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2022-02-09

アリストテレスとキリスト教会/『時間の逆流する世界 時間・空間と宇宙の秘密』松田卓也、二間瀬敏史


『進化する星と銀河 太陽系誕生からクェーサーまで』松田卓也、中沢清
『科学と宗教との闘争』ホワイト

 ・『バッハバスターズ』ドン・ドーシー
 ・時間の矢の宇宙論学派
 ・アリストテレスとキリスト教会

『2045年問題 コンピュータが人類を超える日』松田卓也
・『宇宙を織りなすもの 時間と空間の正体』ブライアン・グリーン

時間論
必読書リスト その三

 宗教、政治的権威から離れ、実利的目的からすら離れた自然現象や天文学の研究は、紀元前6世紀にイオニアの自然哲学者とよばれる一群の思索者達の出現を待たなければならなかった。有名なとこでは自然哲学の祖とされ、万物の根源は水としたターレス、後に南イタリアに移った数学のピタゴラス、原子論を唱えたデモクリトスなどがいる。ターレスは紀元前585年5月28日に小アジアで起こった日食を予言したと伝えられている。またピタゴラスは地球が丸くかつ自転しており、天体の運動は円運動であると唱えた。宗教あるいは政治的権威に支えられることなく、無為無用の哲学者が存在できたのは、オリエント社会にはなかった自由な精神といったものがギリシャのポリス社会にあったからだろう。もっとも奴隷の存在の上にたった自由ではあるが。
 その後プラトン、アリストテレスが現れ、ギリシャの自然哲学は完成されていく。

【『時間の逆流する世界 時間・空間と宇宙の秘密』松田卓也〈まつだ・たくや〉、二間瀬敏史〈ふたませ・としふみ〉(丸善フロンティア・サイエンス・シリーズ、1987年)以下同】

「奴隷の存在」をきちんと指摘しているところを見逃してはなるまい。我々日本人だけがストレートに批判できる資格があるのだ。国家という枠組みで見れば、奴隷がいなかったのは日本くらいなものだろう。天皇陛下を中心とする一君万民思想があったればこそである。江戸時代の士農工商は職能に重きを置いた身分であったが、ヨーロッパのような階級社会となることはなかった。

 アリストテレスによると宇宙は有限であり、地球を中心とする九つの球面があり、太陽、月そして火星や木星といった惑星が一つ一つの球面にくっつき、一番遠くの球面に恒星がくっついているという。今日のわれわれから見れば滑稽なモデルであるが、観測技術が未熟で精密な観測ができず、また観測そのものにあまり価値をおかない当時にあってはモデルの論理的な無矛盾性と美しさが最も重要であった。その点からみるならアリストテレスの宇宙論はうまくできている。たとえば、一番外側の球面が有限の距離にあるのは次のように説明できる。地球から見て恒星は24時間で一回りしている。したがって一番外側の球面も24時間で一回りする。その球面の距離が遠ければ遠いほど速度は大きくなっていく。もし無限のかなたにあれば無限大の速度で回らねばならず、無限大などはナンセンスだから宇宙は有限である。その外は無である。それなりに説得力があるではないか。
 このアリストテレスの説が権威となって、それが後にキリスト教会の権威と結び付き、ヨーロッパの科学は16世紀まで続く暗黒時代に入っていくのである。(中略)
 特にアリスタルコスは太陽の大きさが地球より遥かに大きいことを示し、大きな太陽が小さな地球のまわりを回っているのは不自然であることを主張したのであるが、アリストテレスの権威の前に無神論者という汚名まできせられたという。



 あまりにも偉大であったためにアリストテレスの学説は後世の人々の思考を束縛し続けた。中世の暗黒を支えたのが教会の権威とアリストテレスの権威であった。具体的には魔女狩りと帝国主義〈「発見の時代」(Age of Discovery/大航海時代)〉という形で表出する。内外で殺戮を繰り返しながらヨーロッパは世界を征服する。

 アリストテレスとキリスト教会の絶大なる権威も15世紀ルネサンスにいたって衰えていき、まず空間観が天体の精密な観測からくずれていく。一方、時間についてインドでは輪廻の思想があり、一定の周期で無限に繰り返していくと考えられたが、そのような思想はヨーロッパにはなかったようである。

 古代ギリシャにはあったはずだが、キリスト教によって滅ぼされてしまったのだろう。生と死を繰り返す自然の摂理や、周期がある星の運行などを考えれば、輪廻(りんね)こそが自然である。地球を巡る水の循環もまた輪廻といってよい。

 数千年の未来から振り返れば、私はまだ中世暗黒の時代は終わっていないように思う。一神教がなくならない限りは。

2022-01-10

偶然の一致が人生を開く扉/『ゆだねるということ あなたの人生に奇跡を起こす法』ディーパック・チョプラ


『潜在意識をとことん使いこなす』C・ジェームス・ジェンセン
『こうして、思考は現実になる』パム・グラウト
『こうして、思考は現実になる 2』パム・グラウト
『自動的に夢がかなっていく ブレイン・プログラミング』アラン・ピーズ、バーバラ・ピーズ
『あなたという習慣を断つ 脳科学が教える新しい自分になる方法』ジョー・ディスペンザ

 ・偶然の一致が人生を開く扉

『未処理の感情に気付けば、問題の8割は解決する』城ノ石ゆかり
『ザ・メンタルモデル 痛みの分離から統合へ向かう人の進化のテクノロジー』由佐美加子、天外伺朗
『無意識がわかれば人生が変わる 「現実」は4つのメンタルモデルからつくり出される』前野隆司、由佐美加子
『ザ・メンタルモデル ワークブック 自分を「観る」から始まる生きやすさへのパラダイムシフト』由佐美加子、中村伸也
『人生を変える一番シンプルな方法 セドナメソッド』ヘイル・ドゥオスキン

必読書リスト その五

 奇跡は日常生活に現れる流れ星のようなものです。めったに見ることはできず、見つけると、何か不思議なものに出会ったような気がしてきます。しかし、流れ星はいつも空を横切っています。日中は日差しがまぶしくて気づかないだけですし、雲ひとつない暗い夜も、たまたま見上げた場所が星の通り道とは違っているから、見つからないにすぎません。
 流れ星と同じように、奇跡もわたしたちの意識を毎日のように横切っています。自分の運命がこれからどうなるのかわらからなくても、奇跡に気づくか無視するかの、どちらかを選ぶことはできます。結果は歴然としています。奇跡にきちんと目を配ってさえいれば、夢にも思い描けなかったほど驚きと刺激に満ちた人生が始まり、素晴らしい体験も増えていくのです。(中略)
 あなたの内面には、肉体や歯垢や感情を超越した純粋な可能性の「場」が存在しています。この場には不可能の文字はありません。奇跡を起こすこともできます。いえ、ここでこそ奇跡が起きているのです。あなたの内面に存在するこの場は、存在するあらゆるものだけでなく、まだ形として現れないすべてのものと関連しあっています。

【『ゆだねるということ あなたの人生に奇跡を起こす法』ディーパック・チョプラ:住友進〈すみとも・すすむ〉訳(サンマーク文庫、2007年/サンマーク出版、2004年『迷ったときは運命を信じなさい すべての願望は自然に叶う』改題文庫化)以下同】

 奇蹟はいつだって偶然訪れる。奇蹟に原因を求めれば不思議さは失われるだろう。目が見えることも不思議だ。耳が聴こえることも奇蹟だ。しかし我々はそのように感じない。感性が汚れているためだ。

 奇蹟は人生に光彩を与える。瞬時に驚きが歓びが満ち溢れ、過去も未来も洗い流して現在を見つめさせ、欲望や迷いを一掃する。「不思議だなあ」と思える瞬間こそが幸福なのだろう。

 流れ星の喩(たと)えもわかりやすい。そもそも日中に星が見えない不思議すらも我々は失念している。

 わたしは10年以上もの間、偶然の一致(シンクロニシティ)こそ人生を導き、形づくっていく原動力であるという考えに魅了され続けてきました。

 通常は「共時性」と訳されるシンクロニシティだが「偶然の一致」の方が腑に落ちる。コンピューティングとは計算の謂(いい)であるが、脳がこれほど計算外のことを喜ぶ事実を思えば、脳は単なる計算機ではないのだろう。

 五感もまた計算するために働いているが、美しい絵画を見たり、好きな音楽を聴く時、我々の感覚は明らかに計算から外れている。統合された情報が生み出す創発現象か。

 偶然の一致の意味を理解して、人生を送るようになれば、心の奥に横たわっている無限の可能性の場につながることができます。つながった瞬間、奇跡が起こりはじめるのです。これが「シンクロディスティニ(運命を変える偶然の一致)」と呼ばれる状態です。この状態に置かれると、すべての願望が、花が咲くように、自然に実現するようになります。しかしシンクロディスティニを起こすには、物質的な世界に出現する複雑な“偶然の一致のダンス”に気づくだけでなく、心の奥深い場所にも赴かなくてはいけません。ものごとの性質を深く理解し、わたしたちの宇宙をたえず創(つく)り出している知性の泉に気づかなくてはなりません。奇跡が訪れたときには、自分を変えていくチャンスを、どこまでも追い求める意思をもつことが肝心なのです。

 本書を読んで私の中で一番変わったのは浄土宗浄土真宗(念仏)に対する評価である。ま、この歳になって勉強する気は更々ないが、「他力」を侮ってきたことを反省した。

 ただし私の場合、還暦を前にしてまだまだ血気盛んなところがあるため、「座して死を待つよりは、出て活路を見出さん」(諸葛孔明)姿勢に変わりはない。

 

マラソンで成功するのは「計算ができる」ランナー/『ランニング王国を生きる 文化人類学者がエチオピアで走りながら考えたこと』マイケル・クローリー

2021-12-12

死こそが永遠の本源/『出星前夜』飯嶋和一


『汝ふたたび故郷へ帰れず』飯嶋和一
『雷電本紀』飯嶋和一
『神無き月十番目の夜』飯嶋和一
『始祖鳥記』飯嶋和一
『黄金旅風』飯嶋和一

 ・死こそが永遠の本源

『狗賓童子(ぐひんどうじ)の島』飯嶋和一

キリスト教を知るための書籍

 キリシタンに対する火あぶりの刑は、1本の太柱に手足を後ろで縛りつけ、周囲に薪を積んで、初めは遠火にてあぶり、次第に薪を受刑者の縛られている柱へ寄せていく。後ろ手と両足に縛りつけた藁縄(わらなわ)は1本だけで、それも緩(ゆる)く、背後には薪を積まず、いつでも逃げ出せるように退路を確保してある。燃えさかる灼熱(しゃくねつ)の苦痛に逃げ出せば、それは棄教したことと見なされ、そこで刑の執行は取りやめられる。刑を受ける者にとっては何より殉教への意志が試されることとなっていた。マグダレナはもちろん、6人ともが逃げる素振りも見せず業火に身をよじりながら絶命したと秀助は青ざめた顔で語った。鯨脂を焼いたような臭いが胸に溜(た)まり、突き上げてきた嘔吐(おうと)感を抑えきれず恵舟〈けいしゅう〉はその場でもどした。

【『出星前夜』飯嶋和一〈いいじま・かずいち〉(小学館、2008年/小学館文庫、2013年)以下同】

 島原の乱を描いた時代小説だが天草四郎時貞は脇役である。主役は庄屋の鬼塚甚右衛門と医師の外崎恵舟〈とのざき・けいしゅう〉、そして弟子の北山寿安〈きたやま・じゅあん〉の3人である。

キリシタン4000人の殉教/『殉教 日本人は何を信仰したか』山本博文

 よく言われることだが、「交通事故でさえスローモーション映像にすればホラー映画たり得る」。死は恐ろしい。恐ろしいがゆえに生きる者は想像力を働かせてしまう。そこに罠がある。戦後教育を受けると「生きる権利」という錯覚にとらわれる。生きることが権利であれば、死ぬことはその権利を奪われることになる。だから我々は死を理不尽なものとして受け止める。なぜなら死は「生を奪う」からだ。死は終焉(しゅうえん)であり、不幸であり、悲劇である。そう考えてしまうところに現代の不幸があるのだろう。

「棄教すれば許す」というところに日本的な優しさがある。西洋の魔女狩りとは全く異なる精神風土である。ただし、少ならからぬ人々を殉教に走らせる社会的要因があったのは確かだろう。閉塞感や鬱積が日常から跳躍させるバネとして働く。それが殉教であったり、テロであったり、クーデターであったりするのだろう。

「寿安さん」喜平の幼子が呼んだ声音を思わず真似(まね)ていた。大勢の病んだ子どもらが皆そう呼んだ。今ここにいる「寿安」が、やっと現実(うつつ)のことに感じられた。幼い頃は耐えがたいものを感じていた呼び名は、いつの間にか少しの抵抗も感じられなくなっていた。蜂起でも、傷寒でも、赤斑瘡でも、多くの生命が目の前で消えて行った。死こそが実は永遠の本源であり、生は一瞬のまばゆい流れ星のようなものに思われた。その光芒(こうぼう)がいかにはかなくとも、限りなくいとおしいものに思えた。

 恵舟と寿安は感染症と戦った。飢餓と病気は人類史において最大のテーマである。それは死に直結しているためだ。私からすれば、「死は永遠」というよりも「死は無限」と感じる。既に亡い人は数百億人に及ぶだろうし、動植物や細菌を含めれば天文学的な数字になるだろう。量子世界で時間にはプランク時間という最小単位が切り取り線のように連なっている。信じ難いことだが時間は直線的につながってはいないのだ。ひょっとすると瞬きするたびに我々は生と死を繰り返しているのかもしれない。

2021-11-02

日露戦争がきっかけで写真館が増えた/『工藤写真館の昭和』工藤美代子


 ・日露戦争がきっかけで写真館が増えた
 ・昭和11年の日常風景

『われ巣鴨に出頭せず 近衛文麿と天皇』工藤美代子
『絢爛たる醜聞 岸信介伝』工藤美代子

 もともと、日本全国で写真館が飛躍的に増えたのは、日露戦争のためといわれている。出生記念に兵士が写真を撮るのと同時に、家族たちも肖像写真を撮って、兵士に持たせた。まだ一般家庭に写真機などなかった時代に、人々は写真館で今生の名残となるかもしれない瞬間を凍結した。
 その思いは、昭和の代になっても変わってはいないのだろう。中国大陸がどれほど希望に満ちた約束の地であったとしても、兵士たちの顔には隠し切れない悲壮感や不安が漂っていた。
 カメラのファインダーを覗くたびに哲朗は、それを感じていた。普通の家族の肖像写真とは、空気の密度がまるで違っている。まだ10代後半や20代の初めの、若々しい兵士たちの顔は、いやにくっきりと、その輪郭を縁どる空気が濃く凝縮して見える。

【『工藤写真館の昭和』工藤美代子〈くどう・みよこ〉(朝日新聞社、1990年講談社文庫、1994年/ランダムハウス講談社文庫、2007年)】

 今時は冠婚葬祭くらいでしか写真撮影を頼むことはない。私が小学校の半ばくらいまでは年に一度家族で写真館に足を運んだ。懐かしさと共に突然思い出が蘇った。私の父は若い頃からカメラを嗜(たしな)んでいてセミプロ級の腕前だった。ニコンのFシリーズを愛用し、時折新聞社からも撮影を依頼されていた。

 写真を撮りにゆくのはあまり好きではなかった。正装するのも面倒だったし、何にも増して家族で外出すると怒られることが多かった。私は幼い頃、少しボーッとしたところがあって、母から持たされたハンドバッグをどこかに置き忘れたりして、そのたびに凄い剣幕で怒られた。撮影直前のしゃちほこばった数秒間も堪(たま)らなく嫌いだった。

 日露戦争がきっかけで写真館が増えたのは知らなかった。一葉の写真が忘れ形見となる。切り取られた瞬間は彼が生きた確かな証であった。死者数8万4000人(日露戦争はやわかり | 日露戦争特別展2)を思えば、涙に掻き暮れた家族は数十万人に及んだことだろう。

 昔、写真は厚い台紙のアルバムに貼り付けていた。私の世代だと既にセロファンみたいなやつで挟み込むような体裁になっていたが、それでもやはり貴重品だったのだろう。フィルムタイプは現像を待たねばならなかった。そうした時間も一枚の写真の大事な要素だった。

 その後、連写機能が開発され、家庭用ビデオが発売され、デジカメ~スマホという流れを辿り、写真は単なる画像情報に格下げされた。ウェアラブルカメラや防犯カメラでは長時間の動画撮影が可能となった。

 無限の記録と一枚の写真との違いを思う。

2021-06-05

オプション取引を学ぶ/『実戦のためのオプション』田中勝博


 八百屋にバナナを現金で買いに走るのが、現物取引。現金ではなくツケで買いに走るのが先渡し取引(フォワード取引)、1ヶ月後のバナナ購入を予約して、さらにキャンセル(反対売買)するかも知れないよと声を掛けるのが先物取引、家にあったリンゴを持ち出して、交換してよ!と頼むがスワップ取引、そして1ヶ月後に買う権利を頂戴!と頼むのがこれから勉強するオプション取引です。蛇足にはなりますが、リンゴとバナナの交換を将来の権利として売買するのがスワプション取引です。

【『実戦のためのオプション』田中勝博〈たなか・よしひろ〉(シグマベイスキャピタル、1998年)】

 2017年に読んだ。もちろん挫折している。オプションの概念を会得するのは難しい。時折思い出したようにオプション本を読んできたが一向に理解が進まない。買う権利(コールオプション)の買いと売りがあり、売る権利(プットオプション)の買いと売りがあるのだ。


 オプション最大の問題は「売り」の方が圧倒的に高確率で勝てるのだが、相場が大きく逆方向に動くと無限大の損失を被る点である。


 クレジット・スプレッドという手法を組めば損失は限定できるが、それでも素人が手を出せる世界ではない。

 本来は先物のヘッジとしてオプションは取引されている。例えば日経225先物を買った場合は、オプションのコールの買いかプットの売りを入れるという具合だ。要は日経先物の損失をオプションでカバーするのだ。もちろん利益も少なくなるわけだが、投資は生き延びてなんぼの世界なので確率の優位性に賭けるのが正しい。

 では手の内を明かそう。FRBは2022年まで量的緩和政策を継続するので株価は上がることが予測される。日経平均はかなり出遅れているため、史上最高値を更新し続けるダウが頭打ちになれば、アメリカのマネーが日本に流れ込む可能性もある。そう考えて私は5月から日経平均を買った(CFD)。

 今考えているのは来年以降の動きだ。2021年夏に開催されるダボス会議のテーマは「グレート・リセット」である。資本主義の支配者がこう掲げる以上、確実に世界システムは変更されるのだろう。新型コロナウイルス騒動はまさしく渡りに舟だ。米大統領選挙における民主党の勝利や、ゼロ炭素社会というムーブメントを鑑みると今後の世界は社会主義的色彩が強まるような気がする。

 リセットするためには大衆を手懐(なず)ける必要がある。つまり何らかのショック療法が行われるに違いない(『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』ナオミ・クライン)。行き過ぎた資本主義の誤りを思い知らせるにはマーケットの暴落が一番手っ取り早い。失業率が高まれば国民は国家に依存する。大衆が放心状態に陥った瞬間が次代を築くきっかけとなるだろう。

 というわけで、「プットオプションの買い」一手で下げ相場に対応できるかどうかを勉強中である。

2020-12-30

レシピ > 肉


レシピ > 肉

★肉★

煮込み料理に向く部位

牛肉●牛肉とこんにゃくの炒め煮至高のビーフシチュー牛モモステーキ牛すね甘辛煮込み牛バラ肉と大根の煮込み

牛すじ●牛すじの下処理牛スジ下処理牛すじの下処理とゆで方牛すじ肉の下処理(圧力鍋使用)
基本の牛すじ煮込み牛すじの煮込み(味噌)牛すじ煮込み牛すじ煮込み牛すじと大根とこんにゃくの煮込み牛すじ大根の我が家のどて焼き牛すじとこんにゃくのどて煮居酒屋の牛スジ大根牛すじの煮物牛すじと大根の煮物(煮込み)玉葱たっぷり牛すじ大根煮込み牛すじ煮込みスジと大根の煮物牛すじと蒟蒻の甘酒煮牛すじ肉の赤ワイン煮込み
牛スジカレートロトロ牛すじカレー

牛脂●牛脂スープのレシピ7選

豚肉●豚バラキャベツのフライパン蒸し豚大根とこんにゃくのどて焼き風豚バラ大根豚バラの素揚げ至高の豚汁豚汁至高の生姜焼き(豚ロース)肩ロース生姜焼きだし香る豚のショウガ焼き豚コマ生姜焼きニラこま豆板醤炒め至高の酢豚豚の梅肉生姜焼きゆで豚の梅肉ソースかけ梅チーズの豚肉串ぽん酢豚丼甘酢豚こま切れマウンテン盛り豚バラもやしのモツ鍋風やわらか白菜と豚バラ肉の鍋豚バラ肉みぞれ鍋白菜と豚肉の無水油鍋

鶏むね●鶏むね肉保存方法小麦粉:片栗粉:細かいパン粉を1:1:1片栗粉と小麦粉唐揚げ衣4種の違い5種の衣を比較片栗粉+小麦粉【完全ガイド】鶏のから揚げ揚げてから冷凍が正解鶏胸肉切り方切り方塩鶏おうち唐揚げ(わらじ)鶏胸肉の照り焼きチキン液体塩こうじで!鶏むね肉の下味冷凍冷めても柔ウマ重曹とり胸からあげジューシー唐揚げクリスピーな鶏唐揚げ鶏むね肉のクリスピー唐揚げ塩唐揚げ究極の鶏胸唐揚げ鶏ムネ薄唐揚げ白だし唐揚げ至福の唐揚げ鶏むね肉のカレー唐揚げ漬け時間ゼロ鶏むねソテー鶏胸肉の黒酢炒めガリバタチキンとりマヨ味噌マヨ漬けからあげクンそっくりコロコロ豆腐チキン鶏ムネステーキ甘酢チキンタルタル揚げないチキン南蛮鶏むね肉の味噌マヨ漬け鳥焼き肉茹で鶏のとろとろ梅肉和え至高のとり天レモン蒸し鶏サラダチキンチキンサラダによくあうドレッシングチキンとポテト

鶏もも●肉汁10倍やわらかジューシーに仕上る簡単なコツ塩こんぶ唐揚げ衣ザクザク激ウマフライドチキン鶏手羽トロで生姜ニンニク照り焼き超特急チキン南蛮至高のチキン南蛮タルタル鶏肉ホイル焼き照り焼きチキン丼旨だれローストチキン風鶏汁塩焼きチキンポン酢ソテーやみつきチキンタンドリーチキンチキンのトマト煮込み鶏肉のみそ漬け焼きトマトクリーム煮とろとろ大根のうま塩にんにく鶏スープ鶏もも肉のトマト煮込み

鶏皮●七味醤油焼き無限やみつき鶏皮焼き鶏皮せんべい鶏皮の唐揚げ

ささみ●ささみの筋取り鶏ささみのスジの取り方ピーラー・フォーク・割り箸フォーク&骨抜き下処理茹でる茹でる茹でる下処理レンジ下処理レンジほぐすフォークで穴筋取り重曹
ささみの唐揚げささみの唐揚げささみスティック唐揚げさくさくぽりぽりささみ棒オイル漬けオイル漬け動画おつまみ漬け込み焼きささみスープゆで汁スープ卵スープ梅ささみのスープご飯野菜味噌汁豆乳味噌スープ鶏ささみチップスささみチップス

手羽先●悪魔の手羽先手羽先の唐揚げ名古屋名物手羽先

モツ●モツ煮込みモツの下処理

砂肝●砂肝とキノコのアヒージョ

2020-09-28

ムドラとは/『ムドラ全書 108種類のムドラの意味・効能・実践手順』ジョゼフ・ルペイジ、リリアン・ルペイジ


『ヒモトレ革命 繫がるカラダ 動けるカラダ』小関勲、甲野善紀
・『手を組むだけで幸せになる! 手印大図鑑』鮑義忠
・『“手のカタチ”で身体が変わる! ヨガ秘法“ムドラ”の不思議』類家俊明

 ・ムドラとは

身体革命

 ムドラとは、体の健康や心のバランス、そして精神的な覚醒を促してくれる、手や顔や体を使ったジェスチャーのことです。サンスクリット語の「mudora」には、「身ぶり、印、態度、特性」などの意味があります。それぞれの印相の特性に応じた、心のあり方や精神的な態度を喚起してくれるジェスチャー、それがムドラです。ムドラは「喜び」や「魅力」を意味する「mud」と、「引きだす」を意味する「rati」が組み合わさってできた言葉です。つねにそこにあり、あとはただ目覚めるのを待っている私たちの内なる喜びや魅力を、ムドラは引きだしてくれるのです。(中略)
 私たちはこうした身ぶりで、しばしば無意識に、気分や意図や態度を非言語的に伝えています。
 一方、手や顔や体のジェスチャーが、特定の精神的態度を呼び起こすために意識的に使われるとき、それはムドラと呼ばれます。統合や無限性などの微細な性質は、言葉ではうまく言い表せなくても、ムドラを使えば完璧に表現できます。霊性の最も古い様式の一つであるシャーマニズムでは、音や動作、そして手や顔や体のジェスチャーが、宇宙の深遠で聖なるエネルギーを呼びさますのに使われます。シャーマンがそのエネルギーを伝える儀式にも、健康や癒しや霊的なつながりを助けるものとして、ジェスチャーが欠かせません。世界には様々なシャーマニズムが存在しますが、インドでは、創造の聖なる源と一体化したいという強い欲求が、完成度の高い一大体系にまで進化しました。その体系の一端を担うのがムドラです。
 古代インドの偉大な聖者(リシ)たちは、瞑想を通じて、創造の源との深い精神的結合の境地を極めようとしました。その瞑想状態の一つの現れとして、自然派生的にムドラが生まれます。やがてムドラは、リシが瞑想状態を追体験し、新たに加わった門弟とも体験を分かち合うための手段として使われるようになりました。古代の聖者が瞑想体験のうちに悟った究極のち絵とは、あらゆる二元性を超越する「統合」(ユニティ)の思想です。「統合」とは、認識力、無限性、統一性、慈悲心など、様々な心の特性を経たのちに到達される至高の境地です。こうした個々の特性を呼び覚まし、統合の世界的な地平へと自然に導いてくれる手段、それがムドラなのです。

【『ムドラ全書 108種類のムドラの意味・効能・実践手順』ジョゼフ・ルペイジ、リリアン・ルペイジ:小浜杳〈こはま・はるか〉訳、長谷江利子〈はせ・えりこ〉編集協力(ガイアブックス、2019年)】

ひもトレ革命』で虎拉(ひし)ぎを知った。指の形をつくることで脚に力が入るという秘技だ。私は普段から階段を使うよう心掛けているので直ぐさま効果を実感した。その時、「ハハーン、これは印相だな」と妙に得心がいった。忍術使いが手を組んで形をつくるアレだ。元々は仏教の密教から生まれたもので、日本だと天台系(台密)よりは真言系(東密)で重視されている。

 ヒトの進化を推進したのは高度な知能もさることながら、細やかな手の動きによるところが大きい。きっと知能と手は連動しているのだろう。匠の技とされているのも大方手の運動である。それが行き着いた最終形が私は楽器演奏だと考える。鍵盤を叩いたり、弦を爪弾く指の動きは、ヒトの進化の最も高い位置にあると思われる。

 ランニング初心者の私は少しでも楽に走れるよう指の形を工夫している。普通に走っているとピストル型の形になるのだが、意識的に虎拉ぎをやってみたり、親指だけ曲げて他の指を真っ直ぐに伸ばしたり、中指で親指を抑え込んだり、手をだらりと下げて走ったりしている。効果のほどは定かでないが変化をつけることで意識が脚の疲労から指の形に向かうので気分転換にはなる。

 ムドラは印相の原型である。「手のヨガ」と言っていいかもしれない。数冊しか読んでいないが本書は決定版と断言して差し支えないだろう。齢を重ね、体力が衰えるに連れて、体を鍛えるよう努めているが、個人的には瞑想の前段階として体の声に耳を傾けているつもりだ。正直に言えばじっと坐っていることに私の惰弱な精神は耐えられない。むしろ動くことで心の揺れを止める方途を探っているところである。フル回転するコマのような心的状態が望ましい。

 ムドラは高齢者でも実践可能だ。ムドラから入ってヨガへと進み、運動やトレーニングに至るのが理想的だと思う。「治に居て乱を忘れず」である。いざ病気になったり、不当逮捕されたり、捕虜になるようなことがあれば、不自由な苦境と対峙できるのは瞑想と運動だけというのが私の持論だ。

2020-09-15

三島由紀夫『武士道と軍国主義』/『自衛隊「影の部隊」 三島由紀夫を殺した真実の告白』山本舜勝


・『三島由紀夫・憂悶の祖国防衛賦 市ケ谷決起への道程と真相』山本舜勝
・『君には聞こえるか三島由紀夫の絶叫』山本舜勝
・『サムライの挫折』山本舜勝
・『三島思想「天皇信仰」 歴史で検証する』山本舜勝

『F機関 アジア解放を夢みた特務機関長の手記』藤原岩市

 ・三島由紀夫「檄」
 ・三島由紀夫『武士道と軍国主義』

70年安保闘争の記録『怒りをうたえ!』完全版:宮島義勇監督
『昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』中川右介
『三島由紀夫と「天皇」』小室直樹
『昭和陸軍謀略秘史』岩畔豪雄
『田中清玄自伝』田中清玄、大須賀瑞夫

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

(※暑中見舞いの)手紙に同封されていたのはB5版24枚の書類であり、『武士道と軍国主義』『正規軍と不正規軍』と表題のついた2篇からなっていた。
 自刃の年の7月、三島は、当時の保利茂官房長官から、防衛に関する意見を求められた。送られてきた書類は、その時三島が日頃からの持論を口述し、タイプ印刷に付したものだ。佐藤栄作総理大臣と官房長官が目を通した後、閣僚会議に提出されるはずだったが、実際には公表はされなかった。
 当時の中曽根康弘防衛庁長官が、閣僚会議に出すことを阻止したのではないかと、私は思う。
 この二つの論文は、三島の考えを理解するためには不可欠の資料であり、彼が国民に訴えたいと考えていた、いわば建白書である。(中略)

『武士道と軍国主義』

 第一に戦後の国際戦略の中心にあるものは核であると規定する。核のおかげで世界大戦が回避されているが、同時に、各は総力戦態勢をとることをどの国家にも許さなくなった。総力戦は、ただちに核戦争を誘発するからである。従って、第二次世界大戦後の戦争は、米ソ二大核戦力の周辺地域で、限定戦争という形態をとって行われるようになった。
 限定戦争の最大の欠点は、国論の分裂をきたすという事である。総力戦の場合、国民の愛国心の昂揚が、必然的に祖国のために戦う気分を創り出す。しかし限定戦争の場合には、それが曖昧であるため、反対勢力は互角の戦いを国家権力に対して挑むことができる。従って、限定戦争のある国では、平和運動や反戦運動が大きな勢力を持ち得、国論は分裂する。これは、必ずしも共産国家の陰謀のせいばかりとは思えない。
 共産国家は、閉鎖国家でその中での言論統制を自由に行なえる体制であるから、国論統一は、自由主義国家よりもはるかに有利に行なうことができる。アメリカの反戦運動の高まりを見ると、限定戦争下における国論統一の困難さが、これと比較してよくわかる。
 さらに、代理戦争は、二大勢力の辺境地帯で行なわれる戦争であるから、その地域の原住民同士が相闘うという形をとる。そしてこれは、民族独立とか植民地解放などの理念に裏付けられて闘われる。自由諸国としては正規軍を派遣して、これに対処しなければならない。これに対し、共産圏は『人民戦争理論』をもって、不正規軍によるゲリラ戦を闘う。この『人民戦争理論』によって、国の独立と植民地解放という大義名分が得られる点で、共産圏の非常な利点となるのは、ヒューマニズムをフル活用できることである。
 ゲリラ戦は、女や子供も参加する以上、彼らも殺されることは多々ある。世のヒューマニストたちは、正規軍の軍人が死んでも、それは死ぬ商売の者が死んだだけだ、として深い同情など示さないが、女や子供が虐殺されたとなると、大いに感情移入してヒューマニズムの見地から反戦運動に立ちあがる、ということになる。
 また、自由諸国のマスコミュニケーションは、国論分裂が得意である故、ヒューマニズムの徹底利用という点で、むしろ共産圏に有利にはたらく。なぜなら、自由ということを最高最良の主義主張とする以上、自国が加担している限定戦争に反対することは、自由の最大の根拠となるからである。
 以上の観点から、自由諸国は、二つの最大の失点を初めから自らの内に包含していることになる。日本も、その意味では同じことである。
 しかし、日本は、天皇という民族精神の統一、その団結心の象徴というものを持っていながら、それを宝の持ち腐れにしてしまっている。さらに、我々は現代の新憲法下の国家において、ヒューマニズム以上の国家理念というものを持たないことに、非常に苦しんでいる。それは、新憲法の制約が、あくまでも人命尊重以上の理念を日本人に持たせないように、縛りつけているからである。
 防衛問題の前提として、天皇の問題がある。ヒューマニズムを乗り越え、人命よりももっと尊いものがあるという理念を国家の中に持たなければ国家たり得ない。その理念が天皇である。我々がごく自然な形で団結心を生じさせる時の天皇、人命の尊重以上の価値としての天皇の伝統。この二つを持っていながら、これをタブー視したまま戦後体制を持続させて来たことが、共産圏・敵方に対する最大の理論的困難を招来させることになったのだ。この状態がずるずる続いていることに、非常な危機感を持つ。
 我々は、物理的な、あるいは物量的な戦略体制というものにとらわれすぎている。例えば中国の核の問題。この核に対抗する手段を我々は持っていない。従って、集団安全保障という理念から、日米安保条約によってアメリカの核戦略体制に入ることを、国家の安全保障の一つの国是としている。しかし、アメリカはABM(弾道弾迎撃ミサイル)を持っているが日本は持っていない。従って、核に対しては、我々はアメリカの対抗手段に頼ることはできても、アメリカの防衛手段は我々から疎外されている。
 我々は、自分で防衛手段を持たなければならない。しかし、非核三原則をとる現政府下では、核に対しる核的防御手段も制限されていると言わねばならない。
 我々は核がなければ国を守れない。しかし核は持てない、という永遠の論理の悪循環に陥っているのである。
 この悪循環から逃れるには、自主防衛を完全に放棄して、国連の防衛理念に頼るしかない。国連軍に参加して、国連軍として海外派遣も行ない、国連管理下に核をおいてそれを使用することも時には行ない得る、こういう形で国防理念を完全に国連憲章に一致させることしかあり得ない。国連憲章の上に成り立っている新憲法を、論理的に発展させればそうなるだろう。
 しかし、どうしても自主防衛の問題が出て来る。これは、理念の問題ではなく、アメリカのベトナム戦争以来の戦略体制の政治的反映のせいである。ベトナム戦争の失敗以降のアメリカの孤立主義の復活が、アジア人をしてアジア人と闘わしめ、自らはうしろだてとなって、アメリカ人の血を流すことを避けるという方向にむかっている。つまり、これは『人民戦争理論』の反映であり、アメリカは、各国に自主防衛を強制して、自らは前面から撤退するという政策に変更しつつある。
 こうなると、日本はアメリカのアジア戦略体制に利用されるのだ、という左翼の批判にさらされても仕方がない。なぜなら、自由諸国は人民戦争理論というものを絶対に使わないからだ。
 そこで問題になって来るのが、日本人の自主防衛に対する考え方である。
 日本の防衛体制を考える時、最も重要で最も簡単なことは、魂の無い所に武器はないということである。すなわち、防衛問題のキイ・ポイントは、魂と武器を結合させることである。この結合が成り立てば、在来兵器でも、充分日本は守れると信ずる。この結論は、核の問題から導き出される。なぜなら、核は使えない、からである。
 使えない核は、恫喝(どうかつ)の道具として使うしかない。もし核を保有していなくても、そこに核があるのだと相手側に信じさせることができれば、それで充分に恫喝となり得る。持っていなくても、持っているぞと脅すことができれば充分に心理的武器となり得る。
 このことが、人間の心理に非常な悪影響を及ぼしたと思う。かつて、人間のモラルを支えたのは武器による決闘であった。自分の主張とモラルを通すためには、刀に頼るしかなかった。しかし、核の登場により、モラルと兵器との関係は、無限に離れてしまった。あるかないかわからないものに、人間はモラルをかけることなどできないからだ。
 故に、在来兵器の戦略上の価値をもう一度復活させるべきだと考える。つまり日本刀の復活である。むろん、これは比喩であり、核にあらざる兵器は、日本刀と同じであるという意味である。
 その意味で、武士と武器、本姿と魂を結びつけることこそが、日本の防衛体制の根本問題だとするのである。
 ここに、武士とは何かという問題が出て来る。
 自衛隊が、武士道精神を忘れて、コンピューターに頼り、新しい武器の開発、新しい兵器体系などという玩具に飛びつくようになったら、非常な欠点を持たざるを得なくなる。軍の官僚化、軍の宣伝機関化、軍の技術集団化だ。特に、技術者化が著しくなれば、もはや民間会社の技術者と、精神において何ら変わらなくなる。また官僚化が進めば、軍の秩序維持にのみ頭脳を使い、軍の体質が、野戦の部隊長というものを生み出し得なくなる。つまり、軍の中に男性理念を復活できず、おふくろ原理に追随していくことになる。こうして精神を失って単なる戦争技術集団と化す。この空隙(くうげき)をついて、共産勢力は自由にその力を軍内部に伸ばして来ることになる。
 では、武士道とは何か。
 自己尊敬、自己犠牲、自己責任、この三つが結びついたものが武士道である。このうち自己犠牲こそが武士道の特長で、もし、他の二つのみであれば、下手をするとナチスに使われた捕虜収容所の所長の如くになるかもしれない。しかし、身を殺して仁をなす、という自己犠牲の精神を持つ者においては、そのようにはなりようがない。故に、侵略主義や軍国主義と、武士道とは初めから無縁のものである。この自己犠牲の最後の花が、特攻隊であった。
 戦後の自衛隊には、ついに自己尊敬の観念は生まれなかったし、自己犠牲の精神に至っては、教えられることすらなかった。人命尊重第一主義が幅をきかしていたためだ。
 日本の軍国主義なるものは、日本の近代化、工業化などと同様に、すべて外国から学んだものであり、日本本来のものではなかった。さらに、この軍国主義の進展と同時に、日本の戦略、戦術の面から、アジア的特質が失なわれてしまった。
 日本に軍国主義を復活させよ、などと主張しているのではない。武士道の復活によって日本の魂を正し、日本の防衛問題の最も基本的問題を述べようとしているのだ。日本と西洋社会の問題、日本の文化とシヴィライゼーションの対決の問題が、底にひそんでいるのだ。

【『自衛隊「影の部隊」 三島由紀夫を殺した真実の告白』山本舜勝〈やまもと・きよかつ〉(講談社、2001年)】

「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」(S・G・タレンタイア)。これが言論の自由であり、自由主義の基底をなす。共産主義と自由主義は意思決定の方法が異なる。極論すれば命令か合意かの違いに過ぎない。是非を問えばイデオロギーに堕する。要はまとまった方が強いわけで、自由主義が優れていると思い込むのは錯覚であろう。

 自由主義には嘘をつく自由もあり、腐敗する自由まである。国民には嘘を信じる自由があり、腐敗を見逃す自由もある。自由はあっという間に放縦へと傾き、得手勝手がまかり通る。

 その国の国情は政治と報道に表れる。政治の大黒柱は国民を守ることであり国防が基礎となる。遠くはシベリア抑留、近くは北朝鮮による日本人拉致を見れば日本政府が国民を守れない、あるいは守る意志がないことは火を見るよりも明らかである。たとえブルーリボンバッジを胸に着けていたとしても信用することは難しい。国民に至っては北朝鮮がミサイルを発射しても安閑としている有り様で、75年も平和が続くと精神が麻痺して生命の危機を察知できないようだ。中国が国境を無視して日本の領海を自由に航行しているのは既に戦闘行為に入ったと見てよい。それでも尚惰眠を貪り続ける我々はいつになったら目を覚ますのだろうか?

 武士道とは侍の道であるが、侍は官人である。語源は従うを意味する「さぶらう」(侍ふ・候ふ)に由来する。服従するという意味から申せば「イスラム」と同じだ。音も似ている。並べ替えればスムライだ。主君に逆らうことができないところに武士道の限界がある。暴力を様式化し道にまで高めた文化は誇るべきものだが、権力の下位構造を脱するところには達していない。

 自衛隊については無論武士道が必要であろう。だがそれを精神性で捉えてしまえば大東亜戦争末期の日本軍と同じ轍(てつ)を踏んでしまう。スポーツに置き換えて考えれば理解できよう。具体性と合理性を欠けば精神論は戯言(たわごと)だ。

 三島は暴力とは無縁であった。その一方で激情の人であった。文で収まることを潔しとせず武に目覚めた。彼は思想のために死んだのではない。ただ美学を生きたのだろう。

2020-07-30

身体障碍の現実/『寡黙なる巨人』多田富雄


『免疫の意味論』多田富雄
『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』渡辺一史

 ・身体障碍の現実

『わたしのリハビリ闘争 最弱者の生存権は守られたか』多田富雄
『往復書簡 いのちへの対話 露の身ながら』多田富雄、柳澤桂子
『逝かない身体 ALS的日常を生きる』川口有美子
『ウィリアム・フォーサイス、武道家・日野晃に出会う』日野晃、押切伸一

 そのとき突然ひらめいたことがあった。それは電撃のように私の脳を駆け巡った。昨夜、右足の親指とともに何かが私の中でピクリと動いたようだった。
 私の手足の麻痺が、脳の神経細胞の死によるもので決して元に戻ることがないくらいのことは、良く理解していた。麻痺とともに何かが消え去るのだ。普通の意味で回復なんてあり得ない。神経細胞の再生医学は今進んでいる先端医療の一つであるが、まだ臨床医学に応用されるまでは進んでいない。神経細胞が死んだら再生することなんかあり得ない。
 もし機能が回復するとしたら、元通りに神経が再生したからではない。それは新たに創り出されるものだ。もし私が声を取り戻して、私の声帯を使って言葉を発したとして、それは私の声だろうか。そうではあるまい。私が一歩踏み出すとしたら、それは失われた私の足を借りて、何者かが歩き始めるのだ。もし万が一、私の右手が動いて何かを摑むんだとしたら、それは私ではない何者かが摑むのだ。
 私はかすかに動いた右足の親指を眺めながら、これを動かしている人間はどんなやつだろうとひそかに思った。得体のしれない何かが生まれている。もしそうだとすれば、そいつに会ってやろう。私は新しく生まれるもののに期待と希望を持った。
 新しいものよ、早く目覚めよ。今は弱々しく鈍重(どんじゅう)だが、彼は無限の可能性を秘めて私の中に胎動しているように感じた。私には、彼が縛られたまま沈黙している巨人のように思われた。

【『寡黙なる巨人』多田富雄(集英社、2007年/集英社文庫、2010年)】

 多田富雄は脳梗塞で右麻痺となり言葉を失った。嚥下(えんげ)障害の苦しさを「自分の唾に溺れる」と記している。感情の混乱についても赤裸々に書いており、妻への感謝を表現できずイライラばかりが募る様子に身体障碍(しょうがい)の現実が窺える。それでも多田は表現することをやめなかった。本書は左手のみのタイピングで著した手記である(柳澤桂子)。

 地べたに叩きつけられたような現実の中で多田は大いなる生の力を実感した。「寡黙なる巨人」とは卓抜したネーミングである。不思議な運命の糸を手繰り寄せ、生かされている事実を見出すことは難しい。決して大袈裟ではなく「全てを失った」時に“生きる力を奮い立たせる”といった言葉はあまりにも軽すぎる。ルワンダ大虐殺シベリア抑留にも匹敵する極限状況といってよい(『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル)。

「凄いなあ」と感心して終われば他人事である。そうではなく我々の日常も「小さな極限状況の連続」と捉えるべきだ。命に関わるような重大な出来事はなくても、些細な暴力や抑圧、恐怖や不安はあるものだ。そこでどう判断して動くか。ただただ耐えているだけなら、いつか殺される日を待っているようなものだろう。いじめやパワハラも最初は小さな仕打ちから始まる。その時「やがて命に関わる問題になる」と見抜くことができれば対応の仕方は変わってくるだろう。

 多田が体の自由を奪われた時に見出した「巨人の力」を私は自分の内側に感じない。私は本当に生きているのだろうか?

2020-06-25

フランス人哲学者の悟り/『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル


 ・宗教の語源
 ・フランス人哲学者の悟り
 ・幸福を望むのは不幸な人

『左脳さん、右脳さん。 あなたにも体感できる意識変容の5ステップ』ネドじゅん
『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール

キリスト教を知るための書籍
悟りとは

 夕食のあとのある晩、いつものように友人たちと気にいっていた森へ散歩にでかけた。暗さが深まっていったが、歩きつづけていた。笑いも少しずつ消えてゆき、口数も少なくなっていった。友情や信頼、共有された現前やこの夜のあらゆるものの心地よさといったものはありつづけた。私は、なにも考えていなかった。眼を開いて、耳をかたむけていた。あたりは一面漆黒の闇で、空は驚くほどあかるく、森はかすかにざわめきながらも沈黙につつまれていた。ときおり、枝がみしみし音をたてたり、動物の鳴き声がしたり、歩く一歩ごとにかすかな足音がした。このとき、沈黙はますますはっきりと聴きとれるようになっていた。そして突然……。なにが起こったのだろうか。なにが起こったわけでもなかった。そこには万物があった。まったく、会話のひとつも、意味も問いかけもなかった。ただ驚きとあたりまえのことと、終わることのないようにさえ思われた幸福と、いつまでもつづくかに思われた平穏だけがあった。私の頭上には、無数の、数えがたい数の、光り輝く満点の夜空があり、私のまわりにはこの空のほかにはなにものもなく、私はその一部と化していた。私のまわりには、いわば幸福な振動であり、主体も客体もない喜びにほかならない(万物のほかには、なんの対象もなく、それ自身のほかには、なんの主体もないのだから)この光のほかにはなにもなく、この漆黒の闇のなかにあって、私のうちには万物のまばゆいほどの現前のほかにはなにもなかった。平穏。はかりしれないほどの平穏。単純さ、平静さ。歓喜。最後の二つのことばは矛盾しているように思われるかもしれないが、そこにあったのはことばではなく経験であり、沈黙であり調和だったのだ。それはいわば、まったく正しい和音のうえに付された終わることのないフェルマータであり、つまるところ世界そのものだった。私は申し分なく、驚くほど申し分なかった。もはやそれについてなにひとつ語る必要など感じないくらいに、それがずっとつづけばいいのにという欲望すら感じないくらいに、申し分なかった。もはやことばも、欠如も、期待もなかった。現前の純然たる現在。自分が散歩していたと言うのさえはばかられるほどだ。そこにはもはや散歩しか、森しか、星ぼししか、私たちの一団しかなかった……。もはや【自我】も、分離も、表象もなかった。万物の沈黙に満ちた現前以外のなにもなかった。もはや価値判断もなく、現実以外のなにものもなかった。もはや時間もなく、現在以外のなにもなかった。もはや無もなく、存在以外のなにもなかった。もはや不満も、憎しみも、恐れも、怒りも、不安もなかった。喜びと平安以外のなにもなかった。もはや演技も、幻想も、嘘もなく、私をふくみこんではいるものの私がふくみこんでいるわけではない真理以外のなにもなかった。この状態が持続したのは、おそらく数秒のことだったろう。私は高揚させられると同時に宥(なだ)められ、高揚させられると同時にかつてないほどの穏やかさのうちにあった。離脱。自由。必然性。やっとそれ自身へとたちもどった宇宙。それは有限なのだろうか、それとも無限なのだろうか。そんな問いがたてられることさえなかった。もはや問いかけすらなかった。だからこそ、答えがでるはずもなかった。あたりまえのものだけが、沈黙だけがあった。あるのは真理だけで、ただしそれを語ることばはなかった。あるのは世界だけで、ただしそこには意味も目標もなかった。あるのは内在だけで、ただしその逆をなすものはなかった。あるのは現実だけで、ただし他人はいなかった。信仰もなければ、希望も、約束もない。あるのは万物だけ、その万物の美しさ、その真理、その現前だけだった。それで十分だったのだ。それだけで十分だなどという以上のものになっていた。

【『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル:小須田健〈こすだ・けん〉、C・カンタン訳(紀伊國屋書店、2009年)】

 もう少し続くのだがこれで十分だろう。悟りとは真理に触れた瞬間である。生き生きと語られるのは生の流れ(諸行無常)と万物が一つにつながる生の広大さ(諸法無我)である。これに優る不思議はない。思議し得ぬがゆえに不可思議とは申すなり。

 悟りは不意に訪れるものだ。人は忽然(こつぜん)と悟る。風や光のように自ら起こすことはできない。

 ここで一つの疑問が立ち上がる。修行や瞑想に意味はあるのだろうか? クリシュナムルティは「ない」と断言している。だが私は「ある」と思う。

 クリシュナムルティは努力をも否定した(『自由とは何か』J・クリシュナムルティ)。努力とは一種の苦行である。そのメカニズムは抵抗や負荷に耐えることで、「耐性の強化」に目的がある。ま、我慢比べみたいなものだろう。今たまたま「我慢」という言葉を使ったがここにヒントがある。元々この言葉は仏教用語で「我慢ずる」と読む。つまり「我尊(たっと)し」との思い込みが我慢の語源なのだ。

 宗教家という宗教家が皆思い上がっている。真理の独占禁止法があれば全員逮捕されていることだろう。額に「我こそは正義」というシールを貼っているような輩(やから)ばかりだ。

 努力は一定の形に自分を押し込める営みだ。そして努力は成果を求める。思うような結果が出ないと「無駄な努力」といわれる。努力によって培われるのは技術である。それが最も通用するのは職人やスポーツ選手の世界だろう。特定の動きに特化した体をつくることで必ず何らかのダメージが形成される。鍛えることができるのは筋肉に限られるため、鍛えられない関節や腱が悲鳴を上げる。

 技術が洗練の度合いを増して芸術の領域に近づく過程で真理が垣間見えることは決して珍しいことではない。彼らの言葉に散りばめられた透徹、達観、洞察が悟性を示す。

 だが真の悟りには世界を一変させる衝撃がある。共通するのは「ただ現在(いま)」「ただ在る」という瞬間性である。過去のあれこれを足したり引いたりして未来の答えを求めるのが我々の日常だ。不安も希望も現在性を見失った姿だ。過ぎ去った過去と未だに来ない未来を我々は生きているのだ。

 私が修行に意味があると考える理由は「行為を修める」ところにある。欲望を慎み鎮(しず)める作業を修行と考えることはできないだろうか? クリシュナムルティが「(瞑想の)方式に意味はない」としたのは方式が目的化することを嫌ったためだろう。だが想念を冥(くら)くするためには先を往く人の手助けが必要だ。悟りはアザーネス(他性)であるとしても自分の感度を高めておくことは必要だろう。



光り輝く世界/『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ 若き医師が死の直前まで綴った愛の手記』井村和清

2020-03-04

ビッグバン理論の先駆者ジョルジュ・ルメートル/『宇宙が始まる前には何があったのか?』ローレンス・クラウス


『ホーキング、宇宙を語る ビッグバンからブラックホールまで』スティーヴン・ホーキング
『量子が変える情報の宇宙』ハンス・クリスチャン・フォン=バイヤー
『宇宙をプログラムする宇宙 いかにして「計算する宇宙」は複雑な世界を創ったか?』セス・ロイド
『サイクリック宇宙論 ビッグバン・モデルを超える究極の理論』ポール・J・スタインハート、ニール・トゥロック

 ・ビッグバン理論の先駆者ジョルジュ・ルメートル

『宇宙はなぜこんなにうまくできているのか』村山斉
『宇宙を織りなすもの』ブライアン・グリーン

 ビッグバン・モデルの原型となるモデルを初めて提唱したのは、ベルギー人のカトリック司祭にして物理学者でもある、ジョルジュ・ルメートルという人物だった。いくつもの分野でひとかどの仕事をするという境域的な才能の持ち主だったルメートルは、はじめに工学を学び、第一次世界大戦では砲兵として従軍して叙勲された。1920年代になって司祭になるための勉強を始め、同時に専門を工学から数学に切り替えた。やがて宇宙論の分野に進み、著名なイギリスの天体物理学者サー・アーサー・エディントンのもとで研究を行ったのち、アメリカのハーバード大学に移り、最終的にはマサチューセッツ工科大学で物理学の博士号を取得した。それは彼にとって二つ目の博士号だった。
 1927年、まだ二つ目の博士号を取得する前のこと、ルメートルはアインシュタインの一般相対性理論の方程式をじっさいに解き、この理論が予想する宇宙は、静止していないということを示したばかりか、われわれが住むこの宇宙は、現に膨張しているという説を唱えたのである。それは途方もない話に思われたので、アインシュタインも、「あなたの数学は正しいが、あなたの物理学は忌まわしい」という強烈な言葉で反対を表明したほどだった。
 しかしルメートルは挫けず、1930年代には、膨張しているわれわれの宇宙は、無限小の点から始まったという説を提唱した。その点のことを彼は、「原初の原子」と呼び、おそらくは創世記の物語を念頭に置きながら、その始まりの時のことを、「昨日のない日」と呼ぶことができるだろうと述べた。

【『宇宙が始まる前には何があったのか?』ローレンス・クラウス:青木薫訳(文藝春秋、2013年/文春文庫、2017年)】

 人間の叡智は現実に先駆けて科学原理を見出すことがある。例えばルメートルが指摘した宇宙膨張説、相対性理論による時空の歪み、ブラックホールも観測される前から既に予想されていた。更に面白いのは発見した科学者の思惑を超えて原理が自己主張を始めることだ。

 アーサー・エディントンについてはよく知られた有名なエピソードがある。

 1920年代のはじめに、あるジャーナリストが(アーサー・)エディントンに向かって、一般相対論を理解しているものは世界中に3人しかいないと聞いているが、と水を向けると、エディントンはしばらく黙っていたが、やがてこう答えたそうだ。「はて、3番目の人が思い当たらないが」。

【『ホーキング、宇宙を語る ビッグバンからブラックホールまで』スティーヴン・ホーキング:林一訳〈はやし・はじめ〉訳(早川書房、1989年/ハヤカワ文庫、1995年)】

 時空の歪みを最初に観測したのもアーサー・エディントンその人であった。

 猿も木から落ち、アインシュタインも誤る。ただし科学の誤謬は観測によって常に修正され、次の新たなステップへと力強く前進してゆく。


アーサー・エディントンと一般相対性理論/『ゼロからわかるブラックホール 時空を歪める暗黒天体が吸い込み、輝き、噴出するメカニズム』大須賀健

2020-01-15

行き交う過去と未来/『運転者 未来を変える過去からの使者』喜多川泰


・『賢者の書』喜多川泰
・『君と会えたから……』喜多川泰
『手紙屋 僕の就職活動を変えた十通の手紙』喜多川泰
『心晴日和』喜多川泰
『「また、必ず会おう」と誰もが言った 偶然出会った、たくさんの必然』喜多川泰
『きみが来た場所 Where are you from? Where are you going?』喜多川泰
・『スタートライン』喜多川泰
・『ライフトラベラー』喜多川泰
『書斎の鍵  父が遺した「人生の奇跡」』喜多川泰
『株式会社タイムカプセル社 十年前からやってきた使者』喜多川泰
『ソバニイルヨ』喜多川泰

 ・行き交う過去と未来

【死後の世界と交信】有名人を顧客に持つ凄腕霊媒師がタクシー運転手に扮して乗客を霊視!【占いタクシー】
『ソース あなたの人生の源はワクワクすることにある。』マイク・マクナマス

時間論
悟りとは
必読書リストその一

「いいから教えてくださいよ。岡田さんは運がいい方ですか? それとも……」
「フン、人生そうそういいことなんてないよ。運がいい人生なんて俺の人生とは無縁だね。ついてないことばっかりだ」
「そうですか。そんな人の運を変えるのが私の仕事です」
「どんな仕事だよ、それ」
「だから、運転手……です。最初から言ってるじゃないですか。私はあなたの運転手だって」
 修一は余計に意味がわからなくなった。
「俺の運を良くするのが仕事だって? 何を言っているのか余計にわからんよ。君の仕事は運転手だろ? 客が連れて行ってほしいところに車で連れて行くのが仕事じゃないのか?」
「違います。運を転ずるのが仕事です。だから私は、岡田さんが連れて行ってほしいところに、車を走らせるわけではありませんよ。岡田さんの人生の転機となる場所に連れて行くだけです」

【『運転者 未来を変える過去からの使者』喜多川泰〈きたがわ・やすし〉(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2019年)】

 amazonレビューワーの評価を時折参考にしている。ただし星の数が多いからといって良書とは限らない。「お前らの目は節穴なのか?」と嘆くこともままある。

 本書は運を巡る物語である。凝った構成で未来から現在、そして現在から過去、更にもう一度現在から過去に戻って終わる。芸術とは人が想像したものを形にする作業だが、「思えば成る」というのは唯識のテーマでもある。人は「出来る」と思ったことしかできない。四十不或は今までやったことのないことに対する挑戦の気概を示した言葉である。老いとは「出来ない」ことを受け容れ、できなくて当然と思い込む心に始まる。

 自分が生きる狭い世界にも無限の可能性がある。ほんのちょっとしたきっかけで運命は転じ幸福の扉は開く。「そのためには上機嫌でいること」と運転者は説く。そして「誰かの幸せのために自分の時間を使う」こと。つまり自分の心を開けば転機はどこにでも転がっているのだ。

 もしも親の思いから祖父母の気持ちまでが完全に見通せたとしたら、我々の生き方は今と同じものではないだろう。まして父祖があの戦争をどう戦ったかを知れば、漫然と景気が上向くことを期待しながら無責任で自分勝手な日々を過ごすこともないだろう。

「孝」の字は老いた親を背負う姿に由来する。


 ホモ・サピエンスが登場したのは20万年前に遡(さかのぼ)る。重畳(ちょうじょう)たる歴史を思えば孝の厚みも地層のように増しそうなものだが、世代を重ねるごとに皮膜のような薄さとなっている。孝には「亡き祖先をも背負う」意味があるという。生命の連続性にまさる不思議はない。今生きている人は皆、遺伝的な勝者だ。先祖を辿れば40億年前の生命誕生にまで至る。受け継がれた生命のダイナミズムを父と祖父の生きざまから照射したドラマである。

 12月に本書を読み、その後喜多川作品を8冊読んだ。いずれもローからセカンドのギアに時間がかかるのと、登場人物のネーミングがよくない共通点がある。尚、駄作と判断したものにはリンクを貼っていない。

2020-01-06

桑の木は神木/『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光


 ・桑の木は神木
 ・民の声

・『太公望』宮城谷昌光
『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『青雲はるかに』宮城谷昌光
『奇貨居くべし』宮城谷昌光
『香乱記』宮城谷昌光

 このころ、桑の木は神木で、「桑からなにが生れるか」と問われた者の十人中十人が、「日」(じつ)すなわち「太陽」とこたえたであろう。つまり太陽の数とは無限ではなく、十個あると考えられ、その一個ずつが、毎朝桑木から生れて、天に昇ると信じられていた。したがって、桑木とは太陽を生む木であり、そこから生れた児とは太陽でなくてなんであろう。

【『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(海越出版社、1990年/文春文庫、1993年)】

 八王子を桑都(そうと)という。江戸期から養蚕業・絹織物業が盛んであったためだ。更に古くは「浅川を渡れば富士の影清く桑の都に青嵐吹く」と西行が詠んだ。桑が神木とはにわかに信じ難かった。それは私が低い桑しか知らないためだった。


 こりゃ神木だな、確かに。また日本を扶桑国(ふそうこく)とも称した。鎌倉時代の日蓮も「扶桑国をば日本国と申す」(「諌暁八幡抄」〈かんぎょうはちまんしょう〉)と書いている。更に雷除けの「くわばら、くわばら」という呪文も「桑原」に因(ちな)むものだ。

「子供の時分、下の部屋で布団に入ると2階の部屋からワサワサと音が聞こえたものだ」という話を何度か耳にしたことがある。蚕(かいこ)が桑の葉を食(は)む音だ。幕末から明治にかけて八王子~横浜間には「絹の道」が存在した(八王子のシルクロード~幕末から明治期に賑わった「絹の道」を歩く)。

 八王子駅近くの甲州街道沿いに荒井呉服店がある。ユーミンの実家だ。

2020-01-03

医療事故は防げない/『予期せぬ瞬間 医療の不完全さは乗り越えられるか』アトゥール・ガワンデ


 ・医療事故は防げない

『医師は最善を尽くしているか 医療現場の常識を変えた11のエピソード』アトゥール・ガワンデ
『アナタはなぜチェックリストを使わないのか? 重大な局面で“正しい決断”をする方法』アトゥール・ガワンデ
『死すべき定め 死にゆく人に何ができるか』アトゥール・ガワンデ

 本書のタイトル Complications とは、治療によって思いがけないことが起きるという意味だけでなく、治療に伴う不確かさとジレンマも意味している。これは、教科書に書かれていない医学の世界について、そしてこの職業に就いてからというもの、私がずっと戸惑ったり悩んだり驚いたりしてきた医療について書かれた本である。

【『予期せぬ瞬間 医療の不完全さは乗り越えられるか』アトゥール・ガワンデ:古屋美登里・小田嶋由美子訳、石黒達昌監修(みすず書房、2017年/医学評論社、2004年『コード・ブルー 外科研修医救急コール』改題/原書は2002年)以下同】

 柔らかな精神と透徹した眼差し、そして薫り高い文章が竹山道雄と似通っている。ガワンデのデビュー作だ。彼の著作は全部読んだが今のところ外れなし。

 かつて日本語ラップの嚆矢(こうし)とされたのが佐野元春の「COMPLICATION SHAKEDOWN」(1984年)だった。ライナーノーツには「物事が複雑化してゆれ動いていること」とある。SHAKEDOWNには「間に合わせの寝床」という意味があるので性的な含みを持たせているのだろう。複雑系は complex system なのでコンプレックスでもよさそうなものだが、やはりニュアンスが違うようだ(「複雑」のcomplexとcomplicatedの違い | ネイティブと英語について話したこと)。

 著者は研修医で一般外科での8年に及ぶ訓練を終える時期に差し掛かっていた。大いなる疑問が胸をよぎる。「8年?」。なんと8年を要しても一人前とは言えないのだ。医大を卒業して8年経てば30歳である。その間に培われる知識や技術を思えば医療を取り巻く複雑な様相が何となく見えてくる。

 もちろん、患者は飛行機に比べてはるかに複雑で、それぞれがまったく違う体質を持っている。それに、医療は完成品を納品したり製品カタログを配布したりする仕事とはわけが違う。どんな分野の活動でも、医療ほど複雑ではないだろう。認知心理学、「人間」工学、あるいはスリーマイル島ボパールの事故などの研究から、私たちが過去20年に学んできたことだけをとっても、同じことがわかる。つまり、すべての人間が過ちを犯すだけでなく、われわれは予測可能なパターン化された方法で、頻繁に過ちを犯している。そして、この現実に対応できないシステムは、ミスを排除するどころかそれを増加させるのである。
 英国の心理学者ジェームズ・リーズンは、著書『ヒューマンエラー』の中で、次のように主張している。激しく変化する状況で、入ってくる知覚情報を無駄なく切り替えるためには、直観的に考え行動する能力がなければならない。人間がある一定の間違いを犯してしまう性癖は、この優れた脳の能力と引き替えに支払わなければならない代償なのである。このため、人間の完全さを当てにしたシステムは、リーズンが呼ぶところの「潜在的ミス(起きることを待っているようなミス)」をもたらす。医学の現場はこの実例に満ちている。たとえば、処方箋を書くときのことを考えてみよう。記憶に頼る方法は当てにならない。医者は、誤った薬や誤った分量を処方してしまうかもしれないし、処方箋が正しく書かれていても、読み間違えることもある(コンピュータ化された発注システムでは、この種のミスはほとんど起こらないが、こうしたシステムを採用している病院はまだ一握りしかない)。また、人が使うことを十分に考慮して設計されている医療器具は少なく、それが原因で潜在的なミスを引き起こすことがある。医師が除細動器を使うときにたびたび問題が起こるのは、その装置に標準的な設計規格がないためである。また、煩雑な仕事内容、劣悪な作業環境、スタッフ間でのコミュニケーション不足といったことも潜在的ミスを引き起こす。
 ジェームズ・リーズンは、もう一つ重要な意見を述べている。失敗はただ起こるのではなく波及する、ということだ。

 例えば少し考えれば想像できることだが保険は多種多様な病気や怪我、複雑化する事故や災害を網羅することは難しい。既に保険会社の社員ですら保険でカバーできる範囲を認識できていない。医療の場合、病気の種類、薬の種類、人体の構造、医療器具の使い方、感染症の予防対策、患者と家族の病歴、そして個人情報など知っておかねばならない情報量は厖大なものとなる。しかも病気や薬は次々と増え続ける。

 ガワンデは医療事故を防ぐことはできないと述べる。それは医師の単なる言いわけではない。現実問題として「防げる」と考えるのが間違っているのだ。医療現場の救急処置がドラマチックに描かれている。どのエピソードを読んでも判断の難しさがよく理解できる。世間は医療過誤に目くじらを立てるが、いくらミスを追求してもミスがなくなることはない。社会が折り合いをつけて許容するしかなさそうだ。ただし必要とされる代償はあまりにも大きい。生け贄(にえ)と言ってよかろう。何らかの補償制度が不可欠だ。

 一方で医師には人間のクズが多い。世間の常識も知らないような輩が白衣をまとっている。しかも勉強不足だ。そして勉強不足を恥じることがない。私は医師の話をありがたがって拝聴するタイプの人間ではないので、あからさまに異論を述べ、反論し、「医学を利用する気はあるが医学の言いなりにはならない」との信条を披瀝する。

 医療リテラシーを充実させるべきだ。で、病院側はもっと修理屋としての自覚を持ち、「治るか治らないかはわかりません。失敗すれば死ぬこともあります」とはっきり告げた方がいいと思う。医療への過剰な信頼が患者の瞳を曇らせている側面がある。医療に万能を求めてはなるまい。我々は諦(あきら)める術(すべ)を身につけ、観念すべき時を見極める勇気を持つべきだ。

 医療といえども需給関係が経済性を決める。我々が不老不死を求めれば医療費は無限に増え続けることだろう。それでも人は死ぬ。必ず死ぬ。死は恐るべきものではないという社会常識を構築できないものか。

2020-01-02

生きるとは繁殖すること/『生命とはなにか 細胞の驚異の世界』ボイス・レンズバーガー


・『生命とは何か 物理的にみた生細胞』シュレーディンガー
『生命を捉えなおす 生きている状態とは何か』清水博
『生物と無生物のあいだ』福岡伸一
・『利己的な遺伝子』リチャード・ドーキンス

 ・生きるとは繁殖すること

・『生命とは何か 複雑系生命科学へ』金子邦彦
『生命を進化させる究極のアルゴリズム』レスリー・ヴァリアント

 しかしながら、生命がその種の定義によってしか規定できないということであれば、誰もが奇跡をひきおこすことができるし、それについては手間暇はかからない。タンクの中には、溶接密封された2~3センチばかりのガラスの小瓶(ヴァイアル)、つまり、アンプルが3万本ばかり収められており、その中には、活力を完全に封じ込められてしまった200万ばかりの生命体がスプーン一杯に満たないごく少量の溶液の中で冷凍されているので、そのうちの一つを取り出して体温まで温めてやればよい。ちっぽけな生命体は、冷凍による仮死状態から数分で復活する。今日、ほとんどすべての生物医学の研究室でごくあたりまえになってしまったこうした光景というものは、私たちが生きている年月という概念によっては想像することもできないのだが、これらの生命体は、「生命を取り戻す」のである。微細な有機体は、アンプルの表面を動きまわったり、這いまわったりするようになる。溶液に溶け込んでいる養分を吸収するようになる。私たちは、しばらくすると、こうした生命体がまぎれもなく生きている何よりの証拠を目にすることができる。生命体が繁殖を始めるようになるからだ。

【『生命とはなにか 細胞の驚異の世界』ボイス・レンズバーガー:久保儀明〈くぼ・よしあき〉、楢崎靖人〈ならさき・やすと〉訳(青土社、1999年/原書は1996年)】

 392ページ上下二段。価格を2800円に抑えたのは立派だ。さすが青土社〈せいどしゃ〉と言いたいところだが紙質の悪さが目立つ。更に著者・訳者のプロフィールがないのは手抜きが過ぎる。Webcat Plusで調べる羽目となった。

 思考は人間の尺度に支配されている。時間的なスケールは数時間・1日・1年・一生という具合で100年に収まる。一方空間的なスケールが自分の移動距離を超えることが少ない。生きるとは動くことであるとの思い込みは人間の時間的スケールに基づくものだ。もっと長い尺度で見れば「生きるとは繁殖すること」と言えよう。

 連綿とつながる子孫の流れを俯瞰すれば確かに「生物は遺伝子の乗り物に過ぎない」(リチャード・ドーキンス)と考えることも可能だ。ただしかつて我が世の春を誇った恐竜は滅んだ。原因は直径10キロ級の隕石衝突によるものと考えられているが(第2回 恐竜絶滅の原因は本当に隕石なのか | ナショナルジオグラフィック日本版サイト)、生物学的には神経伝達の速度が遅すぎることが挙げられる。

 生命とは永続性を示す言葉なのだろう。あらゆる宗教が死と永遠を説く理由もそこにある。我々が自分の存在についてあれこれ悩むのも「生きている証し」を求めているからだ。

 2055年には世界人口が100億人に達すると見込まれている。日本の人口は1億2808万人(2008年)がピークでそれ以降減少に転じた。人口問題は食糧とエネルギーの資源を巡るテーマとして論じられることが多いが、政治色が濃く国際問題というよりは国家エゴをきれいな言葉で表明しているだけで、発展途上国を貧しくした欧米の帝国主義や戦争の責任を完全に無視している。昨今話題の移民問題も戦争責任と合わせて考える必要がある。

 天敵がいないからといって人間が無限に増え続けることはできない。そもそも100年後には今生きている人はほぼ全員が死んでるわけで、その時どんな世界が待ち受けているかは誰にもわからない。病気・戦争・自殺は人間の世界と細胞の世界に共通する歴史である。

 マイクロバイオームから本書にまで辿り着いたのだが、私は貴族政から民主政に宗旨変えを迫られた。エリート主義は大脳を司令塔とする政治制度である。ところが人体は腸内細菌という市民が思いの外、全体に影響を与えているのだ。人間が多細胞生命体で一つの巨大なコロニーだとすれば、投票の有無にかかわらず一人ひとりの感情・行動・反応が国家や世界に及ぼす影響を軽視するべきではない。

 暴飲暴食や過剰な運動は一種の帝国主義の表れだ。健康が持続可能性を示すのであれば粗衣粗食、適度な運動、瞑想(思考の停止)が秘訣となるだろう。

2019-11-24

祭祀とテロ/『情報社会のテロと祭祀 その悪の解析』倉前盛通


『小室直樹vs倉前盛通 世界戦略を語る』世界戦略研究所編
『悪の論理 ゲオポリティク(地政学)とは何か』倉前盛通
『新・悪の論理』倉前盛通
『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編

 ・祭祀とテロ
 ・ルネサンスと宗教改革が近代化の鍵

『自然観と科学思想 文明の根底を成すもの』倉前盛通
『悪の超心理学(マインド・コントロール) 米ソが開発した恐怖の“秘密兵器”』倉前盛通
『悪の運命学 ひとを動かし、自分を律する強者のシナリオ』倉前盛通
『悪の戦争学 国際政治のもう一つの読み方』倉前盛通
『悪の宗教パワー 日本と世界を動かす悪の論理』倉前盛通

必読書リスト その四

 祭祀(さいし)という言葉と、テロという言葉を並べることは、いかにも奇妙に読者には映るかもしれない。しかし、古代から、祭祀と、何らかの「血の祭り」つまり、テロとは不可分のものであった。「血祭りにあげる」という言葉は日本にも昔から存在している。
 日本のようなうっそうと茂った照葉樹林帯の中で、静寂でおとなしい自然祭祀を数千年来、続けてきた国でさえ、時として、「血祭り」とか「人柱」とか「人身御供(ひとみごくう)」という発想が、あらわれた。これは多分に狩猟民の系譜が、シベリア方面から日本列島へ流入してきた影響かも知れないが、現生人類には本来、そのような「情動(エモーション)」が大脳皮質の奥深いところに潜在しているのかも知れない。
 殊に、日本列島のように、温和な気候に恵まれ、食糧の豊富な環境で民族形成をなしとげた民族と違って、アラビア半島のような、酷烈で非情な風土の中で、苦しい生活にあえぎながら、ひとときのやすらぎを、ほんの僅かの間、熱烈な祈祷の陶酔の中に見出してきたグループにとっては、祭壇に血塗られた「いけにえ(犠牲)」を供することが、祭祀の必須条件であった。
 羊や牛の首を打ち落し、その溢れ出る血潮が、神の祭壇を血塗るとき、はじめて、彼等が奉ずる呵責なき嫉む神の怒りを鎮めることができる。しかも、異なる神を拝む者、つまり、異教徒は動物であって、人間ではないというドグマが、アラビアに発生した三大宗教では、特に顕著にあらわれた。
 キリスト教徒が、つい最近まで、異教徒を人間として遇しなかった事は歴史の証明する所である。
 このような宗派が異常な熱狂を帯びた時、異教徒に対する大量虐殺が、祭祀のための「いけにえ」として、歴史上、数限りなくおこなわれてきた。
 その中で、例えば流浪のユダヤ人などは、「血祭り」にあがるには最も良き対象であった。チブスが流行したといってはユダヤ人を大量に殺害し、ペストが流行したといってはユダヤ人を大量虐殺してきたのが、ヨーロッパのキリスト教社会の特色である。ユダヤ人は異教徒であるから人間でなく、動物の一種にすぎないという宗教的免罪符が、彼等キリスト教徒の良心を麻痺させた。
 ヒトラーのユダヤ人虐殺は、このようなヨーロッパの歴史の一貫にすぎない。これは、まさに、「祭祀とテロ」の不可分の関係を示すものである。

【『情報社会のテロと祭祀 その悪の解析』倉前盛通〈くらまえ・もりみち〉(創拓社、1978年/Kindle版、2018年)】

 倉前盛通の著作はなぜか図書館にも少ない。一度国会図書館から取り寄せたのだが「禁コピー」指定されていて驚いたことがある。本気で取り組もうと思えばKindle版で読むのがいいだろう。ただし、amazonタブレットFireは頗(すこぶ)る評価が低いので、個人的には「Vankyoタブレット10インチ」か「Dragon Touch タブレット10.1インチ」あたりを狙っている。

読書とは手の運動」(草森紳一)と考えてきたが鈴木傾城〈すずき・けいせい〉のテキストを読んで大いに考えさせられた。

もう紙の書籍にこだわるな。電子書籍に完全移行を成し遂げよ │ ダークネス:鈴木傾城
変われないと生き残れない。今の日本が必要としているのは新しい人間だ │ ダークネス:鈴木傾城
紙の本・紙の資料・紙の写真からの脱却。私はこのようにやることにした │ ブラックアジア:鈴木傾城

 今日現在で私が保存している書籍のページ画像は11.7GBである。2011年から9年間で6万ページ分の撮影をしてきたわけだ。これだけで300ページの書籍200冊分に相当する。情報は無限に増殖する。死の間際まで。私がただただ欲するのは有能な秘書だ。

 倉前盛通の全集が出て然るべきだと思うのだが指をくわえて待っていても仕方がない。いよいよ電子書籍の海に船出する時が来たのだ、と覚悟を決めた。

 刊行された1978年においてテロとはハイジャックなどを中心とする赤色テロのイメージが強かった。しかし倉前はもっと広義に捉えており、「政治的・宗教的目的を果たすための暴力行為」と考えてよかろう。

 似たようなテーマは立花隆著『文明の逆説 危機の時代の人間研究』(1976年)にもあり、「戦争は人類の人口調節機能」と書いてあったはずだ。

 人類の歴史において「暴力の噴出」は至るところにある。あたかも句読点のように散りばめられているといっても過言ではない。魔女狩り~白人帝国主義による植民地での殺戮~インディアン虐殺が近代の歴史であり、二度の大戦を経てからは社会主義国で粛清の嵐が吹き荒れた(スターリン、毛沢東、ポル・ポト、ヒトラー)。そしてルワンダ大虐殺(1994年)に至るのである。

 高度に情報化された社会では憎悪が一気に拡大・増幅される。なかんずくインターネットでつながる人々は条件反射的に感情を拡散する傾向が強い。ここに新たな英雄や教祖が誕生すれば世界は右にでも左にでも動いてしまうことだろう。

 人類史において武器を手放した実績があるのはたぶん日本だけだ。16世紀には世界最大の銃保有国でありながら鉄砲を廃止し、明治維新では武士が刀を捨てた。子孫に誇るべき歴史である。人類の暴力性を抑制するには武士道を再興する以外にない。武士がひとたび刀を抜く時は切腹する責任が問われた。「殺す」ためには「死ぬ」覚悟が必要だった。幼少期からの厳格な教育がミラクル・ピースといわれた江戸200年の平和を支えてきたことは確かだろう。

2019-10-25

世界史は陸と海とのたたかい/『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』水野和夫


『〈借金人間〉製造工場 “負債"の政治経済学』マウリツィオ・ラッツァラート
『タックス・ヘイブン 逃げていく税金』志賀櫻
『超マクロ展望 世界経済の真実』水野和夫、萱野稔人
『資本主義の終焉と歴史の危機』水野和夫

 ・世界史は陸と海とのたたかい

『自由と成長の経済学 「人新世」と「脱成長コミュニズム」の罠』柿埜真吾
『悪の論理 ゲオポリティク(地政学)とは何か』倉前盛通
『通貨戦争 崩壊への最悪シナリオが動き出した!』ジェームズ・リカーズ

世界史は陸と海とのたたかい

 EU帝国とアメリカ金融・資本帝国の違いを考える上で、大きな示唆を与えてくれるのが、シュミットの「世界史は陸の国に対する海の国のたたかい、海の国に対する陸の国のたたかいの歴史である」という歴史的視座です。
 21せいきは、シュミットが世界史を「陸と海とのたたかい」と定義した通りの展開となっています。海の「金融・資本帝国」(英米)vs.陸の「領土帝国」(独仏、露・中・中東)のたたかいです。アメリカ金融・資本帝国は無限空間である「海の国」の延長であるのに対して、EU帝国は有限空間の「陸の国」だということです。
 そして現代では、「長い16世紀」以来の近代システムにおいて勝者であった「海の国」が弱体化し、近代システムでは敗者であった「陸の国」の力が強まっているのです。金利がゼロになれば、これまで蒐集する側であった「海の国」が富を蒐集できなくなって、相対的にその地位が低下するからです。(中略)
「陸の時代」の支配者たちは、領土を手中におさめると、官僚組織の肥大化など、人的にも物的にも多大なコストをかけて広大な領土を統治しました。しかし、そのコストの重みに耐えられなくなると、社会秩序が崩れ、領土は拡大から収縮への局面に入っていくということの繰り返しでした。
 ところが、15世紀の末になると、造船技術が発達したおかげで、西欧の人々は陸の縛りから解放され、「より遠く」へ向かうことができるようになりました。ヨーロッパ各国のなかで、真っ先に大海原に出たのは、地中海世界という狭い「閉じた空間」では利潤を得られなくなったスペイン、ポルトガル、それを経済的に支援したイタリアです。「湖」にした地中海から飛び出し、大航海という賭けに出たのです。
 スペインは新大陸で銀山を発見し、ポルトガルは喜望峰を廻(まわ)って遠隔地貿易を拡大させました。しかし、スペインもポルトガルも実質的には「陸の国」の性質を捨て去ることができませんでした。海を渡った先の「陸」で、「陸の国」としての古い統治の方法を続けたのです。
 一方、新しく登場したオランダやイギリスは「海」を制することで空間を拡大させました。海という空間は、既存の国家が制定した「陸の法」が行き届く領域ではない。ならばその空間から「自由」に収奪するべく新たなルールをつくろう――。オランダやイギリスは、このような発想で、まったく新しいルールを自国に有利なようにつくり上げたのです。
 このように「陸の時代」から「海の時代」へと転換したことをシュミットは「空間革命」と呼んでいます。

【『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』水野和夫(集英社新書、2017年)】

 いやはや勉強になった。付箋だらけである。読了後もパラパラと読み返した。その丁寧な記述と論理の整合性で一気に読むことが可能だ。

 シーパワー(海洋権力)とランドパワー(大陸権力)は地政学の基本的な概念であるが、倉前盛通著『悪の論理 ゲオポリティク(地政学)とは何か』を読んで文明史的な意味合いを知った。上記テキストも倉前と異同はない。

 水野は「海の国」である英米が海洋から「金融・電子空間」にシフトしたものの、ゼロ金利時代を迎えた今、資本主義が滅びることは避けられないと説く。資本主義後を提示するのは困難極まりないが、「閉じた帝国」になると予測している。

 ま、倉前の著書が半世紀ほど前なので視点が異なるのは当然としても、水野の主張は心に響いてくるものが少ない。で、既に二度読んだ『悪の論理』も目繰り返す羽目となった。

 私が本書で引っ掛かったのは「正確に言えば、『永続敗戦論』で政治学者、白井聡が鋭く指摘したように」(233ページ)との一文である。

 白井聡は、しばき隊に交じって「安倍やめろ」と叫んでいた人物である(netgeek 2017年7月7日)。札付きの学者といってよい。もちろん赤札だが。

 加齢のため頭脳の衰えは著しいのだが、まだまだ鼻の方は利く。水野和夫の正体は「反資本主義者」なのだ。それに気づいた時、私は隠された「赤い爪」を見たような思いがした。

 水野が著作で行っているのは「資本主義の死亡診断書」を提示することだ。その目的が見えれば反資本主義→容共勢力であるのは確実と思われる。

 私の見立てが勘違いか洞察かは読者の判断に委ねるが、池上彰や佐藤優が水野を持ち上げていれば左翼と見て間違いなかろう。

 尚、amazonでは送料(500円)が発生するので要注意。



封建制は近代化へのステップ/『世界のしくみが見える 世界史講義』茂木誠

2019-09-18

越境する武道/『ウィリアム・フォーサイス、武道家・日野晃に出会う』日野晃、押切伸一


『究極の身体(からだ)』高岡英夫
『フェルデンクライス身体訓練法 からだからこころをひらく』モーシェ・フェルデンクライス
『心をひらく体のレッスン フェルデンクライスの自己開発法』モーシェ・フェルデンクライス
『運動能力は筋肉ではなく骨が9割 THE内発動』川嶋佑

 ・越境する武道

『大野一雄 稽古の言葉』大野一雄著、大野一雄舞踏研究所編
『武学入門 武術は身体を脳化する』日野晃
『気分爽快!身体革命 だれもが身体のプロフェッショナルになれる!』伊藤昇、飛龍会編
『月刊「秘伝」特別編集 天才・伊藤昇と伊藤式胴体トレーニング「胴体力」入門』月刊「秘伝」編集部編
・『火の呼吸!』小山一夫、安田拡了構成
・『新正体法入門 一瞬でゆがみが取れる矯正の方程式』佐々木繁光監修、橋本馨
・『仙骨姿勢講座 仙骨の“コツ”はすべてに通ず』吉田始史
『ストレス、パニックを消す! 最強の呼吸法システマ・ブリージング』北川貴英
『肚 人間の重心』 カールフリート・デュルクハイム

身体革命
必読書リスト その二

 私の手の動きがまったく見えないから、目が点になっている。ダンサーだから早い動きは充分できる。しかし、気配なく動く私の手や足は、まったく理解できないようだ。
 そこから、肘の使い方に入っていき、自然にワークになっていた。腕を動かすためには「肘の操作」が重要で、そのためにはまず肘の力を抜くことを稽古しなければならない。
 そして、肘を操作するためには上半身の柔軟性が求められるからこそ、「胸骨操作」が重要なのだ。
 その一連の動きを「上半身と下半身を切り離す」稽古とともにする。
 上半身と下半身の切り離しは、腹部腰部の脱力と比例する。この辺りの筋肉の緊張か弛緩かが、上半身も下半身も柔軟に、そして自由に動かすための要になる。

【『ウィリアム・フォーサイス、武道家・日野晃に出会う』日野晃〈ひの・あきら〉、押切伸一〈おしきり・しんいち〉(白水社、2005年)以下同】

 フランクフルト・バレエ団を経てザ・フォーサイス・カンパニーの一員となった安藤洋子〈あんどう・ようこ〉は日本へ帰国すると日野晃の道場に通った。ドイツへ戻ると安藤の動きは明確に変わっていった。同僚ダンサーが教えを請う。挙げ句の果てにはウィリアム・フォーサイスが「皆の前で(武道の動きを)伝えて欲しい」と切り出した。安藤は密かな目論見を口にした。「これ以上のことを教わりたければ、日本の先生を招いて下さい」と。フォーサイスは即断した。「直ぐに呼んでくれ」と。


 私は以下の動画で日野を知った。








 私は上記テキストで自転車のポジションを変えた。胸骨を引っ込めることで肩甲骨が開いて楽に走れるようになった。最後の動画を見ると明らかだが日野は足首に至るまで自在に動かしている。

 胸骨の動きに注目した人に伊藤昇がいる。伊藤の存在も日野の著書で知った。「相手を目で倒す」のはシステマでも行われている。予(かね)てより私はシステマが近接格闘術で最高峰と考えてきたが実は忍術の方が上であった。武神館宗家〈ぶじんかんそうけ〉・初見良昭〈はつみ・まさあき〉も日野の著書で知った。私は決して日本万歳を唱える者ではないが、やはり日本は底知れない文化を持つ国である。世界最強の傭兵(ようへい)といえばグルカ兵と相場は決まっているが、そのグルカ兵ですら恐れたのが大日本帝国の軍人であったことは意外と知られていない。

 全員が輪になって正座をした。その姿が初日とはくらべものにならないくらい、様になっている。夕陽に横顔を照らされた日野が口を開いた。

「私は57年間生きている。しかし私は何を目的として生きてきたのかを知らなかったが、ここフランクフルトに来て、そしてフォーサイスに出会って、はっきりした。この時期を過ごし、そして、皆と出会うためだった、と」

 本書のキーワードは「理解」である。越境する武道がバレエダンサーを虜(とりこ)にするのは武術が単なる目先の技術ではなく、長い伝統という裏打ちがあるためだろう。教えた日野が教えられる。学ぶ謙虚さが武術を無限に進化させるのだろう。「理解」という点において『往復書簡 いのちへの対話 露の身ながら』(多田富雄、柳澤桂子著)と併読することをお勧めしよう。

2019-08-23

利己的であることは道理にかなっている/『徳の起源 他人をおもいやる遺伝子』マット・リドレー


『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー
『人間の本性について』エドワード・O ウィルソン
『理性の限界 不可能性・不確定性・不完全性』高橋昌一郎

 ・利己的であることは道理にかなっている
 ・囚人のジレンマと利他性

『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール
『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
『道徳性の起源 ボノボが教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
『ママ、最後の抱擁 わたしたちに動物の情動がわかるのか』フランス・ドゥ・ヴァール
『家畜化という進化 人間はいかに動物を変えたか』リチャード・C・フランシス
・『ゲノムが語る23の物語』マット・リドレー

必読書リスト その五

 この囚人のジレンマは、どうやったらエゴイストたちがタブーや道徳的束縛や倫理的規範に依存せず、協力しあえるようになるのかをはっきりとわれわれに示してくれる。どうしたら自己利益追求を動機とする故人が公共の利益のために行動できるようになるのだろうか。このゲームを囚人のジレンマと呼ぶのは、自分の刑を軽くするために相手に不利な証言をするかどうかの選択を迫られた二人の囚人の寓話がゲームの意味をよく物語っているからである。もしどちらも相手を裏切らなければ、警察は二人を軽い罪で起訴することしかできない。だから、両者が黙っていればどちらも得をするわけである。しかし、もし片方が裏切れば、裏切ったほうはもっと得をするのである。
 なぜか。囚人の話はおいておいて、二人のプレーヤーが特典を争う単純な数学的ゲームをしていると考えてみよう。もし二人が協力しあえば(つまり「沈黙を守れば」)、両者は3点もらえる(これを「報酬」という)。もし二人とも裏切れば1点しかもらえない(「罰則」)。だが、一人が裏切り、一人が協力したなら、協力したほうは得点をもらえず(「お人好しすぎたツケ」)、裏切り者は5点もらえる(「誘惑」)。だから、パートナーが裏切るなら、自分も裏切ったほうが得なのである。そうすれば少なくとも1点はもらえるのだから。しかし、もしパートナーが協力したとすれば、やはり裏切ったほうが得をするのである。3点ではなく、5点も入るのだから。つまり【相手がどういう行動にでようと、裏切るほうが得なのである】。ところが、相手も同じことを考えるはずである。だから当然の結果として、両者ともが相手を裏切る。それで3点とれるところを1点で我慢するはめになるのである。
 道理に迷わされてはならない。二人ともが高潔な人柄で実際には協力しあうとしても、それはこの問題とはまったく関係がない。われわれが追求しているのは、道徳がまったく関与しない場所で理論的に「最良」な行動であり、その行動が「正しい」かどうかはこの際関係ないのである。そして出た結論が裏切ることだったのだ。利己的であることは道理にかなっているのである。

【『徳の起源 他人をおもいやる遺伝子』マット・リドレー:岸由二〈きし・ゆうじ〉監修:古川奈々子〈ふるかわ・ななこ〉訳(翔泳社、2000年)】

 原書は1996年刊行。上記リンクの順番で読めば理解が深まる。っていうか天才的なラインナップであると自画自賛しておこう。本は読めば読むほどつながる。シナプスもまた。

遺伝子 親密なる人類史』シッダールタ・ムカジーと本書、そして『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』マシュー・サイドの3冊は同率1位である。文章ではシッダールタ・ムカジー、難解さではマット・リドレー、好みではマシュー・サイド。

 確かに「利己的であることは道理にかなっている」。騙(だま)す行為を見れば明らかだ。人を騙せば自分が得をする。騙すためには高度な知能が必要だ。なぜなら相手に「誤った信念を持たせる」必要があるためだ。つまり相手の気持ちを想像できなければ騙すことは不可能なのだ。詐欺師、宗教家、政治家、タレントを見よ。彼らは多くの人々を騙すことで懐(ふところ)を膨らませている。否、懐に入りきれないほどの資産を形成し、巧みな綺麗事を並べ立て、欲望を無限に肥大させる。

 ではなぜ我々のように平均的で善良な国民は詐欺を働かないのか? それは詐欺行為が横行すれば社会の存立が危うくなることを自覚しているからだ。大体普通の神経の持ち主であれば知人や友人を騙すことなど到底できない。ところがどっこいビジネスとなると話は別だ。腕のいい営業マンは値段を吹っ掛けた上で契約にまで持ち込むし、高額商品ほど粗利(あらり)も大きい。値引きをしたフリをするのも巧みだ。

 もっと凄いのは税金だ。ガソリンや酒類は二重課税(違法)になったままだし、いつの間にか国民健康保険料は国民健康保険税となり、自治体によっては有料のゴミ袋が指定されており、これまた税に等しい。しかも多くの国民は国民負担率を知らない。日本の租税負担率(所得税+国税+地方税+消費税+社会保障費)は42.5%(平成30年/2018年)である(国民に納税しろと命じるずうずうしい日本国憲法/『反社会学講座』パオロ・マッツァリーノ)。

 実際は国民全員が所得税10%を収めれば国家予算は回るという。つまり、あの手この手を使って金持ちが税金を払っていないのだ。これまた「利己的であることは道理にかなっている」。

 ただし、この話はこれで終わらない(続く)。