2019-12-19

ハリケーン・カトリーナとウォルマート/『アナタはなぜチェックリストを使わないのか? 重大な局面で“正しい決断”をする方法』アトゥール・ガワンデ


・『予期せぬ瞬間』(『コード・ブルー 外科研修医救急コール』改題)アトゥール・ガワンデ

 ・読書日記
 ・ハリケーン・カトリーナとウォルマート

・『医師は最善を尽くしているか 医療現場の常識を変えた11のエピソード』アトゥール・ガワンデ
『死すべき定め 死にゆく人に何ができるか』アトゥール・ガワンデ

必読書リスト その二

 その結果は悲惨だった。水と食糧を満載したトラックは、「我々が頼んだものではない」と政府に追い返された。避難用のバスの手配は何日も遅れ、正式な要請が運輸省に届いたのは、数万人が閉じ込められてから二日後のことだった。地元のバス200台が高地にあったのだが、それらは全く使われなかった。
 政府が決して非情だったというわけではない。だが、複雑な事態に対処するためには権限をできる限り分散させる必要がある、ということを理解していなかった。これが致命的だった。誰もが助けを求めていたが、権限を中央に集中させた政府の救援策は機能しなかった。
 後日、国土安全保障省長官のマイケル・チャートフは「誰にも予想できない、想定の枠をはるかに超えた大災害だった」と弁明した。しかし、それこそがまさしく「複雑な問題」の定義なのだ。それに対処するのが彼らのしごとなのだから、何の説明にもなっていない。「複雑な問題」に対処するには、昔ながらの一極集中の指令システムではなく、別の方法が必要なのだ。
 ハーバード・ケネディスクールの事例研究によれば、この複雑な状況に一番うまく対応したのは大手量販店のウォルマートだった。状況を伝え聞くと、社長のリー・スコットは「わが社はこの最大級の災害に対応していく」と宣言した。そして、ミーティングでこう言った。「自分が持つ権限以上の決断をくださなければならない状況もたくさん発生すると思う。手元にある情報を元にベストの決断をしろ。そして何より、正しいことをしろ」
 社長の命令はそれだけだった。(中略)
 ウォルマートの各店長は自主判断でおむつ、水、粉ミルク、氷を配り始めた。(中略)
 ウォルマートの役員は、細かい指示を出すのではなく、情報が円滑に伝達されるように全力を注いだ。(中略)
「アメリカ政府がウォルマートのような対応をしていれば、このような惨状は防ぐことができただろう」ジェファーソン郡の長官、アーロン・ブルッサードはテレビのインタビューでそう語った。

【『アナタはなぜチェックリストを使わないのか? 重大な局面で“正しい決断”をする方法』アトゥール・ガワンデ:吉田竜〈よしだ・りゅう〉訳(晋遊舎、2011年/原書2009年米国)】

 関連本は読書日記で紹介したので、こちらでは刊行順のリストにした。

 元々読むつもりのなかった本だ。ただアトゥール・ガワンデという著者を辿っただけのことだ。チェックリストに興味を抱く人はまずいないだろう。ところがどうだ。のっけから引き込まれた。恐るべき文才である。複雑化する医療業界にチェックリストを導入することで事故率の減少を目指す奮闘ぶりが骨子であるが、そこに至るまでのエピソードが短篇小説の如く鮮やかに描かれている。なかんづくハリケーン・カトリーナと航空機事故の件(くだり)が忘れられない。

 ヒトの最大の能力は「協力する」ところにある。人類における諸々の革命的な文明の変遷はいずれも集団の変化を示すものだ。一般的には1.農業革命、2.精神革命、3.科学革命とされるが、ユヴァル・ノア・ハラリは認知革命(0.5)を示した。他にも都市革命(2.5)を入れる場合がある。

 ヒトが社会的動物である以上、あらゆる集団・結社は何らかの公益を目的とする。公益を見出さなければ人類が血縁・地縁を超えることはなかったに違いない。ブラック企業や反社会的勢力が追求するのは私益のみだ。連中にはかつての暴力団ほどの連帯意識もない。

 高度経済成長期においてサラリーマンは「猛烈」を体現し、家庭よりも仕事を優先するのが当たり前だった。会社は家族そのものであり定年まで人生を捧げるのが普通だった。バブル景気が崩壊した後、そうした文化はすっかり廃(すた)れてしまったが、派遣社員であれパートタイマーであれ会社に身を置く以上は何らかの自己犠牲と協力、公益追求が求められる。

 ハリケーン・カトリーナ(2005年8月)は北米を襲った最大の台風被害である。

動画

 ウォルマートの社長が「正しいことをしろ」と命じたのは、言い換えれば「社会に尽くせ」ということだろう。社員はそれに応えた。ものの見事に。政府の混乱を尻目にウォルマートは為すべきことを成し遂げた。スーパーマーケットが利益を捨てて公益を優先した。人々は救われた。

 平時の理想よりも有事の行動である。百万言を費やすよりも無死の行動が優(まさ)る。ウォルマートは社会に必要な会社となった。晴れがましく誇らしい社員の顔が浮かんでくる。株価では表せないほどの財産がウォルマートを長く発展させることだろう。


コーネル大学・社団法人新日本スーパーマーケット協会2011年特別セミナー | Retailers

2019-12-16

アラン・ワッツ


・『「ラットレース」から抜け出す方法』アラン・ワッツ
『アファメーション』ルー・タイス
『ニューソート その系譜と現代的意義』マーチン・A・ラーソン

 ・アラン・ワッツ

 と回想するのはアラン・ワッツ、のちに『禅の道』を著し、仏教思想の国際的な権威になる級友だ。

【『ナチュラル・ボーン・ヒーローズ 人類が失った“野生”のスキルをめぐる冒険』クリストファー・マクドゥーガル:近藤文隆訳(NHK出版、2015年)】

 意外な本の意外な箇所でアラン・ワッツの名を見てビックリした。「仏教思想の国際的な権威」と受け止められているのか。私からすれば「禅を騙ったニューエイジ」にしか見えないのだが。

中国帰化人の子孫たちが沖縄の親中政策を推進/『いま沖縄で起きている大変なこと 中国による「沖縄のクリミア化」が始まる』惠隆之介


『「悪魔祓い」の戦後史 進歩的文化人の言論と責任』稲垣武
『こんな日本に誰がした 戦後民主主義の代表者・大江健三郎への告発状』谷沢永一
『悪魔の思想 「進歩的文化人」という名の国賊12人』谷沢永一
『誰が国賊か 今、「エリートの罪」を裁くとき』谷沢永一、渡部昇一

 ・中国帰化人の子孫たちが沖縄の親中政策を推進
 ・国民の血税を中国に貢ぐ沖縄

『北海道が危ない!』砂澤陣
・『なぜ彼らは北朝鮮の「チュチェ思想」に従うのか』篠原常一郎、岩田温
『これでも公共放送かNHK! 君たちに受信料徴収の資格などない』小山和伸
『ちょっと待て!!自治基本条例 まだまだ危険、よく考えよう』村田春樹
『実子誘拐ビジネスの闇』池田良子
『自治労の正体』森口朗
『戦後教育で失われたもの』森口朗
『日教組』森口朗
『左翼老人』森口朗
『愛国左派宣言』森口朗
『敵兵を救助せよ! 英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長』惠隆之介

必読書リスト その四

 琉球が中国の冊封体制下に入ったのは、明の皇帝が琉球に朝貢を求めてきた1372年のこととされている。明は冊封国に中国人を在留させ、朝貢貿易の政務を担当させる朱明府を置いた。これは冊封国の動静を監視し、間接支配するための施設である。琉球は薩摩藩が侵攻する1609年まで、その監督下に置かれていた。
 那覇市内に「久米」(クニンダー)と呼ばれる地域がある。いまでこそ那覇と陸続きになっているが、18世紀ごろまでは「浮島」と呼ばれる島であった。
 その久米は、「三十六姓」と呼ばれる中国帰化人の子孫たちの居住区として、一種の租界を形成していたといえる。そして琉球は、この久米の中国帰化人子孫たちによって、間接支配されてきたのである。
 ここでは19世紀になっても中国語が話されており、彼らは日清戦争の終了まで、沖縄を中国圏に留めようと画策していた。そして現在も県民の3000人以上が彼らの子孫を自認しており、約10億円の共有預金と会館を有し、いまなお団結は強い。
 仲井眞知事稲嶺惠一知事はいずれも、この久米三十六姓の子孫である。知事選に当たっては、稲嶺氏は中国帰化人「毛家」の子孫であることを、仲井眞氏は「蔡家」の子孫であることを、リーフレットで誇っていた。(中略)
 現代においてもなお、こうした中国帰化人の子孫たちが中心となって、沖縄の親中政策が推進されている。

【『いま沖縄で起きている大変なこと 中国による「沖縄のクリミア化」が始まる』惠隆之介〈めぐみ・りゅうのすけ〉(PHP研究所、2014年)】

 沖縄は歴史を利用され、北海道は歴史の空白が利用されている。実に巧妙な手口だ。沖縄の振興予算から数億円単位のカネが中国に渡っている実態には驚かされた。

 沖縄は更にチュチェ思想の総本山と化している。チュチェ思想研究会連絡会の会長は佐久川政一〈さくがわ・せいいち〉沖縄大学名誉教授。米軍基地の一坪反戦地主を主導している人物でもある。こんなのが護憲を叫ぶのだからお里が知れるというものだ。


 こうした背景を踏まえた上で沖縄県民の民意と日本国民の意志とを擦り合わせる必要がある。数年以内に米軍は沖縄から撤退することだろう。

もはや左傾化ではなく亡国の道を進む北海道と沖縄/『北海道が危ない!』砂澤陣


『「悪魔祓い」の戦後史 進歩的文化人の言論と責任』稲垣武
『こんな日本に誰がした 戦後民主主義の代表者・大江健三郎への告発状』谷沢永一
『悪魔の思想 「進歩的文化人」という名の国賊12人』谷沢永一
『誰が国賊か 今、「エリートの罪」を裁くとき』谷沢永一、渡部昇一
『いま沖縄で起きている大変なこと』惠隆之介

 ・もはや左傾化ではなく亡国の道を進む北海道と沖縄
 ・「アイヌ」民族は学術的に定義されていない

小野寺まさる:北海道が日本で無くなる日~中国の土地爆買いとアイヌ新法の罠[R2/5/4]
茂木誠:アイヌは樺太から避難してきた渡来人
・『なぜ彼らは北朝鮮の「チュチェ思想」に従うのか』篠原常一郎、岩田温
『これでも公共放送かNHK! 君たちに受信料徴収の資格などない』小山和伸
『ちょっと待て!!自治基本条例 まだまだ危険、よく考えよう』村田春樹
『実子誘拐ビジネスの闇』池田良子
『自治労の正体』森口朗
『戦後教育で失われたもの』森口朗
『日教組』森口朗
『左翼老人』森口朗
『愛国左派宣言』森口朗

 冒頭から北海道と沖縄の共通点の悪いところばかりを並べ立てて少し心苦しいのだが、もう一つ最悪な共通点が存在する。
 それは、「迅速、正確に報道し、公正な社論によって健全な世論を育てる」(北海道新聞編集綱領)べきマスメディアであるにもかかあらず、正論、公正とは思えない報道で、時には事実を歪曲し、一方的な主義・主張に基づいて書き立てている地元新聞社の存在である。
 最近はインターネットでも「沖縄タイムス」や「琉球新報」の記事を読むことができるので、目を通すようにしているのだが、この2紙の一面的な報道姿勢には呆れるばかりだ。地域や新聞社によって、記事に特色が出るのは当然だが、基地問題やいわゆる琉球独立論などの記事を読むたびに、「沖縄の人たちはこの新聞を読んで、どう思い、考えているのだろう?」と心配になってしまう。
 私の地元、北海道にも、朝刊約100万部、夕刊約45万部、北海道の新聞購入世帯の約4割という圧倒的なシェアを持つ北海道新聞(通称・道新)がある。その報道ぶりも沖縄に負けてはいない。詳しくは本書で述べるが、道新のアイヌを擁護する論調は果たして公正な報道と呼べるだろうか。(中略)
 時折、朝日新聞を読むが、「吉田調書」(誤報問題)と「吉田証言」(慰安婦報道問題)で、偏向報道の代名詞となった朝日新聞ですら「まとも」と感じてしまう。
 ちなみに、その道新がことのほか熱心に行っていることといえば、世界中のジャーナリストや人権団体が「報道の自由の敵」と非難している中国共産党との交流である。驚くことに、道新と中国共産党の機関紙である「人民日報」との間には人事交流もあるという。

【『北海道が危ない!』砂澤陣〈すなざわ・じん〉(育鵬社、2016年/扶桑社オンデマンド、2019年)】

 全北海道民必読の一書である。道産子の私は衝撃を受けた。

 冒頭では小中学校の学力の低さ、離婚率の高さ、地下が安いにもかかわらず持ち家率が低い、非正規雇用の割合も高く、国からの補助金が多い、にもかかわらず地域経済が上向かないなどの共通点が挙げられている。北海道は更に日教組の牙城でもある。私は義務教育の過程で「君が代」を歌ったことは一度しかない。それも音楽の授業でである。国旗に敬意を示すことも教わらなかったし、まして天皇に対する感情などこれっぽっちもなかった。東京と比べるとまず神社が少なく寺の規模も小さい。「北海道に入植した人々は受け継ぐべき畑のなかった次男、三男が多かったことだろうし、土地に対する執着が少なく、地域住民のつながりも弱い」と私は考えてきたのだが浅はかだった。

 砂澤陣はアイヌである。その砂澤が言うには「そもそもアイヌ民族の定義すら定かでない」とのこと。古くは北海道を蝦夷(えぞ/えみし、えびす、とも)と称した。蝦夷=アイヌである。彼らはアイヌ語を母語とする人々であるが、これを人種概念に結びつけると飛躍しすぎる。文化が異なるのは確かだが、縄文人の末裔(まつえい)でバラバラの部族がたまたま北海道に暮らしていたというのが真相に近い。私の幼馴染にもアイヌの兄妹がいたが特に差別意識を抱いたことはなかった。

 中国の経済的侵略と北朝鮮による思想侵略(チュチェ思想)の実態を知れば、もはや左傾化ではなく亡国の道を進む北海道と沖縄の姿が浮かび上がってくる。北海道人は鷹揚(おうよう)で、のんびりまったりしているのが常であるが、直ちに本書を読んで目を覚ませと申し上げたい。


不自然な姿勢が健康を損なう/『サピエンス異変 新たな時代「人新世」の衝撃』ヴァイバー・クリガン=リード


『悲鳴をあげる身体』鷲田清一
『ことばが劈(ひら)かれるとき』竹内敏晴

 ・不自然な姿勢が健康を損なう
 ・サンセベリアの植え替え

『ケリー・スターレット式 「座りすぎ」ケア完全マニュアル 姿勢・バイオメカニクス・メンテナンスで健康を守る』ケリー・スターレット、ジュリエット・スターレット、グレン・コードーザ
『病気の9割は歩くだけで治る! 歩行が人生を変える29の理由 簡単、無料で医者いらず』長尾和宏
『ウォーキングの科学 10歳若返る、本当に効果的な歩き方』能勢博
『本当のナンバ 常歩(なみあし)』木寺英史
『健康で長生きしたけりゃ、膝は伸ばさず歩きなさい。』木寺英史
『常歩(なみあし)式スポーツ上達法』常歩研究会編、小田伸午、木寺英史、小山田良治、河原敏男、森田英二
『トップアスリートに伝授した 勝利を呼び込む身体感覚の磨きかた』小山田良治、小田伸午
『間違いだらけのウォーキング 歩き方を変えれば痛みがとれる』木寺英史
『一流の頭脳』アンダース・ハンセン
『トレイルズ 「道」と歩くことの哲学』ロバート・ムーア
『脚・ひれ・翼はなぜ進化したのか 生き物の「動き」と「形」の40億年』マット・ウィルキンソン
『クレイジー・ライク・アメリカ 心の病はいかに輸出されたか』イーサン・ウォッターズ
『アルツハイマー病は治る 早期から始める認知症治療』ミヒャエル・ネールス
『あなたの体は9割が細菌 微生物の生態系が崩れはじめた』アランナ・コリン
『心を操る寄生生物 感情から文化・社会まで』キャスリン・マコーリフ
『土と内臓 微生物がつくる世界』デイビッド・モントゴメリー、アン・ビクレー
・『ナチュラル・ボーン・ヒーローズ 人類が失った“野生”のスキルをめぐる冒険』クリストファー・マクドゥーガル
『小麦は食べるな!』ウイリアム・デイビス
『シリコンバレー式自分を変える最強の食事』デイヴ・アスプリー
『医者が教える食事術 最強の教科書 20万人を診てわかった医学的に正しい食べ方68』牧田善二
『医者が教える食事術2 実践バイブル 20万人を診てわかった医学的に正しい食べ方70』牧田善二

身体革命

 固定された姿勢で座る人は、反復運動過多損傷(RSI)、眼精疲労、座骨神経痛、そのほか座った生活や労働に関連する多数の病気のどれかに苦しむことを避けられない。
 このライフスタイルが私の腰痛の原因である。私の身体が現代生活を送るには軟弱すぎたわけではなく、人体はそもそもこのような生活を送るようにできていないのだ。現在では、どのような姿勢であれそのまま動かないことが腰痛の原因の一つであることが知られている。

【『サピエンス異変 新たな時代「人新世」の衝撃』ヴァイバー・クリガン=リード:水谷淳〈みずたに・じゅん〉、鍛原多惠子〈かじはら・たえこ〉訳(飛鳥新社、2018年)以下同】

 勝間和代が推(お)していた本だ。確かウォーキングについて検索していてヒットしたのだと記憶している。

毎日1万歩を歩くため、とりあえず、スマートウオッチを新しいのにしました。Huaweiの最新のやつ。 - 勝間和代が徹底的にマニアックな話をアップするブログ

 序盤から中盤にかけての構成が悪いのだがそれ以降は一気読みだ。現代病や生活習慣病の原因は椅子に長時間坐っていることに由来する。もちろん椅子が悪いわけではない。「動かない」生活が問題なのだ。元々義務教育は軍隊の前段階として生まれた。学校教育は児童を椅子に坐らせるところから始まる。じっとしていることが規律なのだ。

 文明の発達は身体の自由を奪った。工場労働者、タイピストからプロスポーツ選手に至るまで殆どの人々が同じ動きを繰り返すことで体の調子を狂わせている。

 この本を読んでいる方々の多くは、自然死ではなくミスマッチ病による死を迎えるはずだ。だがそれは、正しい(あるいは誤った)DNAを持って生まれてきたからではない。ミスマッチ病は、身体とその身体が置かれた昨今の環境との緊張関係によって生じると考えられている。
 これらの病気はいずれも私たちにはなじみ深い。たとえば、2型糖尿病は人類の誕生時から存在したものの、旧石器時代のヒト族(ホミニン)の環境と食事ではこの病気の遺伝子が発現することはほとんどなかった。当時、この病気につながるような加工食品も甘い食品も存在しなかった。時を200万年下ると、同じ遺伝子が有害な環境にさらされている。いまや、アボカド1個よりジャム入りドーナツを一袋買うほうが安い。
 初期人類はおそらく1年に大さじ10杯ほどの糖を摂(と)ったと思われるが、現代の欧米諸国ではこれが毎日の糖摂取量だろう。


 2型糖尿病は生活習慣病と言われるが確かな原因は判っていない。ただ、食事+運動不足+マイクロバイオームの変調は確かだろう。個人的には炭水化物に傾いた食事が最要因と考えてきたが、昔の日本人は現代人よりもずっと多くのご飯を食べていた。だとすると飽食、特に砂糖、植物油、食品添加物、防腐剤、抗生物質などが複合した結果なのだろう。

 ヒトの骨格は立つようにできている。人類の特徴として二足歩行が挙げられるが、進化を生き抜いた最大の要素は二足走法にあった。ヒトは動物の中で最も長距離を移動できるのだ。そして走ることと投擲(とうてき)能力が狩猟に生かされた。我々の祖先は肉(タンパク質)を食べることで脳が一段と大きくなった。

 一般的な歩行速度は時速4kmとされる。これが時速8kmを超えるとランニングの方がエネルギー消費量が少なくなる。土踏まずのアーチは地面からの反力を利用するためのショックアブソーバーとして働く。つまり足の構造は走るようにできているのだ。

 私は先月からランニングを開始したが早速効果があった。40歳頃から無呼吸症候群を発症し、更に寝返りを打っていないことに気づいた。朝起きると長時間クルマの運転をした時のようなダルさが腰に溜まっていた。通常は左向きの姿勢で寝るのだが最近はなぜか仰向きになっていた。2~3回走ると自然に寝返りを打つようになっていた。これは驚きだ。寝返りの仕組みがよくわからないのだが、自律神経系にスイッチが入ったのだろうと考えている。少しばかり体が目覚めたと言ってよい。


口と手の形は、その主食の種類によって決められる/『『親指はなぜ太いのか 直立二足歩行の起原に迫る』島泰三
文明の発達が国家というコミュニティを強化する/『文明が不幸をもたらす 病んだ社会の起源』クリストファー・ライアン

2019-12-15

損保ジャパンは最悪の保険会社(直ちに乗り換えを!)











玄米の解毒作用/『がん患者は玄米を食べなさい 科学が証明した「アポトーシス&免疫活性」のすごい力』伊藤悦男


 ・玄米の解毒作用

玄米菜食療法を行ったが癌が悪化
玄米毒
煎り玄米と揚げ玄米

 研究は三十数年にも及びました。
 その結果、私たちが解明したのが、玄米のうちのいわゆる米ぬかの部分に含まれるRBFという物質の作用機序です。このRBFは、がん細胞が生きていくために必要なエネルギーを熱に変えてしまい、無駄に使わせることで、エネルギーを補給できなくする機能を持っています。つまり、がん細胞を“兵糧攻(ひょうろうぜ)め”にするわけです。これによってがん細胞はDNAが断ち切られ、分裂できなくなります。こうしてがん細胞の自己死(アポトーシス)を導くプログラムが働くのです。
 また、玄米にはもうひとつ、RBAという抗がん成分が含まれていることも、私たちが解明しました。このRBAは多糖類(α-グルカン)の一種ですが、免疫系統を活性化してがんを縮小させる作用を持っています。多糖類のうち、キノコ類に多く含まれるβ-グルカンが免疫細胞を刺激し、免疫能(ママ)を向上させることはよく知られていますが、α-グルカンに同じ作用があることを初めて解明したわけです。

【『がん患者は玄米を食べなさい 科学が証明した「アポトーシス&免疫活性」のすごい力』伊藤悦男〈いとう・えつお〉(現代書林、2009年)】

 友人が肺癌になった。腫瘍の大きさは3cmほどだという。50代という年齢も腫瘍の大きさも微妙だ。早速本書を贈った。

 癌が厄介なのは自分で作った細胞のためで免疫が機能しない。健康な人でも日に3000~5000個の癌細胞が作らているという。これが増殖し始めると手をつけられなくなる。恐るべきスピードでコピーされ、やがて死に至る。最も不可解なのは癌が生き延びられないことである。なぜ敢えて生存に不利な増え方をするのかが判明していない。

 著者は琉球大学の名誉教授である。上記テキストを読めば明らかだがとにかく文章が酷くて説明能力が劣っている。特に「免疫系統を活性化してがんを縮小させる作用」というのは滅茶苦茶な話だ。なぜ自分の細胞に免疫が働くのか? 「私たちが解明した」を三度も書くのは浅はかさを通り越して愚かにさえ見える。

 というわけで私はこの著者を全く信用していない。だが玄米の解毒作用が癌に働く可能性は高いと考えている。植物は移動できないため外敵から身を守るために毒物を発する。この毒性が病気や患部に対して薬となる。毒をもって毒を制するわけだ。野菜を煮て食べるのは毒(灰汁〈あく〉)を抜くためだ。毒は味覚を通して苦味と認識される。良薬口に苦しとはよくいったものである。

歯の構造に適した食べ物/『好きなものを食っても呑んでも一生太らず健康でいられる寝かせ玄米生活』荻野芳隆

 上のページでも紹介したが、玄米食と癌については以下のブログが参考になる。

5年以上再発なしのガン患者が明かす!玄米食のデメリットとは?

 健常者が玄米を食べると解毒作用が強すぎて健康被害が出る可能性が高い。

脇役が光る/『許されざる者』レイフ・GW・ペーション


 ・脇役が光る

ミステリ&SF

「いや、平手です」マックスは、ヨハンソンの親友よりもまだ大きい右手を広げてみせた。
「鼻を平手打ちしただけで。だって、やつはその前におれのことを車で轢いたんですよ?」
「鼻だって?」こいつ、前にもやっているな――。平手と拳では処分がちがうのを知っていやがる。
「殺さずに出血させるにはいちばんいい場所ですから」マックスは肩をすくめた。「顎や額を殴ったら、死なせてしまうかもしれない。おれは、血を流さずに頭蓋骨を割ることもできますから」
「それだけか」どうやら優しい心ももちあわせているようだ。
「はい。あとはその場を去っただけです」
「やつが生きているといいが」
「もちろん生きてますよ。ちょっと鼻血を出したくらいで死ぬやつはいないでしょう」
「そうだな。他に方法はなかったんだな?」
「ええ。レストランに入って殴ることもできたけど、そんなことしたらたくさんの人に見られてしまう。長官、おれのこと怒ってますか」
「大丈夫だ。お前の言うとおりだとしたら、怒るに怒れない状況だからな」それに、今この瞬間にお前を養子にしたいと名乗り出るやつらを、少なくとも二人は知っている。
「長官、安心してください。おれは嘘はつきません。嘘をつくのは悪いやつだけだ。おれは今まで嘘をつく必要などなかった」

【『許されざる者』レイフ・GW・ペーション:久山葉子〈くやま・ようこ〉訳(創元推理文庫、2018年)】

 元国家犯罪捜査局長官が脳塞栓(心臓由来の脳梗塞)で倒れた。入院先の病院で女性主治医から25年前の未解決事件を聞かされる。9歳の少女を強姦した犯人は捕まっていなかった。ラーシュ・マッティン・ヨハンソンは車椅子生活を余儀なくされながらも非公式の捜査に取り掛かる。昨今話題の北欧ミステリだがスウェーデンの微妙な地政学が伺えて興味深い。

 ヨハンソンは主役だから人物造形が優れていて当然だが、介護人のマティルダと用心棒役のマックスが秀逸なキャラクターだ。マティルダはピアスまみれだが実は賢い。マックスはロシア生まれ。養護施設で悲惨な目に遭いながら育った。無口だが腕っ節は滅法強い。形を変えた親と子の物語だ。

 ラストの賛否が分かれるところだが作者は読者のカタルシスを優先したのだろう。個人的にはマックスを主役にしたシリーズを待望する。

2019-12-14

青はこれを藍より取りてしかも藍より青し/『中国古典の言行録』宮城谷昌光


青はこれを藍より取りて
   しかも藍より青し《荀子》

 これを読んだ方は、おや、と思うかもしれない。「青は藍より出でて」ではないのか。
 たしかに「元刻版」であれば、そうなのだが、その本より古い本では、さきの箇所は、「青はこれを藍より取りて」となっている。(中略)
 このつづきは、どうなっているのか。『荀子』の説くところを、すこしたどってみよう。
「氷は、水からできるが、水より冷たい。【墨なわ】にぴったりするまっすぐな木も、たわめて輪にすると、コンパスにあてはまるほど、まるくなる」
『荀子』によれば、人間はもとの素朴な性より、ぬけでることができるが、そうさせる大きな推進力は、学問であり、見聞であり、正しい人に親しむことであるという。それを一言でいえば、
「自身の環境整備」
 である。べつな言い方をすれば、時代の流れに、即応できる自分に、過去の自分を、つくりかえることである。
 となると、「出藍」のニュアンスは、ちょっとちがうのではないか。青が弟子で、藍が先生ではなく、青も藍も自分のことをいっているのである。
 青は、新しい自分で、藍は、古い自分、あるいは、青は、洗練された自分で、藍は、素朴な自分、といってもよい。そのように自己改革をすることで、時代の波にのること、時代にひきずられて傷つかないようにすることを、『荀子』はおしえているのではあるまいか。

【『中国古典の言行録』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(海越出版社、1992年/文春文庫、1996年)】

「勧学篇第一」の冒頭は「君子曰く、学は以(もっ)て已(や)む可からず」から始まり、「青は――」と続く。

勧学篇第一(1) | 新読荀子
高等学校古典B/漢文/学不可以已 - Wikibooks
青はこれを藍より取りて藍より青し(出藍の誉れ) 勧学篇第一 荀子 漢文 i think; therefore i am!

 学問研鑽に終わりがないことを勧めているゆえ、「今日より明日へ」と成長を促す文であるのは確かだろう。儒家(じゅか)の学とは礼法であり、荀子が性悪説に傾いていたことを踏まえれば、「師を超越する」という発想が出てくるようには思えない。

 荀子が紀元前313年に生まれたとすれば、孔子の死後から150年余りが経過している。その人となりはまだ生々しく人口に膾炙(かいしゃ)していたことだろう。日本は弥生期で古墳時代の前である。2000年以上も前に学問が人間の可能性を開くことを高らかに宣言する人物が存在した。果たして現代の知識人の言説が2000年後の人々の胸を打つことがあるだろうか?

 枢軸時代を経てからというもの人間は小粒になる一方だ。民主政となってからも歴史に名を残すのは悪人が殆どだ。権勢を振るうアメリカ大統領にしても名を残すのは暗殺されたケネディくらいではあるまいか。ヒトラー、スターリン、毛沢東、ポル・ポトの4人は虐殺者として長く歴史に記されることだろう。

 ヒトの宗教的感情を新たに喚起することは可能だろうか? 新時代の教祖はミュージシャンとして現れるというのが私の見立てだが、もはや言葉(歌詞)にそれほどのメッセージ性を持たすことが困難になりつつある。言葉が情報に格下げされたとなれば教祖が人である必要はない。人工知能(AI)が我々を幸福へと誘(いざな)ってくれることだろう。

目黒真澄の薫り高い名訳/『乃木大将と日本人』スタンレー・ウォシュバン


 ・目黒真澄の名訳

『動乱はわが掌中にあり 情報将校明石元二郎の日露戦争』水木楊
『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』石光真人

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 大きな仕事よりも、むしろ人格によって、その時世に非常な貢献(こうけん)をする人が、30年に一度か、60年に一度くらい出現することがある。そうした人物は、死後20~30年の間は、ただ功績をもって知られているのみであろうが、歳月の経(た)つにしたがって、功績そのものが、その人格に結びついて、ますます光りを放つ時がくる。たとえば軍人であるとすれば、その統率(とうそつ)した将士の遺骨が、墳墓(ふんぼ)の裡(うち)に朽(く)ちてしまい、その蹂躙(じゅうりん)した都城(とじょう)が、塵土(じんど)と化してしまった後までも、なおその人格と、人格より発する教訓とが、永遠に生ける力となってゆくからである。乃木大将は実にかくのごとき人であったのだ。
 乃木大将は、日本古武士の典型であり、軍人にして愛国者であった。そして1912年(明治45年)9月、明治天皇の崩御(ほうぎょ)し給(たま)うと同時に、渾身(こんしん)の赤誠(せきせい)を捧(ささ)げ、畢生(ひっせい)の理想を纏綿(てんめん)させていた。その対象を失ってしまったため、この上はいたずらに生きながらえるより、むしろ白刃(はくじん)を取って、自(みずか)ら胸を貫(つらぬ)くにしかずと思い定めたのである。

【『乃木大将と日本人』スタンレー・ウォシュバン:目黒真澄〈めぐろ・ますみ〉訳(講談社学術文庫、1980年/『乃木』目黒眞澄譯、創元社、1941年改題改訂/初訳は1924年、文興院/原書は1913年米国】

 大正12年(1923年)、幣原喜重郎〈しではら・きじゅうろう〉が原書を目黒に手渡した。幣原が外務大臣となる直前のことだから駐米大使時代か。翻訳当時、目黒真澄は東京高等商船学校(後の商船大学。現・東京海洋大学海洋工学部)の教授。100ページ足らずの小品でありながら乃木希典〈のぎ・まれすけ〉を見事に素描(そびょう)している。それを目黒が薫り高い名文で奏でる。

 子供があれば本書や『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』を素読させ、書写させるとよい。意味などわからずとも構わない。『万葉集』の時代から続く日本語の伝統の響きを感じ取れればそれでよい。日本人は一方では言の葉と軽んじ他方では言霊(ことだま)と重んじた。この両義性に言語の本質がある。言葉はサイン(象徴)であり事そのものを表しはしない。それでも人々は言葉を手掛かりにコミュニケーションを図る。ヒトの群れが国家にまで進化したのも言葉の成せる業(わざ)である。「始めに言葉ありき」(ヨハネによる福音書)というデマカセが西洋でまかり通るのも故(ゆえ)なきことではない。

 若い頃に司馬遼太郎の『殉死』を読んだがそれほど心を動かされることはなかった。ただ乃木が十文字に切腹したことだけが記憶に残っている。その後私が司馬遼太郎の小説を読むことはなかった。ウォシュバンはロンドン・タイムズの記者である。彼は従軍し乃木と親しく接することで「父」とまで仰ぐようになった。作家の想像力は特定の判断や評価に基づいている。いわば最初から色のついた人物像を見せつけられるわけだ。私が本書に注目するのは、世界で有色人種が劣った存在と見なされていた時代にあって白人記者を魅了してやまなかった武人が存在した事実である。


 乃木希典〈のぎ・まれすけ〉は水師営の会見で敗軍の将ステッセルに示した配慮で世界的な英雄となった。

 乃木はこの時ステッセルに対し、深い仁慈と礼節を以て接した。会見においてアメリカの映画関係者が一部始終の撮影を希望したが、乃木はそれは敗軍の将に恥辱を与えるとして許さず、ただ一枚の記念写真だけ認めた。乃木とステッセルが中央に坐り、その両隣りに両軍の参謀長、その前後が両軍の幕僚たち、ロシア側は勲章を胸につけ帯剣している。全く両者対等でそこには勝者も敗者もない。

 この有名な写真が内外に伝わるや、全世界が敗者を恥ずかしめぬ乃木の武士道的振舞、「武士の情」に感嘆したのである。世界一強い陸の勇将はかくも仁愛の心厚き礼節を知る稀有の名将と、賛嘆せずにいられなかったのである。欧米やシナの軍人には決して出来ぬことであった。

「敗軍ロシアの将にも救いの手 乃木希典が示した日本人の誉れ」岡田幹彦

 本書は乃木の死後に書かれた。明治大帝が 1912年〈明治45年/大正元年〉に7月30日崩御(ほうぎょ)。大喪の礼が行われた9月13日の午後8時頃、乃木は十文字に腹を切り、静子夫人の自害を見届けてから自身の喉を突いた。

 明治天皇の崩御と乃木の殉死は、国民に激しい衝撃を与え、それは小説など文化活動にも反映されて今に伝えられている。

 中でも夏目漱石が代表作『こゝろ』につづった一節は、明治世代の日本人の心情を、表象しているといえよう。(中略)

 このほか新渡戸稲造は乃木の殉死を「武士道といふものから見ては実に一分の余地も残さぬ実に立派なもの」と評し、森鴎外は「阿部一族」「興津弥五右衛門(おきつやごえもん)の遺書」など殉死をモチーフにした秀作を残した。

 だが一方、漱石が「時勢の推移から来る人間の相違」と書いたように、乃木の殉死を時代錯誤とみなし、むしろ茶化すような風潮が、とくに若い世代の一部に生まれていたのも事実だ。

 学習院出身で白樺派の代表格だった志賀直哉は日記で、乃木の殉死を「『馬鹿な奴だ』といふ気が、丁度下女かなにかゞ無考へに何かした時感ずる心持と同じやうな感じ方で感じられた」と突き放した。

 芥川龍之介も小説「将軍」の中で乃木を茶化し、登場人物に「(乃木の)至誠が僕等には、どうもはつきりのみこめないのです。僕等より後の人間には、尚更通じるとは思はれません」と語らせている。

昭和天皇の87年 乃木希典の殉死 明治の精神は「天皇に始まつて天皇に終つた」/社会部編集委員 川瀬弘至:産経ニュース 2018年9月2日

 倉前盛通の志賀直哉に対する評価は決して的外れなものではなかったことがわかる。他人の死を嘲笑うことのできる人物は精神のどこかが病んでいる。三島由紀夫の自決を愚弄した人々も同様だ(『昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』中川右介)。乃木の至誠がはっきりと飲み込めなかった芥川は「ぼんやりとした不安」に飲み込まれて服毒自殺をした。

 乃木希典と東郷平八郎を超える英雄を日本はいまだに輩出し得ないことを我々は深く思うべきである。最後に乃木の肉声を紹介しよう(経緯)。


2019-12-11

スポーツドリンクのナトリウム濃度は低い/『ランニングする前に読む本 最短で結果を出す科学的トレーニング』田中宏暁


ウォーキング
『56歳でフルマラソン、62歳で100キロマラソン』江上剛
・『スロージョギングで人生が変わる』田中宏暁

 ・スポーツドリンクのナトリウム濃度は低い

『最速で身につく 最新ミッドフットランメソッド』高岡尚司、金城みどり
『走れ!マンガ家 ひぃこらサブスリー 運動オンチで85kg 52歳フルマラソン挑戦記!』みやすのんき
『ランニング王国を生きる 文化人類学者がエチオピアで走りながら考えたこと』マイケル・クローリー
『ウォーキングの科学 10歳若返る、本当に効果的な歩き方』能勢博
『すごい!ナンバ歩き 歩くほど健康になる』矢野龍彦
『本当のナンバ 常歩(なみあし)』木寺英史
『健康で長生きしたけりゃ、膝は伸ばさず歩きなさい。』木寺英史
『常歩(なみあし)式スポーツ上達法』常歩研究会編、小田伸午、木寺英史、小山田良治、河原敏男、森田英二
『トップアスリートに伝授した 勝利を呼び込む身体感覚の磨きかた』小山田良治、小田伸午
『一流の頭脳』アンダース・ハンセン

 スポーツドリンクにはナトリウムが入っていますので、低ナトリウム血症を防げそうですが、アルモンドたちの研究では否定されています。その理由として、彼らはスポーツドリンクのナトリウム濃度は、生理食塩水に比べて5分の1と低すぎるから、としています。
 42.195kmの長い道のりを走り切るには、水分と糖分の補給をうまくおこなうことが大切です。しかし、とにかく水分の取りすぎには注意しなければなりません。

【『ランニングする前に読む本 最短で結果を出す科学的トレーニング』田中宏暁〈たなか・ひろあき〉(ブルーバックス、2017年)】

 アルモンドとしか書かれていないので詳細は不明だが、PDF論文「運動時の水分補給に関する変遷ならびに日本における運動習慣のある若年成人の現状と課題」宮川達・麻見直美の脚註にAlmond CSとある。たぶん正確な発音は「アーモンド」だろう。ナッツのアーモンドと同じスペルだ。

「経口補水液の濃度の目安は、生理食塩水の濃度0.9パーセントの約3分の1、すなわち500mlあたり塩1.5g(ナトリウム600mg)です。しかしながら代表的なスポーツドリンクの500mあたりのナトリウム量でみてみると、200mg~245mgしかなく、電解質補給には濃度が不足しています」(スポーツドリンクって実際どうなの?|佐賀市兵庫町のこうすけ歯科医院

「要するに、医療用医薬品開発の歴史の中で洗い出されてきたあらゆる問題が、スポーツドリンクの世界では野放しになっているというわけです」(スポーツドリンクの似非科学)。

「まずスポーツドリンクに科学性を付与するため、企業がなりふり構わず御用学者、専門雑誌、メディア、そしてIOCを含むスポーツ団体を巻き込み、「小さな科学」を武器に脱水にもっとも効果のあるスポーツドリンクというイメージを作り上げセールスを行っている点だ。BMJの調べでは、このような科学的データを提供したほとんどの研究者は多くの助成金をスポーツドリンク販売会社から得ている」(7月15日:科学の衣をまとったスポーツドリンクに潜む危険(7月24日号British Dental Journal 掲載論文) | AASJホームページ

 汗はしょっぱい。つまり体内から塩分(ナトリウム+クロール=塩化ナトリウム)が排出されている。汗をかいた時は水を飲んでも熱中症になるのは水分過剰で血液中のナトリウム濃度が下がるためで、これを低ナトリウム血症という。

 健康常識における減塩信仰は根強いものがあるが近頃ようやく見直されるようになってきた。私はもともと塩分摂取よりも汗をかかない生活習慣に問題があると考えてきたので減塩を意識したことはなかった。塩分は毒のように思われているが実はミネラルなのだ。高血圧を悪と認定することで病院は降圧剤を処方しボロ儲けしてきた。その市場規模は1兆円レベルに達しようとしている(降圧剤市場なおも拡大 18年に1兆円市場に 配合剤登場で競争激化 | ニュース | ミクスOnline)。血圧の正常値を120/80未満と低く設定(高血圧治療ガイドライン2009)したことで多数の認知症患者が生まれた。

 田中宏暁はスロージョギングの提唱者でその効果は世界的に認められている。ただし著書を読む限りではものの見方が一方に傾く嫌いがあり、科学的な姿勢が弱い。例えば活性酸素に関する記述がないのは明らかな片手落ちだろう。そのため必読書ではなく教科書本とした。

2019-12-10

ブッダが悟った究極の真理/『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門 豊かな人生の技法』ウィリアム・ハート


『マインドフルネス瞑想入門 1日10分で自分を浄化する方法』吉田昌生
『マインドフルネス 気づきの瞑想』バンテ・H・グナラタナ

 ・ブッダが悟った究極の真理

『呼吸による癒し 実践ヴィパッサナー瞑想』ラリー・ローゼンバーグ
『「瞑想」から「明想」へ 真実の自分を発見する旅の終わり』山本清次

 ブッダはからだを観察しながら、心も観察した。そして、心が意識(ヴィンニャーナ)、知覚(サンニャー)、感覚(ヴェーダナー)、反応(サンカーラ)という、大きくわけて四つのプロセスから成り立っていることを発見した。

【『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門 豊かな人生の技法』ウィリアム・ハート:日本ヴィパッサナー協会監修、太田陽太郎訳(春秋社、1999年)以下同】

ホモ・デウス』の扉でユヴァル・ノア・ハラリが「重要なことを愛情をもって教えてくれた恩師、S・N・ゴエンカ(1924~2013)に」と献辞を捧げている。私はたまたま3年前に本書を読んでいた。ハラリがヴィパッサナー瞑想を行っていることを知ったのもつい最近である。ユダヤ人とは人種概念ではなくユダヤ教信者を指す(厳密には違うが→ユダヤ教~ユダヤ人とユダヤ教~:イスラエル・ユダヤ情報バンク)。寡聞にして知らなかったのだがイスラエルのユダヤ教人口は75.4%であるという(2011年)。つまりユダヤ人ではない人々が存在する(※母親がユダヤ人であれば子供はユダヤ人と認められる。父親だけの場合は不可)。20%はアラブ系らしいがパレスチナ人なのかもしれない。ひょっとするとハラリは内面において既にユダヤ人ではない可能性もある。

 原題は『The Art of Living: Vipassana Meditation: As Taught by S. N. Goenka』(1987年)である。アート・オブ・リビングは通常「生の技法」と訳される。日本語の技はテクニックに近いイメージがあるので「生きる業(わざ)」としてもいいのだが、今度は業(わざ)が業(ごう)につながってしまう。とはいえ「生の芸術」だと直訳すぎるし、「生の嗜(たしな)み」だと控えめすぎる。ここは思い切って「洗練された生き方」でどうだ? 個人的には「流れるように生きる」と受けとめている。

 この後、「意識は心のアンテナ」「知覚は、認識をする」「データ識別~価値判断~快・不快の感覚」「心は好き嫌いという形で反応する」というプロセスが示される。認識を深めたのが唯識(ゆいしき)だ。


 五つの感覚器官のどこでなにを受信しても、それはかならず、意識、知覚、感覚、反応というプロセスを通ることになる。この四つの心のはたらきは、物質をつくる微粒子よりスピードが速いという。心がなんらかの対象物に接触すると、その瞬間、電光石火のごとく四つのプロセスが走る。つぎの瞬間、また接触が起こり、同じようなプロセスが走る。これをつぎつぎにくりかえしてゆくのである。そのスピードがあまりにも速いため、人はそのことに気がつかない。ある反応が長時間くりかえされて強化されたとき、はじめてそれが意識のなかにあらわれ、気がつくのである。
 人間をこのように説明してゆくと、その実体というよりも、その虚体とでもいうべき事実におどろかされる。わたしたちは、西洋人であれ、東洋人であれ、キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒、仏教徒、無神論者、そのほかどんな人間であれ、だれもが自分のなかに「わたし」という一貫したアイデンティティー(主体)を持ち、それを生来信じて疑わない。10年前の人間が本質的には今日なお同じ人間であり、10年後も同じ人間であり、さらに死んだあとの来世も同じ人間でありつづけるだろう、とばくぜんと仮定して生きている。どのような人生観、哲学、信仰を持っていたとしても、実際はめいめいが「過去の自分、いまの自分、将来の自分」というものを中心にすえて生きているのである。
 ブッダはこのアイデンティティーという直観的な概念に挑戦した。だからといって、あらたに独自の概念をつくり、理論に理論をぶつけたわけではない。ブッダは何度もこう念を押している。自分は意見を述べているのではない。実際に体験した事実、だれもが体験できる道、それを述べているにすぎない、と。「さとりを開いた者は、すべての理論を放棄する。なぜなら彼は、物質、感覚、知覚、反応、意識、それらの本質およびその生成と止滅を見きわめているからである」外見はどうであれ、人間は一つ一つの密接に関係した減少が連なって起こる存在でしかない。ブッダはそのことに気づいたのである。個々の減少はその直前の現象の結果であり、直前の現象のあと間髪をいれずに起こる。酷似した現象が切れ目なく起こると、連続したもの、一つのアイデンティティーを持つもののように見える。しかし、それはうわべの真理にすぎず、究極の真理ではない。
 川とわたしたちが呼ぶものは、実はたえまない水の流れである。ローソクの火は止まっているように見えるが、よく見るとローソクの芯から生じた炎がつぎからつぎへと燃えている。一つの炎が燃え、その瞬間またつぎの炎が燃える。一瞬一瞬、炎が燃えつづけている。電球の光も川のように連続した流れである。フィラメントのなかの高周波によって生じるエネルギーの流れなのである。しかし、わたしたちはいちいちそこまで考えない。一瞬一瞬、過去の産物として新しいものが生まれ、つぎの瞬間、またべつの新しいものが生まれる。この現象はとてつもないスピードで切れ目なく起こり、わたしたちには感じ取る力がない。このプロセスのある一瞬をとらえて、その一瞬の現象が直前の現象と同じだともいえないし、また同じでないともいえない。だが、いずれにしろプロセスは進行してゆく。
 同様に人間は完成品でも不変の存在でもなく、一瞬一瞬、休みなく流れつづけるプロセスにすぎない、とブッダはさとった。ほんとうに「存在している」ものなどなにもない。ただ現象のみが起こりつづけている。ひたすら何かに「なる」というプロセスが起こっているにすぎないのである。(中略)より深いレベルの現実を見れば、生物、無生物を問わず、宇宙全体がたえずなにかに「なる」というプロセスの集まりであり、生まれては消える現象なのである。(中略)
 これこそが究極の真理である。だれもがいちばん関心を持っている「自分」というものの現実である。これこそが、わたしたちが巻き込まれた世界のからくりだ。この現実を自分でじかに体験し、正しく理解することができたなら、苦から抜け出すいとぐちを見つけることができるだろう。

川はどこにあるのか?
現象に関する覚え書き
湯殿川を眺める

死別を悲しむ人々~クリシュナムルティの指摘」は自我という現象が川そのものであり、思い出(記憶)に潜む六道輪廻まで明らかにしている。

 アントニオ・ダマシオ著『進化の意外な順序』を読めなくなるのも当然だろう。現代社会のホメオスタシスを成り立たせているのは知識と技術であり、我々は言葉という幻想を共有しながら進化に進化を遂げて地球環境を破壊するまでに至った。

「サティア・ナラヤン・ゴエンカ(英: Satya Narayan Goenka、1924年1月30日 - 2013年9月29日)は、ミャンマー出身のヴィパッサナー瞑想の在家指導者。レディ・サヤド系の瞑想法の伝統を、その孫弟子にあたるサヤジ・ウ・バ・キンから受け継ぎ、欧米・世界に普及させた」(Wikipedia)。ほほう。在家指導者なのね。現代のミリンダ王の一人か。

 これは簡単そうで実に難しい作業である。一言でいえば「映画を見るように現実を見ることができるかどうか」である。例えばあなたのことを誰かが馬鹿にしたとする。「何だコラ、てめえは喧嘩を売ってんのか?」と応じるのが私の常であるが、ここで「馬鹿にする人がいる」とただ見つめるのが瞑想である。瞑想とは観察なのだ。殴られた時に「殴る人がいる」と観察するのはかなり難しい。病苦も同様で「苦しさ」を客観的に見つめる視点が求められる。見るためには距離が必要である。この距離こそが「私という自我から離れる」ことを意味する。

 苦楽に永続性はない。喜怒哀楽は刻々と流れ去る。確かに存在するのは現在だけだが、今この一瞬は次々と過去のものとなってゆく。

 死を前にして苦しむことは多い。むしろありふれた光景と言ってよい。なぜ苦しむのであろうか? それは苦こそが生の本質であるからだ。登山は山頂が最も苦しいし、長距離走も短距離走もゴールが一番苦しい。我々は苦しむために生きているのだ。苦しみが薄いと味気ない人生となってしまう。そうであれば自ら勇んで走り出すことだ。ただ独り己(おの)が道を。

2019-12-09

感情とホメオスタシス/『進化の意外な順序』アントニオ・ダマシオ


・『SYNC なぜ自然はシンクロしたがるのか』スティーヴン・ストロガッツ
・『非線形科学 同期する世界』蔵本由紀
『デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳』(『生存する脳 心と脳と身体の神秘』改題)アントニオ・R・ダマシオ

 ・感情とホメオスタシス

『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』ユヴァル・ノア・ハラリ
・『群れは意識をもつ 個の自由と集団の秩序』郡司ぺギオ幸夫
『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門 豊かな人生の技法』ウィリアム・ハート

 だがポイントは、人間の文化という物語(サガ)の幕を切って落とすためには、それ以外の何かが必要になるということだ。この「それ以外の何か」とは、動機づけにほかならない。ここで私が念頭に置いているのは、とりわけ痛み、苦しみから健康、快に至る感情である。

【『進化の意外な順序』アントニオ・ダマシオ:高橋洋〈たかはし・ひろし〉訳(白揚社、2019年/原書は2018年)以下同】

 70ページで挫折。小難しい言葉がずらりと並び、これでもかと読む気を削いでくれる。「一人でも多くの人に読んでもらいたい」という気持ちはさらさらないのだろう。『意識と自己』(2018年)は30ページほどで挫折している。興味のあるテーマなのだが、やや遅きに失した感がある。

 ならば単純に考えれば、健康から不快や病に至る、痛みや快の感情は、人間の心を他の生物の心から根本的に区別する、問いを立て、理解し、問題を解決するプロセスの媒介として機能しているはずだ。そうすることで人間は、日常生活で遭遇する苦境に対処するための巧妙な解決策をあみ出し、自らの繁栄を促進する手段を築いていくことができたのだろう。そして衣食住に関するニーズを満たし、身体の損傷を治療する手段を考案し、医術を発明するに至った。(他者をどう感じるかによって、あるいは他者が自分をどう感じているかを認識することで)痛みや苦しみが引き起こされたりしたときには、人間は拡大された個人的、集団的な資源を利用し、道徳的なきまりや正義に関する規範から社会組織、政治的ガバナンス、芸術表現、宗教的信念に至るさまざまな反応を生み出してきた。

 翻訳がよくない。ワンセンテンスが長過ぎる上、読点が多くて何度も読み返す羽目になる。要は感情が群れを形成する動力となっているとの指摘である。これをホメオスタシスにつないだところに本書の独創性がある。

 人間の本性のゆえに引き起こされた諸問題に対して、感情が知的で文化的な解決手段を講じる動機となったという確からしい考えと、心を欠く細菌が人間の文化的な反応の前兆となる社会的行動を呈してきたという事実を、いかに折り合わせられるのか? 進化の歴史のなかで数十億年の期間を隔てて出現した、これら二つの生物学的な現われを結びつける糸とは、いったい何なのか? 私の考えでは、それらを結びつける共通基盤は、「ホメオスタシス」の動力学(ダイナミクス)に見出せる。
 ホメオスタシスは、生命の根幹に関わる一連の基本的な作用を指し、初期の生化学によって生命が誕生した、生命の消失点(バニシングポイント)をなす原初の時代から今日に至るまで続いてきた。それは思考も言葉も関与しない強力な規則であり、大小あらゆる生物が、その力に依存して他ならぬ生命の維持と繁栄を成就してきた。(中略)
 感情は、生体内の生命活動の状態を、その個体の心に告知する手段であり、正(ポジティブ)から負(ネガティブ)の範囲で表現される。ホメオスタシスの不備は、おもにネガティブな感情で表現されるのに対し、ポジティブな感情は、ホメオスタシスが適切なレベルに保たれていることを示し、その個体を好機へと導く。感情とホメオスタシスは、一貫して密接な連携を取り合う。感情は、心と意識的な視点を備えるいかなる生物においても、生命活動の状態、すなわちホメオスタシスに関する主観的な経験をなす。したがって、感情とはホメオスタシスの心的な代理であるととらえればよいだろう。

 ホメオスタシスとは恒常性と訳す。体内では心拍数や血圧・体温などを一定のレベルに保とうとする働きがあり、これをホメオスタシスと言う。ところがダマシオはもっと広い意味を持たせており、集団の恒常性にまで発展させている。血圧に倣(なら)えば同調圧と呼んでもよさそうだ。そう考えると確かに社会には体温や心拍数と呼べるような何かがある。

 知覚の恒常性(例えば日中に見る信号の青と夕方に見る信号の青を同じ青と認識する性質など)の場合はホメオスタシスではなくコンスタンシーと言うようだ。

 ダマシオは神経学者である。進化と群れに関する神経学的アプローチという方向性が目を引く。問題は彼が面白味に欠ける人物の可能性が高いという一点だ。知的ではあるが興奮が欠如している。

 読む必要があれば再読するかもしれない。ま、今回はタイミングも悪かった。ユヴァル・ノア・ハラリ著『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』と重なったのが運の尽きだ。更にウィリアム・ハート著『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門 豊かな人生の技法』の書評を書いていたのが致命傷となった。