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2022-01-25

アイコンとは/『コンピュータ妄語録』小田嶋隆


『我が心はICにあらず』小田嶋隆
『安全太郎の夜』小田嶋隆
『パソコンゲーマーは眠らない』小田嶋隆
『山手線膝栗毛』小田嶋隆
『仏の顔もサンドバッグ』小田嶋隆

 ・アナログの意味
 ・アイコンとは

『「ふへ」の国から ことばの解体新書』小田嶋隆
『無資本主義商品論 金満大国の貧しきココロ』小田嶋隆
『罵詈罵詈 11人の説教強盗へ』小田嶋隆
『かくかく私価時価 無資本主義商品論 1997-2003』小田嶋隆
『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド』小田嶋隆
『テレビ標本箱』小田嶋隆
『テレビ救急箱』小田嶋隆

【アイコン】Icon

(中略)このIconなる英語は、実は、「イコン」すなわち、ギリシア正教でいうところの「聖母像や殉教者の肖像画」と語源を同じくしている。
 つまり、キリスト教圏に住む英語国民にとって「アイコン」は、相当に宗教味を帯びた言葉なのである。
 であるからして、漢字および仏教文化圏に住む者の一人として、私は、思い切って「アイコン」を「曼陀羅」と訳してみたい衝動に駆られるのであるが、そういうことをして業界に宗教論争を持ち込んでも仕方がないので、このプランはあきらめよう。
 さて、「イコン」は、聖書主義者あるいはキリスト教原理主義者の立場からすると、卑しむべき「偶像」である。
 彼らは、イコンに向かってぬかづいたりする人間を「アイコノクラスト(偶像崇拝者)」と呼んで、ひどく軽蔑する。なぜなら、偶像崇拝者は、何物とも比べることのできない絶対至高の存在である神というものを、絵や彫像のような卑近な視覚対象として描写し、そうすることによって神を貶め、冒涜しているからだ。しかも、偶像崇拝者は、もっぱら神の形にだけ祈りを捧げ、神のみ言葉に耳を傾けようとしない愚かな人間たちだからだ。
 ……ってな調子で、融通のきかない原理主義の人々はコ難しいことを言っているが、一般人は、ばんばん偶像崇拝をしている。
 結局、偶像は、迷える仔羊たちに「神」を実感させる道具として有効なのだ。というよりも、形を持たないものに向かって祈ることは、並みの人間にはなかなかできないことなのである。

【『コンピュータ妄語録』小田嶋隆〈おだじま・たかし〉(ジャストシステム、1994年)】

 曼陀羅(※本来は曼荼羅と書くのが望ましい)よりも「御真影」の方が近いだろう。かつて昭和20年(1945年)の敗戦まで、学校には奉安殿(ほうあんでん)があり天皇・皇后両陛下の肖像写真が安置されていた。宮内庁から貸与されていたため、戦災や火事などで焼失させるわけにいかず焼け死んだ校長もいた。詳しい経緯は知らないのだが、たぶん教育勅語(1890年)の翌年あたりから貸与されたのだろう。

 仏教系の新興宗教でも曼陀羅や仏像に対して御真影同様に接する人々がいる。息が掛からないようにとか、お尻を向けないとか。

 曼荼羅は神仏が集う姿や、仏教の宇宙観を示したもの。悟りを図示することはできないため、こうした姿になったのだろう。

 図像はわかりやすいがゆえに情報の抽象度が低くなる。偶像は英語で「アイドル」と言う。そう。オタク連中が好むあの「アイドル」だ。頭のネジが1本緩んだ純粋な若者がいたとしよう。彼は大好きなアイドルのポスターに向かって今日一日の出来事を語り、軽く口づけをしてベッドに入る。朝食もポスターの前で食べる。もちろん食べるのはアイドルの好物だ。「じゃ、行ってくるね。今日は残業で少し遅くなるから」と言って彼はアパートのドアを閉める。こうなるとアイドルのポスターはただのポスターではなくなっている。彼にとっては確かな存在であり、実存として機能するのだ。

 そう考えると仏像や曼荼羅を拝むことのおかしさが見えてこよう。仮に生身のブッダを拝んだところで悟りは開けない。ま、当たり前の話だ。つまり、拝む・祈るという行為は「瞑想の割愛を肯定する」のである。自分の像が後世になって拝まれていることを知れば、ブッダは一笑に付したことだろう。

 現代社会における偶像は、地位・名誉・財産・学歴・家柄などなど。不要に頭を下げさせるのが偶像の効用である。高級車や高級腕時計もアイコンの役割を果たす。男なら心意気で勝負しろってえんだ。



日露友好の土壌/『なぜ不死鳥のごとく蘇るのか 神国日本VS.ワンワールド支配者 バビロニア式独裁か日本式共生か 攻防正念場!』菅沼光弘、ベンジャミン・フルフォード、飛鳥昭雄

2022-01-12

脳と心/『唯脳論』養老孟司


『ものぐさ精神分析』岸田秀
『続 ものぐさ精神分析』岸田秀
『脳は奇跡を起こす』ノーマン・ドイジ
『脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線』ノーマン・ドイジ

 ・唯脳論宣言
 ・脳と心
 ・睡眠は「休み」ではない
 ・構造(身体)と機能(心)は「脳において」分離する
 ・知覚系の原理は「濾過」

『カミとヒトの解剖学』養老孟司

 脳と心の関係に対する疑問は、たとえば次のように表明されることが多い。
「脳という物質から、なぜ心が発生するのか。脳をバラバラにしていったとする。そのどこに、『心』が含まれていると言うのか。徹頭徹尾物質である脳を分解したところで、そこに心が含まれるわけがない」
 これはよくある型の疑問だが、じつは問題の立て方が誤まっていると思う。誤まった疑問からは、正しい答が出ないのは当然である。次のような例を考えてみればいい。
 循環系の基本をなすのは、心臓である。心臓が動きを止めれば、循環は止まる。では訊くが、心臓血管系を分解していくとする。いったい、そのどこから、「循環」が出てくるというのか。心臓や血管の構成要素のどこにも、循環は入っていない。心臓は解剖できる。循環は解剖できない。循環の解剖とは、要するに比喩にしかならない。なぜなら、心臓は「物」だが、循環は「機能」だからである。

【『唯脳論』養老孟司(青土社、1989年/ちくま学芸文庫、1998年)】

 つまり、心は脳機能であるということ。作用としての心。心として働く。養老の考え方は諸法無我と似ている。

 脳の構造からいえば思考(大脳皮質)と感情(辺縁系)と運動(小脳)を司るところに心が位置する。

「心」という漢字が作られたのは後代であること(『身体感覚で『論語』を読みなおす。 古代中国の文字から』安田登)や、ジュリアン・レインズの二分心を踏まえると、【言葉の後に】心が発生したことがわかる。

 人間にとって言葉は智慧であり、病でもあるのだろう。

2021-12-08

悟りとは認識の転換/『悟り系で行こう 「私」が終わる時、「世界」が現れる』那智タケシ


『悟りの階梯 テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造』藤本晃
『無(最高の状態)』鈴木祐
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『未処理の感情に気付けば、問題の8割は解決する』城ノ石ゆかり
『マンガでわかる 仕事もプライベートもうまくいく 感情のしくみ』城ノ石ゆかり監修、今谷鉄柱作画
『ザ・メンタルモデル 痛みの分離から統合へ向かう人の進化のテクノロジー』由佐美加子、天外伺朗
『無意識がわかれば人生が変わる 「現実」は4つのメンタルモデルからつくり出される』前野隆司、由佐美加子
『ザ・メンタルモデル ワークブック 自分を「観る」から始まる生きやすさへのパラダイムシフト』由佐美加子、中村伸也
『左脳さん、右脳さん。 あなたにも体感できる意識変容の5ステップ』ネドじゅん
『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』サリー・ボンジャース

 ・「私」という幻想
 ・悟りとは認識の転換

ジム・キャリー「全てとつながる『一体感』は『自分』でいる時は得られないんだ」
『二十一世紀の諸法無我 断片と統合 新しき超人たちへの福音』那智タケシ
『すでに目覚めている』ネイサン・ギル
『今、永遠であること』フランシス・ルシール
『プレゼンス 第1巻 安らぎと幸福の技術』ルパート・スパイラ
『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
『人生を変える一番シンプルな方法 セドナメソッド』ヘイル・ドゥオスキン
『タオを生きる あるがままを受け入れる81の言葉』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
『覚醒の炎 プンジャジの教え』デーヴィッド・ゴッドマン

悟りとは
必読書リスト その五

 実は、「悟り」とは、解脱でも、完成でもなんでもなく、認識の転換なのです。

【『悟り系で行こう 「私」が終わる時、「世界」が現れる』那智タケシ〈なち・たけし〉(明窓出版、2011年)以下同】

「必読書」に入れた。なんとはなしに、この手の本を軽んじることが、あたかも知性的であるかのような思い込みがあった。

「認識の転換」とは見る(≒感じる)位置が変わることである。ただ、それだけのことだ。そこが凄い。世界とは、「私から見える世界」を意味する。「私が見る世界」と言ってもよい。見ているのは「私」だ。これをどうやって換えるのか? 例えば自分が映った鏡、写真、動画を見る時、我々の視点は外側に位置する。「離れて見る」のが瞑想のスタートだ。

 私は断言するのですが、もしも真に悟りの認識を得る――私は悟ったという言葉は使いたくありません。それは完成を意味するからです――ことができたら、その人の言葉は必ず、仏教とはかけ離れて感じられるような独自な響きを持つのです。独自な形式を持つのです。これだけは間違いのないことです。

 なぜなら、彼らは他人の言葉で語るのではなく、自分の体内から赤子を生み出すように、自分の身体感覚に基づいて、自分の言葉で表現せざるを得ないからです。
 その言葉は、仏教的枠組みを大きく踏み外し、時に矛盾するものであるかもしれない。しかし、彼らはそれを恐れないのです。(中略)
 学者や僧侶は、仏教において悟りとは何かを語ることはできるかもしれません。しかし、彼らの中に悟り体験があるかどうかはまったく別の話です。むしろ、彼らの蓄積された宗教的知識こそが、悟りの認識を邪魔している可能性の方が強いと私は感じています。
 私も仏教の入門書なり専門書めいたものに目を通すことはありますあ、その中に著者独自の悟り観のようなものが感じられるケースはほとんどありません。それどころか、仏教の叡智を切り売りして、世間知に貶めてしまっているものがほとんどという有様です。それらはもはや悟りについての書物ではなく、世の中をうまく生きるための処世術でしかないのです。
 マスメディアは、叡智を世間知に陥(ママ)しめました。人は変わるためではなく、世の中を巧妙に上手く生きるために、こうした本を手に取るのです。
 悟りの認識を得ていないものが仏法を問いても、伝わるのは2500年に亘って蓄積された絢爛豪華な知識の断片だけです。なぜ断片になってしまうかというと、悟りの根幹を語り手が理解していないからです。そうした人の書いた仏教の解説書はいずれも処世術であり、悟りとは何ら関係がありません。こうしたものは、ある種の知識欲を満足させるかもしれませんが、断片的知識と悟りの認識は相反するものなのです。

 那智タケシはクリシュナムルティを手掛かりにして、6年間の動的瞑想を経て悟りに至った。彼自身の言葉が創意に溢(あふ)れている。何かを書くというよりも、泉から湧き出る水のような勢いがある。

 真理は常識や道徳を無視してしまう。真理は世間に迎合しない。そして真理は光を放っている。

 教義は真理の一部であったとしても真理そのものではない。なぜなら真理は言葉で表現できるものではないからだ。そういう意味では仏教が神学さながらにテキスト主義に陥ったのは、悟りから大きく乖離する要因となった。経典を重視したのは悟る人が少なくなったためだろう。言葉は象徴に過ぎない。犬という言葉は犬そのものではない。

 悟りが様式や知識に堕すと言葉が重視されるようになる。印刷技術がなかった時代を思えば、経典を持っていること自体が一つの権威となったことだろう。だが、経典を何度読んだところで悟りを得られない事実が経典の限界を示している。悟りから離れたブッダの教えは学問となった。

 仏弟子となった周利槃特〈しゅり・はんどく/チューラパンタカ〉は4ヶ月を経ても一偈(いちげ)すら覚えることができなかった。一説によれば自分の名すら記憶できなかったと伝えられる。ブッダは一枚の布を渡し、精舎(しょうじゃ)の清掃と比丘衆(びくしゅ)の履き物を拭かせた。唱えるのは「塵を除く、垢を除く」の一言である。やがて周利槃特は阿羅漢果を得る。

 ここで大事なのは行(ぎょう)がそのまま悟りにつながったのではなく、行を手掛かりにして悟りを開いたことだ。修行を重んじるのは悟れない人々である。鎌倉仏教に至っては悟りを離れ、「信」を説くようになってしまった。

2021-09-14

創造モードとサバイバルモード/『あなたという習慣を断つ 脳科学が教える新しい自分になる方法』ジョー・ディスペンザ


『「言葉」があなたの人生を決める』苫米地英人
『アファメーション』ルー・タイス
『「原因」と「結果」の法則』ジェームズ・アレン
『「原因」と「結果」の法則2 幸福への道』ジェームズ・アレン
『新板 マーフィー世界一かんたんな自己実現法』ジョセフ・マーフィー
『未来は、えらべる!』バシャール、本田健
『潜在意識をとことん使いこなす』C・ジェームス・ジェンセン
『こうして、思考は現実になる』パム・グラウト
『こうして、思考は現実になる 2』パム・グラウト
『自動的に夢がかなっていく ブレイン・プログラミング』アラン・ピーズ、バーバラ・ピーズ

 ・創造モードとサバイバルモード

『無(最高の状態)』鈴木祐
『ゆだねるということ あなたの人生に奇跡を起こす法』ディーパック・チョプラ
『ソース あなたの人生の源はワクワクすることにある。』マイク・マクナマス
『未処理の感情に気付けば、問題の8割は解決する』城ノ石ゆかり
『ザ・メンタルモデル 痛みの分離から統合へ向かう人の進化のテクノロジー』由佐美加子、天外伺朗
『無意識がわかれば人生が変わる 「現実」は4つのメンタルモデルからつくり出される』前野隆司、由佐美加子
『ザ・メンタルモデル ワークブック 自分を「観る」から始まる生きやすさへのパラダイムシフト』由佐美加子、中村伸也
『あなたはプラシーボ 思考を物質に変える』ジョー・ディスペンザ
『宇宙一美しい奇跡の数式 0=∞=1』ノ・ジェス

必読書リスト その五

 創造モードにあるとき、私たちは完全に創作に没頭し、大いなる宇宙の流れに沿っているため、環境、身体、時間の存在がなくなり、意識に入らなくなる。
 創造モードで生きることとは、誰でもない人として生きることである。何かを夢中で創っているとき、我を忘れていることに気づいたことがあるだろうか? そのときあなたは自分の知っている世界から逸脱している。そのときあなたは、自分の所有物、帰属する人々や集団、職業、住所によって自らを定義する「客観的人物」ではない。創造モードにあるときのあなたは、あなたという習慣を忘れていると言ってもいいだろう。そのときあなたは自己中心的な自分を横に置いて、無我の境地に入る。

【『あなたという習慣を断つ 脳科学が教える新しい自分になる方法』ジョー・ディスペンザ:東川恭子〈ひがしかわ・きょうこ〉訳(ナチュラルスピリット、2015年)】

 創造モードの反対がサバイバルモードである。動物的・本能的な状態といってよい。バブル景気が崩壊した後、「サバイバル」という言葉がよく使われた。多くの企業が倒産し、社員はリストラされ、就職は氷河期を迎えた。他人を蹴落としてでも生き延びる。受験戦争はそんな生き方を密かに奨励してきたのだろう。

 私は長らくテレビを持たない生活をしているのだが、出掛けた先で東京オリンピック・パラリンピックの模様を何度か見た。強靭な身体(しんたい)が躍動する様は美しくもあり、畏敬の念に打たれる。ただし、勝者のガッツポーズが見苦しい。みっともない。相手がいるからこそゲームが成り立つわけだから、勝ったことよりもプレイできたことを喜ぶべきだろう。これがサバイバルモードと創造モードのわかりやすい違いである。

「これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」(『論語』)。俗に好きこそものの上手なれと言うが、楽しむ者には及ばない。「知る」はサバイバルモードで、「楽しむ」が創造モードだ。「努める」(あるいは務める、勤める、勉める)姿勢と無縁なところに創造の輝きがある。

 無我夢中は三昧(サマディ)に通じる。たぶん大脳新皮質(理性)と大脳辺縁系(感情)が調和しているのだろう。脳におけるノンデュアリティ(非二元)である。

 人々が音楽や芸術を愛するのも日常からの「逸脱」を心地よく感じるためか。なぜ逸脱が心地よいのか? それはサバイバルモードが理性と感情の分裂を促進し、ストレスが蓄積されるためだ。特に産業革命以降、資本主義経済は労働=賃金に換算してしまった。多くの人々は「食うために働く」。「働かざる者食うべからず」は新約聖書の言葉だが、キリスト教において労働は神が人間に与えた罰であった。日本では元々「働く=傍(はた)にいる人を楽にする」という価値観であったが、高度経済成長で職人仕事が激減すると、やはり西洋と同じ道を辿った。ヒトの特長が手で道具を作ることにあるとすれば手仕事の復権が望まれる。

「あなたという習慣を断つ」とは絶妙なタイトルである。自我は記憶と習慣から成る。繰り返しに自我の本質があり、それこそが業(ごう)の正体なのだろう。

2020-09-19

二・二六事件を貫く空の論理/『三島由紀夫と「天皇」』小室直樹


『二・二六帝都兵乱 軍事的視点から全面的に見直す』藤井非三四
『自衛隊「影の部隊」 三島由紀夫を殺した真実の告白』山本舜勝
『昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』中川右介
『あなたも息子に殺される 教育荒廃の真因を初めて究明』小室直樹

 ・日本人の致命的な曖昧さ
 ・二・二六事件の矛盾
 ・二・二六事件を貫く空の論理

『世界史で読み解く「天皇ブランド」』宇山卓栄
『〔復刻版〕初等科國史』文部省

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

  二・二六事件を貫いているのは、ギリシア以来の論理ではなく、まさしく、この空(くう)の論理である。
 決起軍は反乱軍である。ゆえに、政府の転覆を図った。それと同時に、決起軍は反乱軍ではない。ゆえに、政府軍の指揮下に入った。
 決起軍は反乱軍であると同時に反乱軍ではない。ゆえに討伐軍に対峙しつつ正式に討伐軍から糧食などの支給をうける。
 決起軍は反乱軍でもなく、反乱軍でないのでもない。ゆえに、天皇の為に尽くせば尽くすほど天皇の怒りを買うというパラドックスのために自壊した。
 二・二六事件における何とも説明不可能なことは、すべて右の空(くう)の「論理」であますところなく説明される。

【『三島由紀夫と「天皇」』小室直樹(天山文庫、1990年/毎日コミュニケーションズ、1985年『三島由紀夫が復活する』に加筆し、改題・文庫化/毎日ワンズ、2019年)以下同】

 面白い結論だが衒学的に過ぎる。三島の遺作となった『豊饒の海』から逆算すればかような結果が導かれるのだろう。だが仏教の「空」を持ち出してしまえば、それこそ全てが「空」となってしまう。

 青年将校の蹶起(けっき)に対して上官は理解を示した。4年前に起きた五・一五事件では国民が喝采をあげた。ここに感情の共有を見て取れる。例えるならば腹を空かせた子供が泣きながら親に抗議をするような姿ではなかったか。その子供が天皇の赤子(せきし)であり、親が天皇であるところに問題の複雑さがあった。当時の閣僚は言ってみれば天皇が任命した家宰(かさい)である。怒りの矛先が天皇に向かえば革命となってしまう。それゆえ青年将校の凶刃は閣僚に振り下ろされた。

 唯識論によれば、すべては識のあらわれであり、その根底にあるのが阿頼耶(アーラヤ)識
 しかし、もし、識(しき)などという実体が存在するなどと考えたら、これは仏教ではない。
 識(しき)もまた空(くう)であり、相依(そうい/相互関係)のなかにあり、刹那(せつな)に生じ、刹那に滅する。確固不動の識などありえないのだ。ゆえに、識のあらわれたる外界(肉体、社会、自然)もまた諸行無常なのだ。
 二・二六事件の経過もまた、諸行無常そのものであった。
 決行部隊のリーダーたる青年将校たちの運命たるやまるで、平家物語の現代版である。
 名もなき青年将校が、一夜あければ日本の運命をにぎり、将軍たちはおびえて彼らの頤使(いし)にあまんずる。昭和維新も目前かと思いきや、あえなく没落。法廷闘争も空しく銃殺されてゆく。この間の世の動き、心の悩み、何生(なんしょう)も数日で生きた感がしたはずだ。
 将軍たちの無定見、うろたえぶり、変わり身の早さ、海の波にもよく似たり。
 この間、巨巌のごとく不動であったのは天皇だけであった。
 天皇という巨巌にくだけて散った波。これが三島理論による二・二六事件の分析である。

 小室の正確な仏教知識に舌を巻く。天台・日蓮系では九識を立て、真言系では十識を設けるが実存にとらわれた過ちである。識とは鏡に映る像と考えればよい。鏡の向きは自分の興味や関心でクルクルと動く。何をどう見るかは欲望や業(ごう)で決まる。しかも自分では鏡と思い込んでいるのだが実体は水面(みなも)で、死をもって水は雲のように散り霧の如く消え去る。像や鏡の存在が確かなものであることを追求したのが西洋哲学だ。神が存在すると考える彼らは実存の罠に陥ってしまう。

 一神教(アブラハムの宗教)が死後の天国を信じるのと、バラモン教が輪廻する主体(アートマン)を設定するのは同じ発想に基づいている。ブッダは輪廻そのものを苦と捉えて解脱の道を開いた。諸法無我とは存在の解体である。「ある」という錯覚が妄想を生んで物語を形成する。人類は認知革命によって虚構を語り信じる能力を身につけた(『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ)。

 人は物語を生きる動物である(物語の本質~青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答)。合理性も感情も物語を彩る要素でしかない。我々が人生に求めるものは納得と感動である。異なる物語がぶつかると争いが起こる。国家や文化の違いが戦争へ向かい、敵を殺害することが正義となる。

 昭和維新は国家の物語と国民の物語が衝突した結果であったのだろう。しかし日本国にあって天皇という重石(おもし)が動くことはなかった。終戦の決断をしたのも天皇であり、戦後の日本人に希望を与えたのも天皇であった。戦争とは無縁な時代が長く続き、天皇陛下の存在は淡い霧のように見えなくなった。明治維新によって尊皇の精神から生まれた新生日本は、いつしか「無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国」(「果たし得てゐいない約束――私の中の二十五年」三島由紀夫)となっていた。

 畏(おそ)れ多いことではあるが日本の天皇は極めて優れた統治システムである。西洋の王や教皇は権力をほしいままにして戦争を繰り返した。天皇に権威はあるが権力はない。王政や共和政だと国家が亡ぶことも珍しくない。日本が世界最古の国家であるのは天皇が御座(おわ)しますゆえである。日本の左翼が誤ったのは天皇制打倒を掲げたことに尽きる。尊皇社会民主主義に舵を切ればそれ相応の支持を集めることができるだろう。

 最後に一言。天皇陛下が靖国参拝を控えた理由は「A旧戦犯の合祀に不快感を示された」ためと2006年に報じられたが(天皇の親拝問題)、二・二六事件での御聖断を思えばそれはあり得ないだろう。



誰のための靖国参拝

2020-09-06

国民の国防意志が国家の安全を左右する/『「日本国憲法」廃棄論 まがいものでない立憲君主制のために』兵頭二十八


・『日本を思ふ』福田恆存
『いちばんよくわかる!憲法第9条』西修
『平和の敵 偽りの立憲主義』岩田温
・『だから、改憲するべきである』岩田温
『日本人のための憲法原論』小室直樹
『日本の戦争Q&A 兵頭二十八軍学塾』兵頭二十八

 ・国民の国防意志が国家の安全を左右する
 ・外交レトリックを誤った大日本帝国
 ・五箇条の御誓文

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 法理として「偽憲法」(これは菅原裕氏の言葉)以外のなにものでもない「当用憲法」(これは福田恆存〈つねあり〉氏の言葉)は、1946年から1950年にかけ、日本に共産主義が根付かない最大支障であるとモスクワがみなした天皇制を滅消したく念ずるソ連発の間接侵略工作を、阻止したというポジティヴな効用があります。

【『「日本国憲法」廃棄論 まがいものでない立憲君主制のために』兵頭二十八〈ひょうどう・にそはち〉(草思社、2013年/草思社文庫、2014年)以下同】

 やっとクイック編集ができるようになった。編集画面の仕様が新しくなったための混乱のようだ。古本屋を畳んでからはレンタルサーバーと無縁なので、今からWordPressを使うとなると先が思いやられる。設定はともかくとしてFTPソフトの使い方などはきれいさっぱり記憶から消えている。ブログも長くやっていると自分の分身みたいに思えてくる。それゆえに妙なこだわりが生じて、自我を強く意識させられる羽目となる。なかなか諸法無我というわけにはいかないものだ。

 兵頭二十八は当たり外れがある。文章には独特の臭みがあって好き嫌いが分かれるところだ。上記テキストも長すぎて文章の行方がわかりにくい。このあたりは編集者にも半分程度の責任がある。資料を渉猟しているためと思われるが時折びっくりするほど古めかしい言い回しが出てくるのだが、それが様になっていない。ちぐはぐな印象を受けて、微妙に音程のずれた歌を聴いているような気分になる。

「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と憲法第一条で謳ったことが32年テーゼを防いだ。本来であれば天皇の存在は日本国の形成よりも先んじているから本末転倒といえよう。しかしながら主権在民を糊塗する苦し紛れの文章が戦後の激動を雄弁に物語っている。

 左翼は国家をシステムとして捉え、文化を見落とした。欧州ではキリスト教、日本では天皇が憲法の屋台骨となっている。これを「打倒」することは国家を漂白することに等しい。日本の公を重んじる精神性は社会主義と親和性がある。それを思えば天皇制社会民主主義に舵を切っていれば、二・二六事件前後で日本の運命は変わっていた可能性がある。

 そもそも国民の自由を担保してくれるのは国家だけです。国家が安全でなくなれば、国民の自由もなくなります。その国家の安全は、標榜(ひょうぼう)する憲法の文章が保障してくるわけではない。ただ、国民の抱く「国防の意志」が保障するのです。しかるに利己的で嫉妬深い人間は、不自然な中心点に向かっては、なかなか団結ができないものです。日本国民には自然な精神的な団結の中心はひとつきりしかありません。それが天皇です。もしも日本から天皇が消えてなくなれば、日本国民は間接侵略によって著しく分断されやすくなり、日本国家の防衛力は内側から脆(もろ)くなり、それにつれ、日本人の自由は、一見、合法的なきまりごとを装って、日本人ではない者たちの手の中に、回収されて行くでしょう。

 マッカーサー憲法は日本人から「国防の意志」を見事に奪い去った。戦後、国民の間からは国体意識すら消え失せた。守るべきはものは今日の食糧と自分の命に変わった。敗戦は事実上「魂の一億玉砕」であった。

 だが不思議なことに敗戦を経て日本国民は自由の空気を呼吸し始めた。戦時中の不自由さは社会主義国と遜色がなかった。自由にものを言うこともできなかった。政治家は軍の顔色を窺い、軍はいたずらに兵員を餓死に至らしめた。大東亜共栄圏は絵に描いた餅と化した。国家は国民を守れなかった。

 終戦前後のギャップが精神の真空地帯に風を吹かせた。国民が手にした自由は何の責任も伴わなかった。胃袋は相変わらず不自由なままだった。人々は食べることにしか関心がなかった。何とか食べられるようになると終戦前後に生まれた大学生たちが騒ぎ始めた。学生運動は戦争の余波と見ることができよう。60年安保に反対した彼らの姿は戯画的ですらある。新世代もまた玉砕を望んだのであろう。

 日本国が国民を守れないことはシベリア抑留北朝鮮による拉致被害が証明している。GHQに牙を抜かれた日本はスパイ天国となり、中国や南北朝鮮がほしいままに日本の国益を毀損している。



GHQはハーグ陸戦条約に違反/『世界史講師が語る 教科書が教えてくれない 「保守」って何?』茂木誠

2020-08-27

縁に触れて覚る/『日本の弓術』オイゲン・ヘリゲル


『鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮』ノエル・ペリン

 ・縁に触れて覚る

・『新訳 弓と禅 付・「武士道的な弓道」講演録』オイゲン・ヘリゲル
・『無我と無私 禅の考え方に学ぶ』オイゲン・ヘリゲル
・『禅の道』オイゲン・ヘリゲル (著
・『弓聖阿波研造』池沢幹彦
『弓と禅』中西政次
『鉄人を創る肥田式強健術』高木一行
『表の体育裏の体育 日本の近代化と古の伝承 の間(はざま)に生まれた身体観・鍛錬法』甲野善紀
『武術の新・人間学 温故知新の身体論』甲野善紀
『惣角流浪』今野敏
『鬼の冠 武田惣角伝』津本陽
『会津の武田惣角 ヤマト流合気柔術三代記』池月映
『透明な力 不世出の武術家 佐川幸義』木村達雄
『肚 人間の重心』 カールフリート・デュルクハイム

悟りとは
必読書リスト その五

 すると先生は声をはげまして「いや、その狙うということがいけない。的のことも、中てることも、その他どんなことも考えてはならない。弓を引いて、矢が離れるまで待っていなさい。他のことはすべて成るがままにしておくのです」と答えられた。そう言って先生は弓を執り、引き絞って射放した。矢は的のまん中にとまっていた。それから先生は私に向かって言われた。――「私のやり方をよく視ていましたか。仏陀が瞑想(めいそう)にふっている絵にあるように、私が目をほとんど閉じていたのを、あなたは見ましたか。私は的が次第にぼやけて見えるほど目を閉じる。すると的は私の方へ近づいて来るように思われる。そうしてそれは私と一体になる。これは心を深く凝らさなければ達せられないことである。的が私と一体になるならば、それは私が仏陀と一体になることを意味する。そして私と仏陀が一体になれば、矢は有(う)と非有(ひう)の不動の中心に、したがってまた的の中心に在ることになる。矢が中心に在る――これをわれわれの目覚めた意識をもって解釈すれば、矢は中心から出て中心に入るのである。それゆえあなたは的を狙わずに自分自身を狙いなさい。するとあなたはあなた自身と仏陀と的とを同時に射中てます」

【『日本の弓術』オイゲン・ヘリゲル述:柴田治三郎〈しばた・じさぶろう〉訳(岩波文庫、1982年/原講演は1936年〈昭和11年〉)】

 オイゲン・ヘリゲルは学生時代からドイツの神秘説を詳しく調べていた。マイスター・エックハルトが称揚した「離繋」の本質がわかるかもしれないと考えて来日を決意。東北帝国大学に招聘(しょうへい)されて哲学を教えた。弓聖(きゅうせい)と称えられた阿波研造〈あわ・けんぞう〉に弓術を学ぶ。細君は生け花と墨絵を習う。足掛け6年にわたって稽古をした。3年が経過しても満足のゆく状態にはならなかった。4年目で芽が出る。そこで西洋の合理性が邪魔をした。ヘリゲルは理窟(りくつ)という答えを求めたが阿波が示したのは「悟りの道」であった。

 日野晃の著作で本書を知った。タイトルは聞き覚えがあったが弓に興味はなかった。高校生の時、弓道部の友人に招かれて一度だけ弓を引いたことがあるがワンバウンドで辛うじて的に当てた。普通の弓であったが私にとっては強弓(ごうきゅう)だった。私の運動神経は球技で発揮されるため何となく「縁がないな」と感じた。

 9時ごろ私は先生の家へ伺った。先生は私を招じて腰かけさせたまま、顧みなかった。しばらくしてから先生は立ちあがり、ついて来るようにと目配(めくば)せした。私たちは先生の家の横にある広い道場に入った。先生は編針のように細長い1本の蚊取線香に火をともして、それを垜(あずち)の中ほどにある的の前の砂に立てた。それから私たちは射る場所へ来た。先生は光をまともに受けて立っているので、まばゆいほど明るく見える。しかし的は真っ暗なところにあり、蚊取線香の微(かす)かに光る一点は非常に小さいので、なかなかそのありかが分からないくらいである。先生は先刻から一語も発せずに、自分の弓と2本の矢を執った。第一の矢が射られた。発止(はっし)という音で、命中したことが分かった。第二の矢も音を立てて打ちこまれた。先生は私を促して、射られた2本の矢ををあらためさせた。第一の矢はみごと的のまん中に立ち、第二の矢は第一の矢の筈(はず)に中たってそれを二つに割(さ)いていた。私はそれを元の場所へ持って来た。先生はそれを見て考えこんでいたが、やがて次のように言われた。――「私はこの道場で30年も稽古をしていて暗い時でも的がどの辺にあるかは分かっているはずだから、1本目の矢が的のまん中に中たったのはさほど見事な出来ばえでもないと、あなたは考えられるであろう。それだけならばいかにももっともかも知れない。しかし2本目の矢はどう見られるか。これは【私】から出たのでもなければ、【私】が中てたものでもない。そこで、こんな暗さで一体狙うことができるものか、よく考えてごらんなさい。それでもまだあなたは、狙わずには中てられぬと言い張られるか。まあ私たちは、的の前では仏陀の前に頭を下げる時と同じ気持になろうではありませんか」――
 それ以来、私は疑うことも問うことも思いわずらうこともきっぱりと諦めた。

 エピソードが神話性を帯びて宗教的な物語にまで高められている。物理学や確率で論じることに意味はない。オイゲン・ヘリゲルに染み付いた西洋哲学という蒙(もう)が啓(ひら)いた瞬間であった。阿波研造は縁覚(えんがく)の人物だったのだろう。21歳で弓術を始め、「41歳のとき、天啓のような神秘的な一射を体験をし、『一射絶命』『射裡見性』を唱え始める」(Wikipedia)。阿波は禅を通して即時性や如実知見(にょじつちけん)を悟ったのだろう。

 矢筈の直径は8mm前後である。ここに当てるということは1~2mmの精度が求められよう。つまり阿波が放った2本目の矢は1mmの的に当てたと考えてよい。しかも暗く的は見えないのだ。まさに神業(かみわざ)である。しかも阿波はそれが「技術ではない」と言うのだ。人智を超えた領域に触れたと感じるのは私だけではないだろう。

 日本の宗教改革ともいうべき鎌倉仏教において悟りの道を目指したのは禅宗のみである。他はマントラ密教に堕した感がある。常に生死(しょうじ)の境に身を置く武士が禅を好んだのもむべなるかな。現代世界に目を転じても世界を席巻した日本仏教は禅だけといっても過言ではなく、多くのミステリ作品にも取り上げられている。修行の面から見れば瞑想とヨガは欧米で広く受け容れられている。

 スポーツは狩猟をゲーム化したものだが、武道は暴力を洗練し尚且つ抑制したものだ。それを悟りに結びつけたところに日本武術の独創性がある。

2020-07-17

わかりやすい入門書/『マインドフルネス瞑想入門 1日10分で自分を浄化する方法』吉田昌生


 ・わかりやすい入門書

・『現代人のための瞑想法 役立つ初期仏教法話4』アルボムッレ・スマナサーラ
・『自分を変える気づきの瞑想法【第3版】』アルボムッレ・スマナサーラ
『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門 豊かな人生の技法』ウィリアム・ハート
『呼吸による癒し 実践ヴィパッサナー瞑想』ラリー・ローゼンバーグ
『「瞑想」から「明想」へ 真実の自分を発見する旅の終わり』山本清次

 マインドフルネスとは、今という瞬間につねに注意を向け、自分が感じている感覚や感情、思考を冷静に観察している心の状態のこと。
 つまり、【「今、ここ」に100%心を向ける在り方】のことです。元々はパーリ語の「サティ」という言葉の英訳で、日本語では「気づき」、漢語では「念」と訳されています。「自覚」「集中」「覚醒」とも言い換えられます。

【『マインドフルネス瞑想入門 1日10分で自分を浄化する方法』吉田昌生〈よしだ・まさお〉(WAVE出版、2015年)以下同】

 ヴィパッサナー瞑想は静かにアメリカで広まっている。健康本で紹介されることも珍しくない。プラグマティズムの伝統が脈打っているのだろう。一方、鈴木大拙〈すずき・だいせつ〉によって日本の禅は世界で知られるようになったが、我が国で瞑想の潮流が深まることはなかった。かつて武士が禅に打ち込んでいた歴史を思えば武士道の衰退とも関係があるように思う。

 サティは八正道正念である。これが戒・定・慧の三学だと(じょう)=サマディ(三昧)となる。現在では三昧(ざんまい)と変化して残るが、無我夢中で没頭している様子を表す(贅沢三昧、読書三昧など)。

 吉田は「集中」を挙げているがこれは誤りで「注意」が正しい。集中と注意は異なる。一点に集中すれば周辺は見えなくなる。集中は眼、注意は耳と皮膚というのが私の持論だ。瞑想の観察は眼で行う性質ではない。仏像の半眼がそれを示している。眼は自己の内側を見ることができない。

 頭のなかの思考の世界に巻き込まれて、それに気づいていない状態です。そんな状態のことを「マインドレスネス」と言います。(中略)
 このように、「今、ここ」の現実とのつながりが失われ、なおかつそのことに気づいてもいない状態のことを「マインドレスネス」と言うのです。

 フルネス(fullness)は「満ちている状態」で、レスネス(lessness)は「より少ない状態」である。コマが回っている状態がフルネスである。フル回転しながら止まっているのが瞑想だ。その意味では自転車に乗る行為も瞑想と似ている。

 お釈迦様が仏教をつくったのは今から2500年前のインド。一方、世界初のペダル式自転車が登場したのは、150年ほど前のフランス。だから(あたりまえだが)お釈迦様は自転車を知らなかった。しかしもし、お釈迦様が自転車に乗ったなら、必ず「瞑想修行と自転車は似ている」と言ったに違いない。

【『日々是修行 現代人のための仏教100話』佐々木閑〈ささき・しずか〉(ちくま新書、2009年)】

 具体的な瞑想の方法が書かれていて、わかりやすい入門書となっている。クリシュナムルティは方法を否定したが、我々凡夫は何らかの手掛かりがなければ瞑想の入り口に立つことも不可能だ。例えば無実の罪で獄につながれた時、怪我や病気で体の自由を失った時、災害や戦争に巻き込まれた時など、絶体絶命という場面を想像すれば平時に瞑想を行うことは生きるための備えといってよい。

2020-06-25

フランス人哲学者の悟り/『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル


 ・宗教の語源
 ・フランス人哲学者の悟り
 ・幸福を望むのは不幸な人

『左脳さん、右脳さん。 あなたにも体感できる意識変容の5ステップ』ネドじゅん
『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール

キリスト教を知るための書籍
悟りとは

 夕食のあとのある晩、いつものように友人たちと気にいっていた森へ散歩にでかけた。暗さが深まっていったが、歩きつづけていた。笑いも少しずつ消えてゆき、口数も少なくなっていった。友情や信頼、共有された現前やこの夜のあらゆるものの心地よさといったものはありつづけた。私は、なにも考えていなかった。眼を開いて、耳をかたむけていた。あたりは一面漆黒の闇で、空は驚くほどあかるく、森はかすかにざわめきながらも沈黙につつまれていた。ときおり、枝がみしみし音をたてたり、動物の鳴き声がしたり、歩く一歩ごとにかすかな足音がした。このとき、沈黙はますますはっきりと聴きとれるようになっていた。そして突然……。なにが起こったのだろうか。なにが起こったわけでもなかった。そこには万物があった。まったく、会話のひとつも、意味も問いかけもなかった。ただ驚きとあたりまえのことと、終わることのないようにさえ思われた幸福と、いつまでもつづくかに思われた平穏だけがあった。私の頭上には、無数の、数えがたい数の、光り輝く満点の夜空があり、私のまわりにはこの空のほかにはなにものもなく、私はその一部と化していた。私のまわりには、いわば幸福な振動であり、主体も客体もない喜びにほかならない(万物のほかには、なんの対象もなく、それ自身のほかには、なんの主体もないのだから)この光のほかにはなにもなく、この漆黒の闇のなかにあって、私のうちには万物のまばゆいほどの現前のほかにはなにもなかった。平穏。はかりしれないほどの平穏。単純さ、平静さ。歓喜。最後の二つのことばは矛盾しているように思われるかもしれないが、そこにあったのはことばではなく経験であり、沈黙であり調和だったのだ。それはいわば、まったく正しい和音のうえに付された終わることのないフェルマータであり、つまるところ世界そのものだった。私は申し分なく、驚くほど申し分なかった。もはやそれについてなにひとつ語る必要など感じないくらいに、それがずっとつづけばいいのにという欲望すら感じないくらいに、申し分なかった。もはやことばも、欠如も、期待もなかった。現前の純然たる現在。自分が散歩していたと言うのさえはばかられるほどだ。そこにはもはや散歩しか、森しか、星ぼししか、私たちの一団しかなかった……。もはや【自我】も、分離も、表象もなかった。万物の沈黙に満ちた現前以外のなにもなかった。もはや価値判断もなく、現実以外のなにものもなかった。もはや時間もなく、現在以外のなにもなかった。もはや無もなく、存在以外のなにもなかった。もはや不満も、憎しみも、恐れも、怒りも、不安もなかった。喜びと平安以外のなにもなかった。もはや演技も、幻想も、嘘もなく、私をふくみこんではいるものの私がふくみこんでいるわけではない真理以外のなにもなかった。この状態が持続したのは、おそらく数秒のことだったろう。私は高揚させられると同時に宥(なだ)められ、高揚させられると同時にかつてないほどの穏やかさのうちにあった。離脱。自由。必然性。やっとそれ自身へとたちもどった宇宙。それは有限なのだろうか、それとも無限なのだろうか。そんな問いがたてられることさえなかった。もはや問いかけすらなかった。だからこそ、答えがでるはずもなかった。あたりまえのものだけが、沈黙だけがあった。あるのは真理だけで、ただしそれを語ることばはなかった。あるのは世界だけで、ただしそこには意味も目標もなかった。あるのは内在だけで、ただしその逆をなすものはなかった。あるのは現実だけで、ただし他人はいなかった。信仰もなければ、希望も、約束もない。あるのは万物だけ、その万物の美しさ、その真理、その現前だけだった。それで十分だったのだ。それだけで十分だなどという以上のものになっていた。

【『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル:小須田健〈こすだ・けん〉、C・カンタン訳(紀伊國屋書店、2009年)】

 もう少し続くのだがこれで十分だろう。悟りとは真理に触れた瞬間である。生き生きと語られるのは生の流れ(諸行無常)と万物が一つにつながる生の広大さ(諸法無我)である。これに優る不思議はない。思議し得ぬがゆえに不可思議とは申すなり。

 悟りは不意に訪れるものだ。人は忽然(こつぜん)と悟る。風や光のように自ら起こすことはできない。

 ここで一つの疑問が立ち上がる。修行や瞑想に意味はあるのだろうか? クリシュナムルティは「ない」と断言している。だが私は「ある」と思う。

 クリシュナムルティは努力をも否定した(『自由とは何か』J・クリシュナムルティ)。努力とは一種の苦行である。そのメカニズムは抵抗や負荷に耐えることで、「耐性の強化」に目的がある。ま、我慢比べみたいなものだろう。今たまたま「我慢」という言葉を使ったがここにヒントがある。元々この言葉は仏教用語で「我慢ずる」と読む。つまり「我尊(たっと)し」との思い込みが我慢の語源なのだ。

 宗教家という宗教家が皆思い上がっている。真理の独占禁止法があれば全員逮捕されていることだろう。額に「我こそは正義」というシールを貼っているような輩(やから)ばかりだ。

 努力は一定の形に自分を押し込める営みだ。そして努力は成果を求める。思うような結果が出ないと「無駄な努力」といわれる。努力によって培われるのは技術である。それが最も通用するのは職人やスポーツ選手の世界だろう。特定の動きに特化した体をつくることで必ず何らかのダメージが形成される。鍛えることができるのは筋肉に限られるため、鍛えられない関節や腱が悲鳴を上げる。

 技術が洗練の度合いを増して芸術の領域に近づく過程で真理が垣間見えることは決して珍しいことではない。彼らの言葉に散りばめられた透徹、達観、洞察が悟性を示す。

 だが真の悟りには世界を一変させる衝撃がある。共通するのは「ただ現在(いま)」「ただ在る」という瞬間性である。過去のあれこれを足したり引いたりして未来の答えを求めるのが我々の日常だ。不安も希望も現在性を見失った姿だ。過ぎ去った過去と未だに来ない未来を我々は生きているのだ。

 私が修行に意味があると考える理由は「行為を修める」ところにある。欲望を慎み鎮(しず)める作業を修行と考えることはできないだろうか? クリシュナムルティが「(瞑想の)方式に意味はない」としたのは方式が目的化することを嫌ったためだろう。だが想念を冥(くら)くするためには先を往く人の手助けが必要だ。悟りはアザーネス(他性)であるとしても自分の感度を高めておくことは必要だろう。

2020-02-09

土地の価格で東京に等高線を描いてみる/『我が心はICにあらず』小田嶋隆


 ・洗練された妄想
 ・土地の価格で東京に等高線を描いてみる
 ・真実
 ・「お年寄り」という言葉の欺瞞
 ・ファミリーレストラン
 ・町は駅前を中心にして同心円状に発展していく
 ・人が人材になる過程は木が木材になる過程と似ている

『安全太郎の夜』小田嶋隆
『パソコンゲーマーは眠らない』小田嶋隆
『山手線膝栗毛』小田嶋隆
『仏の顔もサンドバッグ』小田嶋隆
・[https://sessendo.blogspot.com/2022/01/blog-post_95.html:title=『コンピュータ妄語録』小田嶋隆]
『「ふへ」の国から ことばの解体新書』小田嶋隆
『無資本主義商品論 金満大国の貧しきココロ』小田嶋隆
『罵詈罵詈 11人の説教強盗へ』小田嶋隆
『かくかく私価時価 無資本主義商品論 1997-2003』小田嶋隆
『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド』小田嶋隆
『テレビ標本箱』小田嶋隆
『テレビ救急箱』小田嶋隆

 この発想が天才的だ。オダジマンは企業の意向に沿って出来上がった町を嫌悪する。これぞ江戸っ子の心意気か。捏造されるのは歴史だけではない。町もそうなのだ。

私鉄不動産複合体財閥企業がつくった東京の山の手/『山手線膝栗毛』小田嶋隆

 で、土地の価格で東京に等高線を描くとどうなるか――

 現在の東京は大雑把に言えば西高東低の原則で構築されている。この西高東低の原則は、海抜高度、土地価格、住民の最終学歴、住民の平均年収、その地域にある学校の偏差値分布など、かなり広い範囲で適用できる。
 仮に土地の価格で等高線を描くとすれば、東京の地形は港区、千代田区、渋谷区といった中心部をピークにして西側に向かってなだらかなカーブで降りて行く。東急沿線、または小田急沿線の世田谷あたりはちょっとした尾根のようになっており、田園調布、等々力、成城学園あたりは峠になっている。
 東および北に向かう斜面は急であり、等高線の間隔はひどく狭い。そんな中で赤羽は川口市に向かってざっくりと落ちる崖っぷちの斜面に位置している。
 赤羽は国鉄とともに発展してきた町である。町の成立と発展を考える上で、このことは重要だ。国鉄の沿線と私鉄の沿線では全然違う町が出来上がる。つまり私鉄沿線(特に西側の私鉄)では都市計画の一部として線路を通すのだが、国鉄は単に線路を通すために線路を通すのだ。そのため国鉄の沿線では町は無秩序に、雨の後のタケノコのように自然発生してしまうのである。

【『我が心はICにあらず』小田嶋隆(BNN、1988年/光文社文庫、1989年)】

 実に見事だ。実際に地図をつくるだけの価値すらある。地価格差地図。これを全国に広げれば、湖のように陥没した地域も数多く出現することだろう。現在は隅田川から東側を下町と呼ぶのが一般的となっている。古くから東京に住む人は「川向こう」と嘲っていた。

 私が青春時代を過ごした亀戸(かめいど)はゼロメートル地帯で昔は大雨が降るたびに川が溢れたという。小学校から渡し舟で家に帰ったことがあると後輩の父親が語っていた。深川から東京湾にかけては江戸時代の埋立地で、隅田川と旧中川を結ぶ小名木川(おなぎがわ)という運河は徳川家康が作った。家康が江戸入りした頃は雨が降れば各所が水浸しになっていたことだろう。

 私が北海道から上京したのは昭和61年(1986年)だが、まず貧富の差に驚いた。新玉川線と東武亀戸線の客層はブティックと洋品店ほどの差があった。しかもその差が老若男女に及んでいた。ま、今時は山の手も下町もユニクロっぽい服装になっているから昔ほどの大差はないことだろう。下町からは木造アパートも姿を消して鉄筋コンクリートのビルになっている。

 昨年の台風19号による水害を思えば、やはり低い土地には危険が伴う。東京に地の利があるのは確かだが、地のリスクも高いことを弁えるべきだろう。

2020-01-31

サンカーラ再考/『反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」』草薙龍瞬


『無(最高の状態)』鈴木祐
『マンガでわかる 仕事もプライベートもうまくいく 感情のしくみ』城ノ石ゆかり監修、今谷鉄柱作画
『ザ・メンタルモデル 痛みの分離から統合へ向かう人の進化のテクノロジー』由佐美加子、天外伺朗
『無意識がわかれば人生が変わる 「現実」は4つのメンタルモデルからつくり出される』前野隆司、由佐美加子
『ザ・メンタルモデル ワークブック 自分を「観る」から始まる生きやすさへのパラダイムシフト』由佐美加子、中村伸也
『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥
『仏陀の真意』企志尚峰

 ・サンカーラ再考

『悩んで動けない人が一歩踏み出せる方法』くさなぎ龍瞬
『自分を許せば、ラクになる ブッダが教えてくれた心の守り方』草薙龍瞬
『手にとるようにNLPがわかる本』加藤聖龍

ブッダの教えを学ぶ
必読書リスト その五

 仏教には「心の反応は連鎖する」という発想があります。伝統的には“縁起論”(えんぎろん)と呼ばれていますが、心のからくりを理解するために、いっそう「本質」が浮かび上がるように表現すると、次のようになります。

 無明(むみょう/無理解)の状態において、心は反応する。刺激に触れたとき、心は反応して感情が、欲求が、妄想が結生(けっしょう)する。結生した思いに執着することで、ひとつの心の状態が生まれる。その心の状態が新たな反応を作り出す。その反応の結果、さまざまな苦悩が生まれる。     ――菩提樹下の縁起順観 ウダーナ

 つまり、(1)触れて、(2)反応して、(3)感情や欲求や妄想や記憶などの「強い反応のエネルギー」が生まれます。この強い反応を“結生”と表現することにします(元のパーリ語では「サンカーラ」sankhara。英語だと「心の形成」mental formaitionと訳されています)。これは「記憶に残る」「表情や行動に出てしまう」ような強い反応です。
 そして、これらの結生した反応が、新しい刺激に反応して、(4)同種の反応を作り出す、というサイクルです。(中略)
 この結生した反応は、新しい刺激に触れて作動する「地雷」みたいなものです。よくある「怒りっぽい」「やたら神経質」「落ち込みやすい」「対人恐怖症」といった気質の奥には、こうした“結生した反応”があったりするのです。

【『反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」』草薙龍瞬〈くさなぎ・りゅうしゅん〉(KADOKAWA、2015年)】

 あまり考えすぎると思弁に傾いてしまうので感じたことを書き残しておく。友岡本と併読することで後期仏教(大乗)と初期仏教の違いが浮き上がってくる。本書を読んでカテゴリーの「初期仏教」を「ブッダの教え」に変えた。仏教と表現すれば宗教としてキリスト教やイスラム教、ユダヤ教やヒンドゥー教と同列の扱いとなってしまう。ブッダの隔絶した理知を思えば、それは宗教というよりも「教え」とするのが相応しいと感じる。

日常の重力=サンカーラ(パーリ語)、サンスカーラ(サンスクリット語)/『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥
真の無神論者/『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥

 仏教用語のサンカーラ(Saṅkhāra)、サンスカーラとはパーリ語およびサンスクリット語に由来し、一緒になったもの、纏めるものという意味合いである。典型的には行(ぎょう)と訳される。

 一つ目の意味合いでは、サンカーラは一般的に「条件づけられたものごと」「因縁によって起こる現象、はたらき、作用」をさすのだが、とりわけ全ての精神的な気質を指すことが多い。これらは意志の結果として形成されるものであり、将来における意欲的な行動の発生原因であるため「意思による形成」と呼ばれる。

 二つ目の意味では、サンカーラは行蘊として業(カルマ)をさし、それらは縁起の原因とされる。

Wikipedia

 五蘊(ごうん)の項目には「行蘊(ぎょううん、巴: saṅkhāra, 梵: saṃskāra) - 意識を生じる意志作用。意志形成力。心がある方向に働くこと」とある。図がわかりやすいので拝借しよう。


三科」の図も参照せよ。認識作用の細分化であり、感覚に対する科学的アプローチである。幸不幸や喜怒哀楽のメカニズムを五つの段階で捉えたのが五蘊であり、これを五蘊仮和合(ごうんけわごう)と達観すれば無我である。

 受(感覚)→想(知覚)→行(指向作用)の流れは、感じて、快不快を想って、好き嫌いの態度を表明するという理解で構わないだろう。つまり行とは「スタイル」(石川九楊)に置き換えることが可能で業(ごう)の本質もここにある。

 我々が「生き方」と錯覚しているのは単なる五蘊の反応に過ぎないわけだ。それを個性とか自分らしさとか呼んだところで同じところをグルグル回っているだけの話だ。「因果はめぐる糸車、明日はわからぬ風車、臼で粉引く水車、我が家の家計は火の車、車は急には止まれない、すべて世の中堂々巡り」(『新八犬伝』)とはよく言ったものだ。

 私はかつて「同じ過ちを繰り返す」という意味で業(カルマ)を捉えていたのだがそうではないことに気づいた。私はいまだに昔買ったレコードをデジタル音源で聴いている。レコード(record)の「re」は「何かを取り戻す、行って帰ってくる」(「レコード」の原義)という意味だから繰り返しを表す。単純な訳だと「再」である。リフレイン(refrain)、リプレイ(replay)などの言葉は見事なまでに業を指し示している。

 つまり「快」を繰り返そうとする「行」にサンカーラの正体があるのだろう。その基盤にあるのが「自我」なのだ。我々は色や形の異なったネズミ車のようなものだ。繰り返しに対する強迫観念が過去世・来世の物語を生むのは自然なことである。自我は死後にまで延長しようと目論む。とはいえ石に名前を刻んだり(墓)、名誉などで名を残そうとしたりするのは、逆説的ではあるが死後の存在を信じていないためだろう。

 サンカーラから離れた瞬間に過去から自由になった現在が現れるはずだ。早速試してみよう。

2019-10-31

無肥料栽培/『野菜は小さい方を選びなさい』岡本よりたか


『日本自立のためのプーチン最強講義 もし、あの絶対リーダーが日本の首相になったら』北野幸伯
・『日本の生き筋 家族大切主義が日本を救う』北野幸伯
『給食で死ぬ!! いじめ・非行・暴力が給食を変えたらなくなり、優秀校になった長野・真田町の奇跡!!』大塚貢、西村修、鈴木昭平
『伝統食の復権 栄養素信仰の呪縛を解く』島田彰夫
・『親指はなぜ太いのか 直立二足歩行の起原に迫る』島泰三
『自殺する種子 アグロバイオ企業が食を支配する』安田節子
『タネが危ない』野口勲

 ・無肥料栽培
 ・本物の野菜は腐らずに枯れる

『食は土にあり 永田農法の原点』永田照喜治
『土を育てる 自然をよみがえらせる土壌革命』ゲイブ・ブラウン
『シリコンバレー式自分を変える最強の食事』デイヴ・アスプリー
『医者が教える食事術 最強の教科書 20万人を診てわかった医学的に正しい食べ方68』牧田善二
『医者が教える食事術2 実践バイブル 20万人を診てわかった医学的に正しい食べ方70』牧田善二
『あなたの体は9割が細菌 微生物の生態系が崩れはじめた』アランナ・コリン

 僕は農作物を栽培することを生業のひとつとしています。僕の農法は、一般的には認知されていない無肥料栽培というものです。一見聞き慣れない無肥料栽培という言葉ですが、最近で言うところの自然農法とか自然栽培と呼ばれる農法が、無肥料栽培にあたります。無肥料栽培という言葉だけですと、化学肥料を使用せず、家畜排せつ物から製造した有機肥料を使用していると思われる方もいるようですが、僕は有機肥料を使用することもありません。
 自然農法や自然栽培という農法には、本来、定義というものはありませんが、広義では、無肥料、無農薬、無除草の栽培方法を指します。さらに不耕起、つまり畑を耕さない農法を自然農法と呼ぶことが多いと思います。

【『野菜は小さい方を選びなさい』岡本よりたか(フォレスト出版、2016年)】

 タイトルが命令形で、冒頭から「僕が、僕が」と書いてあるのを見ると「我こそは正義なり」との思い込みが見えてウンザリさせられる。つまみ食い程度の読書で済まそうと思いながらも最後まで読んでしまった。読ませられたと言ってよい。無農薬は聞いたことがあるが無肥料・無除草は初耳だ。

 普通に考えれば、野菜や穀物に肥料を与えることによって、作物は元気に育ち、健康にもなるという認識だと思います。人間も食事によって栄養をしっかり摂っていれば、病気になることは少ないでしょう。それは決して間違ってはいません。
 しかし、僕は無肥料栽培を始めて以来、その常識に疑問を感じはじめました。
 なぜかといえば、作物に肥料を与えるのを止めると、作物の病気や虫食いがどんどん減っていったからです。

 よく考えると別に不思議な話ではない。そもそも現在ある野菜は長い歴史を生き抜いてきた果てに存在するわけで、自然界に存在していた時は肥料や除草という人為は加えられていない。また移動できない植物は毒を発することで外敵から身を守ってきたのだ。調理の灰汁(あく)抜きとはその毒を除去する意味がある。

 土のなかの微生物は生き物ですから、当然食べものが必要です。それが、本来、草の根っこや枯れた草等です。作物の根っこ以外、草という草の根っこや落ち葉や枯草がなくなるので、微生物たちの餌(えさ)が足りなくなります。食べもののないところに生物が棲(す)むことはありません。そのため、微生物たちも立ち去っていってしまうのです。(中略)
 土壌中の微生物というのは、人間の腸内細菌と同じだと考えてもらっていいでしょう。土壌から微生物がいなくなると、植物は土の栄養を使えなくなります。なぜなら、植物は土壌中の微生物、特に菌根菌(きんこんきん)という菌の力を借りて、土壌中の栄養を取り込んでいるからです。

 つまり現代の野菜は狭い鶏舎に閉じ込められたブロイラーのような状態なのだろう。たとえ有機肥料であったとしても土壌中の微生物バランスは大きく変わってしまうという。

 人体もまた微生物との共生で成り立っている。腸管内だけで4000種、100兆個もの微生物が存在する。この腸内細菌なくして我々は生きてゆくことができない。

 土壌から微生物がいなくなってヒトの腸内環境も一変したのだろう。そして便利なテクノロジーが生活習慣病を生んだ。既に我々は本物の野菜を知らないのだ。

 具体的な土作りも書かれており、家庭菜園やプランターで野菜を育てている人は必読である。

2019-06-29

死の恐怖を免れる簡単な方法/『やがて消えゆく我が身なら』池田清彦


 ・死の恐怖を免れる簡単な方法

『ほんとうの環境問題』池田清彦、養老孟司
『正義で地球は救えない』池田清彦、養老孟司
・『生物にとって時間とは何か』池田清彦

 死の恐怖を免れる最も簡単な方法は、体は滅んでも心は不滅であると信ずることだ。言わずと知れたことだが、これは宗教である。すべての宗教はその教説の中に死後の世界についてのお話が入っている。天国(あるいは極楽)に行くにしても地獄に行くにしても、死んだ後もとりあえず心の存在は保証される。宗教とは、脳が巨大化して死の恐怖などという余計なことを考えるようになった人間が発明した、心が安楽になるための極めて優秀な装置である。死の恐怖も宗教も脳の発明品であることでは共通している。こういうのもマッチポンプと言うのだろうか。

【『やがて消えゆく我が身なら』池田清彦(角川書店、2005年/角川ソフィア文庫、2008年)】

 生と死にまつわるエッセイ集だ。テレビで見受ける酔っ払いみたいな口調とは打って変わって文章は端正である。

 私も生命は永遠だと長らく思っていたのだが10年ほど前に考えを改めた。スマナサーラ長老が「テーラワーダ仏教では最初に過去世を悟る」みたいな話を書いていたが私としては腑に落ちない。過去世だろうが来世だろうがその情報は現在の脳に収まっている。つまり何を語ろうとも現在の脳内情報であって、それを生前や死後にまで延長するのはどう考えても無理がある。

 よくインドあたりで生まれ変わり伝説がまことしやかに喧伝されているが、私は生まれ変わりというよりも何か生命の波長みたいなものがピタッと合致して、強く死者の生命を観じる(※「感じる」ではない)ことがあるのだろうと推察する。

 大体我々が思う生まれ変わりなんてえのあ身内や歴史上の有名人に限られていて、去年の夏に死んだ蝉や、日々食卓に上がる畜類の来世を思うことはない。

 本音を言えば死後の生命はあって欲しい。若い頃に後輩を亡くしているので彼らと会いたいからだ。ルワンダで殺戮された多くの人々も怨霊となって無慈悲な人類を祟(たた)ればいいと本気で思う。でも多分そうはならない。

 私は死と眠りは極めて似た状態だと考える。眠ってしまえば私という存在はなくなる。夢を見ているのは脳が半分覚醒しているためで完全に死んではいない。ま、幽霊なんてのがこの状態なのだろう。眠れば私は消える。これが答えだ。

 本当は永続する何かがあるかもしれないが、それは我々が考えているような「私」ではない。エネルギーの慣性みたいなものが働く可能性はある。ただし生まれ変わるような性質ではないだろう。

 諸法無我とは「物語から離れる」生き方である。因果応報で死後の極楽行きや地獄行きが決まるというのはいい物語だとは思うが、所詮物語の領域を出ていない。善因善果・悪因悪果は飽くまでも現在に収まるのである。私は死後の存在を否定するようになってから「死ねば仏」という言葉は案外正しいのかもしれないと考えるようになった。「死の瞬間に脳は永遠を体験する」(『スピリチュアリズム』苫米地英人、2007年)なら時間が止まる可能性もある。

やがて消えゆく我が身なら (角川ソフィア文庫)
池田 清彦
KADOKAWA (2008-05-23)
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2019-05-26

煩悩即菩提/『新板 マーフィー世界一かんたんな自己実現法』ジョセフ・マーフィー


『ニューソート その系譜と現代的意義』マーチン・A・ラーソン
『「言葉」があなたの人生を決める』苫米地英人
『アファメーション』ルー・タイス
『「原因」と「結果」の法則』ジェームズ・アレン
『「原因」と「結果」の法則2 幸福への道』ジェームズ・アレン

 ・煩悩即菩提

『未来は、えらべる!』バシャール、本田健
・『バシャール・ペーパーバック1 ワクワクが人生の道標となる』ダリル・アンカ、バシャール
『潜在意識をとことん使いこなす』C・ジェームス・ジェンセン
『こうして、思考は現実になる』パム・グラウト
『こうして、思考は現実になる 2』パム・グラウト
『自動的に夢がかなっていく ブレイン・プログラミング』アラン・ピーズ、バーバラ・ピーズ
『あなたという習慣を断つ 脳科学が教える新しい自分になる方法』ジョー・ディスペンザ
『ソース あなたの人生の源はワクワクすることにある。』マイク・マクナマス

 前向きに考えるための基本を身につけてください。「思考が道具であること」「心で感じたものが引き寄せられてくること」「人間は、心で想像したとおりになること」、この三つがわかれば、何でも前向きに考えられるようになります。

【『新板 マーフィー世界一かんたんな自己実現法』ジョセフ・マーフィー:富永佐知子〈とみなが・さわこ〉訳(きこ書房、2012年/きこ書房、2003年『マーフィー 世界一かんたんな自己実現法 驚異のイメージング』)以下同】

 原著刊行は1952年(昭和27年)。GHQの日本占領が終わった年である。新しい思考は余暇から生まれる。文明発達の目的は自由な時間の獲得、すなわち余暇にある。枢軸時代の思想家を生んだのは鉄器であったと武田邦彦が指摘している。鉄器によって農業の生産性が格段に上がり、余剰を蓄えることが可能となった。

 願望実現のベクトルが内側に向けられると自己啓発となり、外側に向かうとマーケティング理論になるというのが私の考えだ。ジョセフ・マーフィーの後塵を拝すようにしてヴァンス・パッカードマーシャル・マクルーハンが登場している。

 マーケティング理論には心理学が悪用され深層心理に働きかけることで消費者の購買意欲を煽った。広告、広告、広告だ。戦争と好景気を背景に人々は物欲を満たした。

 あなたが心で考えていること、それがあなたです。
「信頼」は、考え方や感じ方、つまり心構えや志のひとつです。人間は成功を「信頼」することも、失敗や不運、貧しさを「信頼」することもできます。そして、こうした心の状態はすべて人生にあらわれます。「信頼」が外に押し戻されるのです。そもそも、信頼するということは、心の中で何かをじっくり眺め、納得して受け入れるということです。もとより「信頼」は思考のひとつで、思考にはものを作る力があるので、考えていることを外部に作り出してしまいます。人間とは、心の中の思いが形を取ってあらわれ出たものだからです。わたしたちは、本当に信じていることを現実に作り上げます。心の底で何を信じているかが重要なのであって、通りいっぺんに納得するだけではだめです。

 結局何を信じるかである。信心・信仰・信念といっても一緒である。我々は何かを信じずには生きられない。そして自分が信じている多くのことが実は誤っている。人は解釈された世界を歩み、妄想の中を生きるのだ。

 年を重ねるに連れて自分の中に制限を見出す人が多い。仕事は学歴や資格で選択肢が狭まれ、能力や適性を発揮することもないまま中年期に至る。人生が何となく先細りになってゆくことを避けられない。

 加齢に伴う自己制限が不幸の大きな原因の一つであるように思える。

 自己実現が欲望の実現を目指しているならば実にわかりやすい煩悩即菩提の構図である。所願満足といってもよい。そう考えると後期仏教(大乗)が多くの人々を乗せることができる乗り物に喩えられたのは、欲望充足の巧みなデッサンを提示したためか。より多くの人々が信じられるものは、より易しくてわかりやすい教えだ。

 つまり自己啓発の思想は大乗の香りを放ち、鎌倉仏教のビートを奏(かな)でているのだ。神智学協会(1875年-)というコネクター(『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール)が登場するのも偶然ではない。これはキリスト教世界における神仏習合なのだ。

 人類の思想史は肯定と否定の波を繰り返し、自己実現と諸法無我の間を彷徨(さまよ)い続けるのだろう。

2019-05-04

科学の限界/『宇宙を織りなすもの』ブライアン・グリーン


『宇宙をプログラムする宇宙 いかにして「計算する宇宙」は複雑な世界を創ったか?』セス・ロイド
『宇宙が始まる前には何があったのか?』ローレンス・クラウス

 ・科学の限界

『生物にとって時間とは何か』池田清彦
『死生観を問いなおす』広井良典
『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ

情報とアルゴリズム
必読書リスト その三

 当然ながら、瞬間には時間の経過は含まれない(少なくとも、私たちが知覚しているこの時間の場合には)。なぜなら、瞬間とは時間の素材であり、ただそこに存在するだけで変化しないからである。どれかの瞬間が時間のなかで変化できないのは、どれかの場所が空間のなかで移動できないのと同じことだ。ある場所が空間のなかで移動すれば、別の場所になるだけのことだし、時間のなかである瞬間を移動したとすれば、別の瞬間になるだけのことだろう。このように、映写機の光が次々と新しい「今」に生命を与えていくという直観的なイメージは、詳しい吟味には耐えないのである。どの瞬間も、今このときに照らし出されており、いつまでも照らし出されたままだ。どの瞬間も、今このときに【実在している】のである。こうして詳しく吟味してみれば、時間は流れていく川というよりもむしろ、永遠に凍りついたまま今ある場所に存在し続ける、大きな氷の塊に似ている。
 この時間概念は、ほとんどすべての人が慣れ親しんでいる時間概念とはかけ離れている。アインシュタインは、この時間概念が彼自身の洞察から導かれたものであるにもかかわらず、これほど大きな考え方の変化をきちんと理解することの難しさに無理解ではなかった。ドイツの論理学者で科学哲学者でもあるルドルフ・カルナップは、このテーマでアインシュタインと交わした素晴らしい対話について次のように述べている。「アインシュタインは、今という概念をめぐる問題は彼をひどく悩ませると言った。そして彼は、人間にとって今という経験は特別なものであり、過去と未来とは本質的に異なるが、この重要な差異は物理学からは出てこないし、出てくることはありえないと説明した。彼にとって、科学が今という経験を捉えられないことは、辛いけれども諦めなければならないことであるらしかった」

【『宇宙を織りなすもの』ブライアン・グリーン:青木薫訳(草思社、2009年/草思社文庫、2016年)】

 主人公は時空である。宗教と科学が時間という軸によって接近することは何となく察しがついた。宗教を尻目に科学は相対性理論や量子論によって時間の本質に迫りつつある。ブッダは現在性を開き、キリスト教は永遠を説いたが宗教の足並みはそこで止まったままだ。

 時間の矢が逆転しても物理的には問題がないという。ところが我々の思考では割れた卵が元通りになることは考えにくい。時間に方向性を与えているのはエントロピー増大則だ。乱雑さは増大し形あるものは成住壊空(じょうじゅうえくう)のリズムを奏でる。

 瞬間に時間の経過は含まれない――とすれば瞬間の中にこそ永遠があるのだろう。そして科学は瞬間において自らの限界を弁えた。ここに科学の偉大なる自覚がある。教団は万能だ。あらゆることを可能にすると宣言し、無謬(むびゅう)であるかのように振る舞う。そこに自覚はない。汝自身を知らずして信者には夢だけ見させているのだ。薬事法を無視した健康食品さながらだ。

 瞬間という現在性に立脚するのが真の宗教性だ。ブッダが道を示し、クリシュナムルティが道を拓き、「悟りを開いた人々」がその後に続く。諸行無常、諸法無我、涅槃寂静(三法印)のみが真実なのだろう。

 

2019-04-26

「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ


 ・自由の問題 1
 ・自由の問題 2
 ・自由の問題 3
 ・欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
 ・教育の機能 1
 ・教育の機能 2
 ・教育の機能 3
 ・教育の機能 4
 ・縁起と人間関係についての考察
 ・宗教とは何か?
 ・無垢の自信
 ・真の学びとは
 ・「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」
 ・時のない状態
 ・生とは
 ・習慣のわだち
 ・生の不思議

クリシュナムルティ著作リスト
必読書リスト その五

 なぜ友人がほしいのでしょう。君たちは夫や妻もなく、子供もなく、友だちもなく、この世の中に一人で生きられますか。ほとんどの人は一人では生きられません。そのために友人がほしいのです。一人でいるには、非常に大きな智慧が必要です。そして、神や真理を見出すには、一人でいなくては【なりません】。友人や夫や妻を持つことや赤ちゃんを持つこともすてきです。しかし、私たちはそれらの中で、家庭や仕事、腐敗してゆく存在のつまらない単調な課業のなか(ママ)で、迷ってしまいます。それになじんでしまうのです。そのとき、一人で生きるという考えは恐ろしく、怖いものになるのです。しかし、生に豊かさがあるなら――お金や知識という誰にでも獲得できる豊かさではなく、始まりもなく終わりもない真実の動きという豊かさがあるのなら、そのとき交友は二次的な問題になるでしょう。

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)以下同】

「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」という少女の質問に答えたもの。「神や真理を見出すには、一人でいなくては【なりません】」との一言で教祖や師匠の存在を否定して痛烈である。出家の目的もここにあるのだろう。ブッダのもとに集ったサンガは共同体であったとされるが、現代の我々が考えるようなコミュニティではなかったように思われる。精神的な相互扶助があればそこに依存が生まれるからだ。

「始まりもなく終わりもない真実の動き」――このようなクリシュナムルティ独特の表現が何を指しているのか私にはわからない。たぶん三法印(諸行無常、諸法無我、涅槃寂静)のことだとは思うが、クリシュナムルティの言葉の方がすっきりと胸に入ってくる。

 しかし、君たちは一人でいる教育を受けないでしょう。君たちは自分一人で散歩に出かけることがありますか。一人で出かけ、木陰に坐ることはとても重要です――本も持たず、友人もなく、自分一人で、です。そして、木の葉が散るのを観察し、河のさざなみや漁師の歌を聴き、鳥が飛ぶのや、心の空間で自分の思考が互いに追いかけ合い、跳んでいるのを眺めるのです。一人でいて、これらのものを眺めることができるなら、そのとき君はとてつもない富を発見するでしょう。それは、どんな政府も税金を掛けられないし、どんな人間の作用によっても腐敗しないし、決して滅ぶことがないのです。

 デカルトだってここまでの観察はできなかったことだろう。見るためには距離が必要だ。つまり自分の思考を観察するためには自我から離れる必要があるのだ。

 クリシュナムルティは「悟れ」とすら言わない。ただ、「見よ」というだけである。「止観」(しかん)とはこのことか。道元は「正法眼蔵」を、日蓮は「開目抄」「観心本尊抄」を著した。「見る」という方向性は一致しているがクリシュナムルティのシンプルさは際立っている。


2019-02-17

腸内細菌で自閉症の症状を緩和することができる/『できない脳ほど自信過剰 パテカトルの万脳薬』池谷裕二


『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』池谷裕二
『脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?』池谷裕二
・『脳はなにげに不公平 パテカトルの万脳薬』池谷裕二

 ・腸内細菌で自閉症の症状を緩和することができる

『脳はバカ、腸はかしこい』藤田紘一郎

 腸内細菌で自閉症の症状を緩和することができる――。そんなネズミの実験データが発表されました。カリフォルニア工科大学のマツマニアン博士らが先々月の「セル」誌に発表した論文です。
 腸と脳は密接に関係しています。腸内細菌も精神状態に影響を与えることはすでに知られています。しかし、自閉スペクトラム症(ASD)はいわゆる発達障害の一種です。つまり生まれつきの症状です。これが腸内細菌で治療できるとはどういうことでしょうか。今回の発見を私なりに消化するまでに時間を要しました。
 発見の端緒は「合併症」の丹念な調査にあります。2年前にハーバード大学のコハネ博士らは1万4000人のASDの方を集め、彼らが他にどんな病気を患っているかを調べたのです。すると炎症性腸疾患という慢性の腸炎を併発している率が高いことがわかりました。腸炎の原因は十分にはわかっていませんが、一因は腸内細菌であろうと考えられています。
 この発見に、近年のミクロビオーム研究が加担します。最新の検査技術を用いると、大量の腸内細菌を一斉に調べ上げることができます。腸内にどんな細菌が住んでいるか(ミクロビオーム)が一網打尽にわかります。その結果、ASDの方のミクロビオームは健常者のものとは異なっていました。
 もちろん、これだけでは、ミクロビオームが原因でASDになったのか、あるいは逆に、ASDの方に偏食があるからミクロビオームが変化しているのかはわかりません。ヒトでこれを確かめるわけにはゆきません。そこでマツマニアン博士らは、ネズミの実験に切り替えることにしました。その結果、ミクロビオームこそがASDの症状の一因だという結論を得たのです。もう少し詳しく説明しましょう。
 ASDの原因の一つは感染です。生まれる前、まだ母親の胎内にいるときに感染すると、ASDの危険率がぐんと上昇します。その証拠に、妊娠中の母ネズミに感染炎症を生じさせると、生まれてきた仔はヒトのASDにそっくりな症状を示します。社交的な行動が減っているだけでなく、なんとミクロビオームまで変化しているのです。
 そこで博士らは、大腸炎を改善することが知られている「バクテロイデスフラジリス」という細菌を、生まれてきたばかりの仔マウスに与えました。するとマクロビオームが改善され、驚くべきことに、成長してもASDの症状を示さなかったのです。
 炎症性腸疾患は、ASDだけでなく、うつ病やある種の知的障害などにも見られる症状です。今回のデータは、これまで対処が難しかった精神疾患や発達障害への治療の糸口になるかもしれません。

【『できない脳ほど自信過剰 パテカトルの万脳薬』池谷裕二〈いけがや・ゆうじ〉(朝日新聞出版、2017年)】

『週刊朝日』に連載された科学コラム「パテカトルの万脳薬」の2013年9月6日号~2014年12月26日号掲載分で、『脳はなにげに不公平 パテカトルの万脳薬』の続篇。

瓢箪から駒が出る」とはこのことか。「ランプから魔神」でもよい。

 我々の思考はどうしても特定の部位に目を向けてしまう。脳、血管、神経、臓器など。腸内細菌は口から入ったもので作られる。お腹の中の赤ちゃんは無菌状態である。帝王切開の出産が問題なのは産道を通る時に口から入る母体の菌を取り入れることができないためだ。

 私が子供の時分は菌といえばバイ菌を意味したが、ヨーグルトでお馴染みのビフィズス菌が善玉菌として菌のイメージを書き換えた。人体の細胞は60兆個といわれる(最新の説では37兆個→気になる数字をチェック! 第9回 『37,000,000,000,000(37兆)個』|北キャンレポート|R&BPマガジン|北大リサーチ&ビジネスパーク推進協議会/同数説もあり→「体内細菌は細胞数の10倍」はウソだった | ナショナルジオグラフィック日本版サイト)。しかし実はそれを上回る数の細菌が人体を構成している。

「私」という存在を固定化し確定したものと考えるところに思考の過ちがあるのだろう。もっと淡くて曖昧な状態・現象が統合されて「私」という仮想が現実の姿に見えているだけなのだ。これを諸法無我という。

 精神疾患や知的障碍は人体のみならず家族や社会との関係にも大きな影響を及ぼす。悩みや苦しみが関係性から生じ、喜びや楽しみもまた関係性から生じる。今ここにあるのは関係性だけなのかもしれない。

できない脳ほど自信過剰
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脳はなにげに不公平 パテカトルの万脳薬
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2018-11-20

カルロス・ゴーンと青い鳥/『かくかく私価時価 無資本主義商品論 1997-2003』小田嶋隆


『我が心はICにあらず』小田嶋隆
『安全太郎の夜』小田嶋隆
『パソコンゲーマーは眠らない』小田嶋隆
『山手線膝栗毛』小田嶋隆
『仏の顔もサンドバッグ』小田嶋隆
『コンピュータ妄語録』小田嶋隆
『「ふへ」の国から ことばの解体新書』小田嶋隆
『無資本主義商品論 金満大国の貧しきココロ』小田嶋隆
『罵詈罵詈 11人の説教強盗へ』小田嶋隆

 ・襲い掛かる駄洒落の嵐
 ・カルロス・ゴーンと青い鳥

『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド』小田嶋隆
『テレビ標本箱』小田嶋隆
『テレビ救急箱』小田嶋隆

 つまり、チルチルとミチルがお家の中で遊んでいると、ふらんすからごーんという名前のおじさんがやってきて、青い鳥を焼き鳥にして食ってしまうのである。
 この場合、青い鳥は何の象徴だろう?
 ブルーバード?
 ははは。違うね。
 ブルーカラーに決まってるだろ。

【『かくかく私価時価 無資本主義商品論 1997-2003』小田嶋隆(BNN、2003年)】

 カルロス・ゴーンは青い鳥をたらふく食った挙げ句に勘定を誤魔化していたようだ。コストカッターが自分の税金もカットしていた模様である。

 社員の首を切りまくり、工場の土地を売りまくり、経費を節減することで利益を出したゴーン社長をマスコミは手放しで称賛した。私は「フン、まるでマッカーサーだな」と業を煮やした。

 ゴーンが行ったことは地域に根差した日産ファンや日産文化の破壊であった。それまでは経営者の禁じ手であった人員整理が以後当たり前の経営手法に格上げされた。派遣社員も企業側の要望から適用業種が拡大された。富国の要であった経済が今度は国を亡ぼそうとしている。まるで癌細胞だ。癌は人体と共生することを拒んで人体と共に亡ぶ。

 ヨーロッパには「ノブレル・オブリージュ」(高貴なる者の義務)という観念があり、昔の戦争では貴族が先頭に立って出撃した。現代の高貴なる者は納税の義務すら回避しようと節税対策に余念がない。

かくかく私価時価―無資本主義商品論1997‐2003
小田嶋 隆
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2018-11-01

記憶喪失と悟り/『記憶喪失になったぼくが見た世界』坪倉優介


『暗殺者』ロバート・ラドラム

 ・記憶喪失と悟り

必読書リスト その二

 こ れ か ら な に が は じ ま る の だ ろ う

 目のまえにある物は、はじめて見る物ばかり。なにかが、ぼくをひっぱった。ひっぱられて、しばらくあるく。すると、おされてやわらかい物にすわらされる。ばたん、ばたんと音がする。
 いろいろな物が見えるけれど、それがなんなのか、わからない。だからそのまま、やわらかい物の上にすわっていると、とつぜん動きだした。外に見える物は、どんどんすがたや形をかえていく。
 上を見ると、細い線が3本ついてくる。すごい速さで進んでいるのに、ずっと同じようについてくる。線がなにかに当たって、はじけとぶように消えた。すると2本になった。しばらくすると、こんどは4本になった。
 この線はなんなのだろう。なん本ついてくるのだろう。ふえたり、へったりして、がんばってついてくる線の動きがおもしろい。
 急に、いままで動いていた風景が止まった。すると、上で動いていた線も止まる。さいしょと同じ3本になっている。みんないっしょにきてくれたんだ。
 外に出されると、ぼくが見ていた細い線は、ずっとおくまでのびていた。上を見ていると、なにかがぼくの手をひっぱる。足がかってについていく。つぎに止まったばしょには、しずかで大きな物があった。
 それは見上げるほど大きい。どうしたらいいのか、まよっていると「ここがゆうすけのおうちやで」と言われた。おうちも、ゆうすけも、なんなのことかわからなくて、ただ立つだけだ。なにかにひっぱられて、そのまま入っていく。

【『記憶喪失になったぼくが見た世界』坪倉優介(幻冬舎、2001年『ぼくらはみんな生きている 18歳ですべての記憶を失くした青年の手記』改題/幻冬舎文庫、2003年/朝日文庫、2011年)】

 坪倉優介はスクーターで帰宅途中、トラックと衝突する事故に遭い意識不明の重体となる。10日後に意識は回復したものの記憶を完全に喪失していた。

 冒頭のテキストである。私は俵万智〈たわら・まち〉の解説を読むまで気づかなかったのだが「3本の線」とは電線のことだった。「やわらかい物」はクルマのシートだろう。空白マスを挿入した見出しが実にいい。そこはかとない不安と行方の知れぬ先行きを巧みに表している。

 自我とは記憶の異名である。過去をもとにした感情の反応や関係性の物語が「現在の私」を紡ぎ出すのだ。とすると記憶喪失はそれまで蓄積したデータやソフトなどを消去して初期状態に戻したパソコンのようなものと考えることができる。

 更に自我=記憶であれば、記憶喪失は無我を志向し、悟りに近い状態になるのではあるまいか、と私は考えた。が、違った(笑)。

 坪倉の奇蹟は物の意味すらわからなくなった状態に陥りながらも言葉を失わなかったことだ。言い方は悪いが、赤ん坊が無垢な瞳で世界をどのように見つめているかを知ることができる。その意味で若いお父さん、お母さんは必読である。

 電線に対して「がんばってついてくる」「みんないっしょにきてくれたんだ」という純粋な気持ちに涙がこぼれる。大人からすれば景観の邪魔でしかない電線にこれほど豊かな感情を添えている。そんな子供の心を踏みにじり、大人は競争の世界へと彼らを誘導する。

 真っ白な世界が少しずつ色合いを増してゆく。その後坪倉は大阪芸術大学工芸学科染織コースに復学し、努力の末、染物作家として活躍している(卒業生インタビュー | 大阪芸術大学)。

 疑問の一つが解けた。自我を打ち消すことが悟りなのではない。自我から離れることが悟りなのだろう。一瞬一瞬の時を経て経験を積み重ねてゆくわけだが、その経験にとらわれることなく離れることは、時間からも離れることを意味する。ここに至れば過去と未来は死ぬ。現在は過去の集積でもなければ、未来のために犠牲にする時間でもない。現在は「ただ、ある」のだ。

 よく考えてみよう。苦しみは過去から生まれ、不安は未来に向かって抱くものだ。つまり苦悩が現在性を見失わせるところに不幸の根本原因があるのだ。そんなことを気づかせてくれる読書体験であった。



悟ると過去が消える/『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』サリー・ボンジャース

2018-09-28

臨死体験/『死 私のアンソロジー7』松田道雄編集解説


安楽死と臨死体験を巡る議論
身体感覚の喪失体験/『自閉症の子どもたち 心は本当に閉ざされているのか』酒木保

 ・臨死体験

 10日の深夜から意識がもどってきたが、それと共に苦痛が来た。それは怒涛といってよかった。それに襲われると、眼の前も頭の中も、真赤になった。血の色である。私はふんづけられ、くちゃくちゃにまるめられ、ひきちぎられ、たたきつけられ、うなり声をあげた。その極限で意識はもうろうとなり、幻影じみたものをたびたび眺め、そして昏睡した。また意識がもどってきて、私をふみくだく。私の胸からつき出しているドレンの管に、私が、うっ、と言うたびに血がふき出しているらしい。私は胸の中にたまっている血が喉へつきあげてくるのがわかるが、咳をすることが全く苦しくてできない。そして、熟練したおばさんが私の胸をかるくおしながら血を吐かせる。おばさんが隣のおばさんに、囁くように言う声が、眼を閉じてうめいている私の耳にとてつもなく大きく聞える。
 ――血がとまらないのよ、ドレンの管へびゅっびゅっと、ほら、こんなに、こんなにたまってしまって。
 そして痛みの極みに達した時、私はすうっと飛びはじめたのを感じたのだ。いまにして思えば、これは多分幻覚だろうと思うのだが、私は、その時、私の姿をはっきり見た。私がこなごなに割れて、燃えつきた黒いかたまりになって、果てしない空間を、とてつもない速さで飛んでいくのである。私は地球を離れたと感じていた。ガガーリンは、地球は青かった、という言葉を人間の歴史に刻んだ。私は空間を飛びながら、ああ、おれの地球はあたたかだった、と思っていた。ほんとにあたたかい星である地球の大地、そこから私は離れて、いまとても寒い、と思った。とてもつめたい。いっそうつめたいところへ飛んでいく。そして私の前方は無限の宇宙空間であり、うす青い色からしだいに濃い青へ、そして黒々とした色へとつづいていた。そうだ、このまま飛びつづけてあそこへおちこんだ時、あの手術室のマスクの中で、突然、何もなくなってしまったように、おれは、パタッとなくなってしまうのだ。こうやっていって、そしてパタと。これが死なんだ、と私ははっきり思った。
 その時、私はもう自分の苦痛すら感じ得ないもうろうたる状態にあったらしい。
 ――そうか、こんなぐあいなのだな、苦しくて苦しくて、というのはあるところまでで、そして、そこを越えるとこんなふうにぼうっとしてきて、そして飛びはじめて、飛びつづけて、あの青黒く果てしもない空間の中でパタと、と私は思った。
 そうか、かつて、手術を受けても死んだ人たちは、いまのおれと同じここまで来て、そして、ここから先へ、あの黒い空間の淵へ行ったんだな、そうか、こんなぐあいだったのか。それが、死だったのか。
 そこから不意に私は、全く強引に、荒々しくつれもどされた。私は全然知らなかったが、レントゲンの器械をおして技師が入ってきていたのだ。私の、手術直後の内部の状態を正確に見るために、深夜、ベッドの上で写真をとるのである。これは、私をひきもどす人間の手だった。私の襟をしっかりつかみ、彼は少しばかり私を起こしたらしい。しかし、私は、肉と皮をばりばりはがれるような痛みで悲鳴をあげた。それはどうも声になっていないらしかった。斜めに起こされた私の背中にかたい大きな板がさしこまれ、そして、写真をうつされると、私はもとのようにねかされた。私はもうあのつめたい空間にはいなかった。地球の上で、ベッドの上で、身動き一つできずにうなっていた。私はまた苦痛にひきちぎられていた。(中略)
 しかし、そこを体験し、くぐったために、私は、私が予想していたものとはちがった、新しい事実にぶつかることとなったのである。
 その第一は、これまで述べてきたように、たとえ幻影であろうと何であろうと、私は死の影を見、それを具体的に感じ得た、ということだ。苦痛の果ての死を具体的に考える一つの手がかりを私は得た、ということだ。つまり、苦痛というものも、その極限に達しはじめると、私は苦痛を感ずる能力を失っていったのだ。それは苦痛というものとは別の次元であるように感じた。つまり、苦痛に襲われている間は、私はまぎれもない一個の生命体としてその生の状況を苦しんでいたのだ。そのような状態に追いつめられている傷ついた生そのものを苦しんでいたのである。
 そこを過ぎると死との間の中間帯の次元が現れる。そこでは苦痛を感じ反応し、さまざまの信号を脳が発する能力はしだいに弱まり、あいまいになってしまう。そこに入っていった時、私は、あたたかい地球から離れてしまった、と思ったのである。このまま行けば、いっそう私自身も周囲の空間もつめたくなり、そして、そのきわみに、一切が突然なくなってしまう世界がある、と思ったのである。なるほどこういうものだったのか、というぐあいに私が思った、そのことが鮮明に残っている。
 そこにはもう、ただ一つのことを除いては、どのような人間感情も存在しなかった。おれはいま、燃えつきようとする一個の物体だ、と私は思い、そして私の親しい人々に対しても、また私自身についてすら、喜んだり悲しんだりするすべての感情はもはや消滅していた。これはいまにして思えば全く予想しないことであった。親しい多くの人々と別れて、淋しいとかつらいとか悲しいとか、そういった感情はここにくると、もう存在しなかったのである。
 ただ一つだけ、最後まで残っていた感情がある。それは、何とも言えない無念な思いであった。こうやってついに生命に別れを告げるのか、という確認と同時に、かつて人間であり、ただ一度の生を生きたというその証拠を、自分がこうしてパタッと消えるとしても、やはりつづいていくであろう人間の歴史の上に、たとえどんなかすかな爪あととしてでも刻むことなくして飛び去らなくてはならないという無念さであった。
 これは意外だった。自分なりに精いっはい生きてきたつもりだったのに最後にそんなものが残るとは夢にも思わなかった。どうせ死んだらどんな人間もみな同じだ、と思ったりする人も世の中にほあるが、一回きりの生命というものは、一回きりの名において、最後のどたん場で、私を責めたのである。このことについては、これが出発点となって、それ以後私はその内容をさぐっていくようになるのであるが、それは第3章で追究していくことにする。ただ私なりの考えの一端を書いておくと、どうせ一度きりのいのちだ、どう生きようと自由だ、という考え方は、それはそれで、私は別にどう干渉するつもりもないが、生のまさに終えんとするそのどたん場で、はじめて愕然(がくぜん)として、言い知れぬ無念な思いを抱いて死に突入するほど、凝縮された絶望はほかにあるまいと思えるのである。(『生命の大陸 生と死の文学的考察』小林勝〈こばやし・まさる〉、三省堂新書、1969年)

【『死 私のアンソロジー7』松田道雄編集解説(筑摩書房、1972年)】

 抜き書きの3分の1ほどを紹介する。それでも引用の範疇(はんちゅう)を超えているが(笑)。

「安楽死と臨死体験を巡る議論」を参照してもらえばわかるように、私は2001年の時点では「生命は三世にわたって永遠の存在である」との認識に立っていた。天台三諦論の中諦が永遠に続くと信じていたのだ。

 梵網経で説かれる六十二見(外道の邪見)に常見断見がある。我(アートマン)が死後も続くと考えるのが常見で、死ねば終わりと思うのが断見である。

 キリスト教世界には「パスカルの賭け」という有名な詭弁がある。だったらさっさと死ねよ、と言いたくなる。

 生命とか我とか言ったところで所詮「意識」の問題であろう。私は死とは眠りのようなものだと考える。眠りに落ちた瞬間、意識は消える。「夢はどうなんだ?」という声が出そうだが、夢は半覚醒状態で意識が彷徨(さまよ)っているのだろう。ま、幽霊みたいなもんだ。脳が完全に休まれば夢は見ない。

 小林勝の体験――というよりは覚醒後に構成された体験で、バラバラの脳内情報を夢としてストーリーを付与するのと似ている――は劇的で実に面白い。だからこそ鵜呑みにするべきではないのだ。「科学者は、体験談を証拠とはみなさない」(『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』スーザン・A・クランシー)。

 若い頃にエリザベス・キューブラー=ロスの『死ぬ瞬間 死とその過程について』(1971年)も読んだが、私が納得できたのは当時の信念と共鳴したためだ。今となっては読む気も起こらない。

 私は数人の後輩を喪っているが、もちろん彼らは私の胸の中で生きている。父も亡くしたが、やはり胸の中で生きている。疎遠になった友人以上に生き生きと生きている。願わくは死後も生命が続いてどこかで再会したいとは思う。だが思うだけだ。決してそれを信じることはない。いるのだったら化けてでもいいから出てきて欲しい。

 臨死体験は脳内現象である。脳を離れた臨死体験はあり得ないのだ。例えば天井から自分の体を見下ろしたとか、病院内で行ったことのない場所の物を言い当てたりするような事例が報告されているが、それは幽体離脱を証明するものではなく千里眼によるものと考える。ま、私にとっては千里眼よりも眼前の物が見える方がはるかに不思議であるが。

 記憶は脳に保管されている。時折過去世を思い出した子供の話があるが、脳は別物だから記憶が引き継がれるわけがない。それが事実であるとすれば認知症や記憶喪失などの説明がつかなくなる。それに過去世を思い出したから何だと言うのだ? 来世を予測できるのならばまだしも、昨日を思い出すのと五十歩百歩ではないか。

 来世があろうとなかろうと死ねば今世(こんぜ)の終わりである。人は今世に生きるべきであり、更に言えば現在只今を生きるべきである。死後の世界については無記の態度が正しい。

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