は嘘。根拠なし | 炭水化物は嗜好品

 ま、栄養学なんてえのあ科学とは無縁の学問である。彼らがやってきたことは多くの人々を不健康にしただけといっても過言ではない。そんな曖昧な領域に関して素人が断定的に物を書くべきではない。人の食べ物にまで口を挟む料簡を疑う。

 目立った瑕疵(かし)はこれくらいで他は正確な記述が多い。初心者にとっては有用な一冊である。

大人のための自転車入門 (日経ビジネス人文庫)
丹羽 隆志 中村 博司
日本経済新聞出版社
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2018-08-07

東亜百年戦争/『大東亜戦争肯定論』林房雄


『獄中獄外 児玉誉士夫日記』児玉誉士夫
『日本人の誇り』藤原正彦

 ・東亜百年戦争

・『緑の日本列島 激流する明治百年』林房雄

必読書リスト その四
日本の近代史を学ぶ

 さて、やっと私の意見をのべる番がめぐってきたようだ。
 私は「大東亜戦争は百年戦争の終曲であった」と考える。ジャンヌ・ダルクで有名な「英仏百年戦争」に似ているというのではない。また、戦争中、「この戦争は将来百年はつづく。そのつもりで戦い抜かねばならぬ」と叫んだ軍人がいたが、その意味とも全くちがう。それは今から百年前に始まり、【百年間戦われて終結した】戦争であった。(中略)
 百年戦争は8月15日に終った。では、いつ始まったのか。さかのぼれば、当然「明治維新」に行きあたる。が、明治元年ではまだ足りない。それは維新の約20年前に始まったと私は考える。私のいう「百年前」はどんな時代であったろうか?(中略)

 米国海将ペルリの日本訪問は嘉永6年、1853年の6月。明治元年からさかのぼれば15年前である。それが「東亜百年戦争」の始まりか。いや、もっと前だ。この黒船渡来で、日本は長い鎖国の夢を破られ、「たった四はいで夜も寝られぬ」大騒ぎになったということになっているが、これは狂歌的または講談的歴史の無邪気な嘘である。
 オランダ、ポルトガル以外の外国艦船の日本近海出没の時期はペルリ来航からさらに7年以上さかのぼる。それが急激に数を増したのは弘化年間であった。そのころから幕府と諸侯は外夷対策と沿海防備に東奔西走させられて、夜も眠るどころではなかった。

【『大東亜戦争肯定論』林房雄(中公文庫、2014年/番町書房:正編1964年、続編1965年/夏目書房普及版、2006年/『中央公論』1963~65年にかけて16回に渡る連載)】

 歴史を見据える小説家の眼が「東亜百年戦争」を捉えた。私はつい先日気づいたのだが、ペリーの黒船出航(1852年)からGHQの占領終了(1952年)までがぴったり100年となる。日本が近代化という大波の中で溺れそうになりながらも、足掻き、もがいた100年であった。作家の鋭い眼光に畏怖の念を覚える。しかも堂々と月刊誌に連載したのは、反論を受け止める勇気を持ち合わせていた証拠であろう。連載当時の安保闘争があれほどの盛り上がりを見せたのも「反米」という軸で結束していたためと思われる。『国民の歴史』西尾幹二、『國破れてマッカーサー』西鋭夫、『日本の戦争Q&A 兵頭二十八軍学塾』兵頭二十八、『日本永久占領 日米関係、隠された真実』片岡鉄哉の後に読むのがよい。「必読書」入り。致命的な過失は解説を保阪正康に書かせたことである。中央公論社の愚行を戒めておく。西尾幹二か中西輝政に書かせるのが当然であろう。(読書日記転載)

 目から鱗(うろこ)が落ちるとはこのことだ。東京裁判史観に毒された我々は【何のために】日本が戦争をしてきたのかを知らない。「教えられなかったから」との言いわけは通用しない。朝日新聞が30年にもわたってキャンペーンを張ってきた慰安婦捏造問題や、韓国が世界各地に設置している慰安婦像のニュースは誰もが知っているはずだ。少しでも疑問を持つならば自分で調べるのが当然である。その程度の知的作業を怠る人はとてもじゃないが自分の人生を歩んでいるとは言えないだろう。情報の吟味を欠いた精神態度は必ず他人の言葉を鵜呑みにし、価値観もコロコロと変わってしまう。

 林房雄を1845年(弘化元年)から1945年までを100年としているが、私は、マシュー・ペリーがアメリカを出港した1852年(嘉永5年)からGHQの占領が終った1952年(昭和27年)までを100年とする藤原正彦説(『日本人の誇り』)を支持する。更に言えば東亜百年戦争の準備期間として2世紀にわたる鎖国(1639年/寛永16年-1854年/嘉永7年)があり、日本人が外敵に警戒するようになったのは豊臣秀吉バテレン追放令(1587年/天正15年)にまでさかのぼる。

 つまりだ、15世紀半ばに狼煙(のろし)を上げたヨーロッパ人による大航海時代(-17世紀半ば)の動きを日本は鋭く察知していたのだ。帝国主義の源流を辿ればレコンキスタ(718-1492年)-十字軍(1096-1272年)にまで行き着く。モンゴル帝国が西ヨーロッパまで征服しなかったことが悔やまれてならない。

 こうして振り返れば西暦1000年代が白人覇権の時代であったことが理解できよう。そして大航海時代は有色人種が奴隷とされた時代であった。豊臣秀吉はヨーロッパ人が日本人を買い付けて奴隷にしている事実を知っていたのだ。その後日本は鎖国政策によってミラクルピース(世界史的にも稀な長期的な平和時代)と呼ばれる時代を迎えた。一旦は採用した銃を廃止し得たのも我が国以外には存在しない。

 戦前の全ての歴史を否定してみせたのが左翼による進歩史観である。「歴史は進歩するから昔は悪かった、否、悪くなければならない」という馬鹿げた教条主義だ。これを知識人たちはついこの間まで疑うことがなかった。鎖国も単純に閉鎖的な印象でしか語られてこなかった。武士という軍事力が植民地化を防ぐ力となった事実も忘れられている。

 世界史の動きや日本の来し方に思いを致さず、ただ単に大東亜戦争を侵略戦争だからという理由で国旗や国歌を拒否する人々がいる。しかも児童の教育に携わる教員の中にいるのだ。国家反逆罪で逮捕するのが筋ではないか。いかなる思想・宗教も自由であるべきだが国を否定する者はこの国から出てゆくべきである。

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2018-08-06

「児玉誉士夫小論」林房雄/『獄中獄外 児玉誉士夫日記』児玉誉士夫


『篦棒(ベラボー)な人々 戦後サブカルチャー偉人伝』竹熊健太郎

 ・「児玉誉士夫小論」林房雄

『大東亜戦争肯定論』林房雄
・『われ敗れたり』児玉誉士夫
・『芝草はふまれても 巣鴨戦犯の記録』児玉誉士夫
・『悪政・銃声・乱世 児玉誉士夫自伝』児玉誉士夫
・『われかく戦えり 児玉誉士夫随想・対談』児玉誉士夫
・『随想 生ぐさ太公望』児玉誉士夫
・『児玉誉士夫 巨魁の昭和史』有馬哲夫

 児玉誉士夫を知って早くも30年が過ぎた。互いに仕事の場を異にしているので、会い語る機会は少なかったが、目に見えぬ心の糸はつながっていた。その糸の最も強いものの一つは、この不思議な人物がときどき発表する自伝風の著書である。
 巻数は少なかったが記された文字のすべてが、強く私の胸を打った。私も長く文字の道にたずさわっている者の一人だから、文章の真贋だけはわかるつもりだ。この人は嘘の言えない人、嘘を行えない人である。爆発する激情のみに身をまかせて生きてきた行動家であるかのような印象を、世間の一部の人々は持っているかもしれぬが、そんな単純な人物ではない。深い内省と謙虚を内に蔵している。生れながらの叛骨と権力者嫌いは生涯消えることはないであろうが、あふれる温情を胸底に秘めて、人情の正道を歩き通した。肩をいからした国士面と強面(こわもて)の愛国者顔のきらいな、永遠の憂国者。常に迅速、果断な行動によって裏づけられる適確無比の洞察力と決断力は、これまた天与のものであろう。ある公開の席上で、私は彼を「天才」と呼んだことがあるが、決してお世辞ではなかった。(「児玉誉士夫小論」林房雄、以下同)

【『獄中獄外 児玉誉士夫日記』児玉誉士夫〈こだま・よしお〉(アジア青年社出版局、1943年/広済堂出版、1974年)】

 ま、酒呑みの言葉をそのまま信用するほど私は初(うぶ)ではない。三島由紀夫も最後は林房雄に対して厳しい評価をせざるを得なかった。児玉誉士夫もまた毀誉褒貶(きよほうへん)の激しい人物である。この二人には似た面影(おもかげ)がある。良い意味でも悪い意味でも日本人的なのだ。志は清らかなのだが清濁併せ呑むことで自身を汚(けが)していったようなところがある。振り返れば大東亜戦争における旧日本軍もまた同様であった。

 意外と知られていないことだが児玉誉士夫は創価学会と間接的な縁がある。大日本皇道立教会(1911年設立)には牧口常三郎(創価学会初代会長)や戸田城聖(同二代会長)に遅れて参加しているし、岸信介と親(ちか)しいところも共通している。すなわち戦後の保守における本流にいたことは間違いないと思われる。

 私が児玉に注目したのは神風(しんぷう)特別攻撃隊の生みの親である大西瀧治郎中将(ちゅうじょう)の末期(まつご)に立ち会ったことを知った時である。

 終戦を迎えた翌日、1945年8月16日に児玉と懇意にしていた大西が遺書を残し割腹自決した。児玉誉士夫も急行し、駆けつけた児玉に「貴様がくれた刀が切れぬばかりにまた会えた。全てはその遺書に書いてある。厚木の小園に軽挙妄動は慎めと大西が言っていたと伝えてくれ。」と話した。児玉も自決しようとすると大西は「馬鹿もん、貴様が死んで糞の役に立つか。若いもんは生きるんだよ。生きて新しい日本を作れ」といさめた。

Wikipedia

継母への溢れる感謝/『新編 知覧特別攻撃隊 写真・遺書・遺詠・日記・記録・名簿』高岡修編

「児玉は死期が近づいた時、『自分はCIAの対日工作員であった』と告白している」(Wikipedia)。正力松太郎(元読売新聞社主)もポダムというコードネームを持つ工作員だった(『日本テレビとCIA 発掘された「正力ファイル」』有馬哲夫)。保守というよりは反ソ感情を利用されたのだろう。敵の敵と組むことには一定の利がある。やがては大きすぎる利に目が眩(くら)んだのかもしれない。

 敗戦後、独立独歩の道を塞(ふさ)がれた日本はGHQの占領期間において完全なコントロール下に置かれたと見てよい。それは今もなお解けない呪縛だ。

 児玉誉士夫は酒を飲まない。飲めないのではなく、飲まない。
 まだつきあいの浅かったころは、これは体質的なもので、即ち“下戸”なのだろうと思っていた。私の方は親譲りの“上戸”で、豪酒というよりも暴酒というべき、浴びるような飲み方をして、乱に及ぶこともしばしばであった。見兼ねたのであろう、彼は時折り私に言った。
「あんたは酒をつつしみなさい。わたしは、このとおり飲まぬ」
 その言葉の意味がわかったのは、だいぶ後になって、彼自身の口から次のような告白を聞いた時であった。
 若いころには、人並みに飲み、飲めばいい御機嫌にもなり、つきあいとなれば酒場の梯子も辞さなかった。ある晩、酒場のカウンターで友人たちとグラスを片手に放談し、さて帰ろうとして気がつくと、上着の背が鋭い刃物で縦一文字に切り裂かれていた。
「これはいけない」と思ったそうだ。「生死の覚悟というような問題ではない。酒場で酔って刺されるなどは男の名誉ではないし、しかも、刺されたのならまだしも、背中に刃物を当てられて、それに気がつかなかったというのは醜態以外何物でもない。こんな飲み方と酔い方はやめよう」
 以来、飲めないのではなく【飲まない】児玉誉士夫が生れた。

 国士とか壮士の気風が確かに残っているエピソードである。上場企業の社長がTシャツで公の場に出てくる時代は、もはや正すべき襟(えり)すらないのだろう。信念とは誰も見ていないところで貫かれるものである。口にして宣伝する道具ではない。

 児玉がCIAの工作員であることを吐露したのは、CIAに裏切られたためではあるまいか。そんな気がしてならない。日本人は人が好(よ)すぎて国際関係で失敗することが多い。最大の原因は情報機関と国軍がないことに因(よ)る(『インテリジェンスのない国家は亡びる 国家中央情報局を設置せよ!』佐々淳行)。帝国主義はまだ死んでいない。先進国と名前を変えてのうのうと生き続けている。

獄中獄外―児玉誉士夫日記 (1974年)
児玉 誉士夫
広済堂出版
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2018-08-04

川内康範の侠気(きょうき)/『篦棒(ベラボー)な人々 戦後サブカルチャー偉人伝』竹熊健太郎


『仮面を剥ぐ 文闘への招待』竹中労
『蓮と法華経 その精神と形成史を語る』松山俊太郎

 ・川内康範の侠気(きょうき)

「児玉誉士夫小論」林房雄/『獄中獄外 児玉誉士夫日記』児玉誉士夫

 海外同朋の遺骨引揚げ運動は10年間も続くんです。1955年までですよ。このとき俺に協力してくれたのが竹中労なんだ。

 ――竹中さんといえば、当時はバリバリの共産党員だったのでは?

 そうだよ。僕は竹中を通じて共産党の実態を知ったんだ。彼はのちに共産党を脱党してフリーライターになるけど、その間も僕と竹中のつきあいはずっと続いていた。右翼から見ると「川内は左翼とつきあっていておかしいんじゃないのか」っていわれるんだ。隠れ左翼じゃないのかという声も出てくる。でも「民族派の人間がどう思おうと勝手だ。俺は俺の信念でやっているんだ」と思っていたよ。

 ――実は今回、先生の記事を過去にさかのぼって調べさせていただきましたが、一番驚いたのは、先生は昭和天皇の戦争責任についてはっきり「ある」とおっしゃっていますね。

 僕は陛下の真意として、戦争を望まれたとはけっして思っていない。あれはまわりの軍人や政治家が天皇を利用してああなったんだよ。しかしね、開戦の勅語(ちょくご)に陛下は署名されただろう。その意味での責任は、やはりあると思う。僕は児玉誉士夫さんと会って、「私は天皇に戦争責任があると思う。だから(終戦に際して)自分はどうなってもいいと陛下はおっしゃったんじゃないのか」っていった。児玉さんも「私もそう思う。けれど、そうおっしゃられた陛下を、われわれ日本人がこれ以上責めるのはいかがなもんだろう」っていうんだ。その気持ちも理解できるよな。それ以来、児玉さんとも友だちになったよ。

 ――竹中労さんは、天皇の戦争責任問題に対し最後まで追及すべきだという姿勢でしたよね。

 そう、竹中はそういうことは僕にしかくわしくいわないよ。それはともかく、一緒に沖縄で遺骨を引揚げながら思ったね。この人たちはいったい誰のために死んだんだと。生き残った人間は死者の気持ちを踏みにじっていないか。遺骨は千鳥が淵に納めるしかない。マレーシアからベトナム、カンボジアと僕は遺骨引揚げのために何回もまわった。政府からは援助がないので、自費で出かける。原稿料で稼ぐしかないから、書きまくりましたわ。
 そのうち遺骨の引揚げ援護費が認められたんだ。園田直氏が厚生大臣をやっていた頃ですよ。「川内さんやっと許可が下りたよ」って、園田さんと二人で乾杯しましたよ。児玉さんもロッキード事件であんなことになったけれど、遺骨の引揚げ運動に関しては協力的でしたよ。船をひとつ借りて引揚げなければ、とてもじゃないけれどらちがあかない。それには少なくとも2~3億はかかる。60年代の話ですよ。現在の額に直したらもっとでしょ。児玉さんは「金は用意する」っていってくれたんだが……。用意しているかしていないうちにロッキード事件の心労で倒れたんだよ。病院から出てきた児玉さんから電話をもらって、「金は用意してあったけれど、この事件で銀行の金も動かせない。川内さん、わかってくれ」といわれた。児玉さんは民族派の中でもきちんと筋を通す人だったね。児玉さんと話をすれば、一方で竹中ともつきあう。竹中には俺が何をやったかは書くなといってある。だから彼の書いたものに僕の名前はほとんど出てこないんだ。竹中が「ゴラン高原に行きたい」っていえば、100万を渡してやる。ゴラン高原に行きたいというのは、つまりは赤軍派に会うってことだよ。なのに右翼の俺が金を出す(笑)。彼には彼なりの志があるから俺は協力するんだ。

【『篦棒(ベラボー)な人々 戦後サブカルチャー偉人伝』竹熊健太郎〈たけくま・けんたろう〉(河出文庫、2007年)】

 康芳夫〈こう・よしお〉、石原豪人〈いしはら・ごうじん〉、川内康範〈かわうち・こうはん〉、糸井貫二〈いとい・かんじ〉のインタビュー集である。竹熊の作戦勝ちともいうべき内容で、「謀(はかりごと)を帷幄(いあく)の中に運(めぐ)らし勝つことを千里の外(ほか)に決す」(漢書)意気込みすら窺える(笑)。「戦後サブカルチャー偉人伝」とあるが、とてもサブカルの領域に収まる面々ではない。戦前の大陸浪人や明治維新の志士を思わせる雰囲気が漂う。世間から見れば型破りなのだが、彼らなりの信念・哲学がさらりと語られていて引きずり込まれる。

 侮れないのは戦前・戦後の貴重な証言がちりばめられていることで、学術書からは窺い知れない当時の生々しい世情が伝わってくる。彼らはエリート官僚とは正反対に位置する浪人といってよい。自由を論じる人物は多いが、自由に生きる人は稀(まれ)だ。そんな稀有(けう)の生きざまがここにはある。

篦棒な人々ー戦後サブカルチャー偉人伝 (河出文庫 た 24-1)
竹熊 健太郎
河出書房新社
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