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2021-07-27

マルクス思想の圧倒的魅力/『左翼老人』森口朗


『「悪魔祓い」の戦後史 進歩的文化人の言論と責任』稲垣武
『こんな日本に誰がした 戦後民主主義の代表者・大江健三郎への告発状』谷沢永一
『悪魔の思想 「進歩的文化人」という名の国賊12人』谷沢永一
『誰が国賊か 今、「エリートの罪」を裁くとき』谷沢永一、渡部昇一
『いま沖縄で起きている大変なこと 中国による「沖縄のクリミア化」が始まる』惠隆之介
『北海道が危ない!』砂澤陣
『これでも公共放送かNHK! 君たちに受信料徴収の資格などない』小山和伸
『ちょっと待て!!自治基本条例 まだまだ危険、よく考えよう』村田春樹
『自治労の正体』森口朗
『戦後教育で失われたもの』森口朗
『日教組』森口朗

 ・左翼とは何か
 ・「リベラル」と「左翼」の見分け方
 ・マルクス思想の圧倒的魅力

・『売国保守』森口朗
『愛国左派宣言』森口朗
『知ってはいけない 金持ち 悪の法則』大村大次郎

必読書リスト その四

 日本は欧米に並ぶ先進国のはずです。それなのに何故、アメリカのリベラルやヨーロッパの社会民主主義のような健全な左派が存在しなのでしょうか。それは、戦前からインテリの間に共産主義ブームがあり、1933年から1945年の間だけ弾圧されましたが、戦後すぐに息を吹き返したために、ほとんどの人が共産主義者の枠組みで思考するという悪弊から抜け出せていないからだと考えます。
 そして、恐ろしいことに、その思考スタイルは中等教育(中学・高校)や高等教育(大学以降)を通じて、今でもほとんどの人の意識下に浸透しています。その代表例が「資本主義VS共産主義」という思考スタイルです。
 高校の政治経済だけでなく、大学の教育でさえも資本主義と共産主義が対立的なものと教えます。しかし、資本主義と共産主義は決して対立的なものではありません。なぜなら、資本主義は人類の歴史の中で徐々に形成された現在の経済の仕組みであるのに対して、共産主義はマルクスの思想とそれを信じた人々が創った人工国家の理念の中にしか存在しない、つまりこの世に一度も存在したことのない妄想だからです。
 アダム・スミスは近代経済学の祖と言われますが、資本主義はアダム・スミスが考えたものでも提唱したものでもありません。これに対しマルクス経済学はマルクスが提唱した考え方やその発展を学ぶ学問です。近代経済学は先に「経済という現実」があるのに対し、マルクス経済学は先に「理念」があり、この二つはまったく異なる学問です。事実、この二つを対立的に考えるのは、先進国の中では日本だけです。他の先進国においてマルクス経済学など、ほとんど相手にされない「経済学を自称する一派」にすぎません。
 これは、残念ながら欧米先進国と異なり近代日本にとって、資本主義も自然発生的なものではなく、外来の人工的な香りのするものだったかもしれません。渋沢栄一をはじめとする天才的な実業家が、ほとんど一代で欧米資本主義国家に近い仕組みを創り上げることができたのだから、共産主義者が政権を取れば数十年で「労働者の楽園」を創れると夢想しても無理はありません。
 もう一度書きますが、資本主義と共産主義が対立するという思考スタイルは、資本主義社会の次に共産主義社会が到来すると信じる共産主義者だけです。確かに冷戦時代は資本主義国家群と社会主義国家群は対立しましたが、これは軍事外交上の対立にすぎません。
 日本以外の先進国の住人にとって資本主義は所与であり、それゆえに改良し続けるべきものです。それは右派自由主義者も左派平等主義者も同じです。ところが、日本はインテリ層のほとんどが(資本主義の側に立つ人まで)共産主義的思考スタイルの中でモノを考えるので、今の社会を所与として改良を重ねるというこ健全な思考が苦手です。

【『左翼老人』森口朗〈もりぐち・あきら〉(扶桑社新書、2019年)以下同】

 なるほど。進歩史観だと資本主義が共産主義の前提となるわけだ。Wikipediaにも「ただし、現実には合ってなく、社会主義・共産主義国で経済学とは社会を分析する道具でなく、理念を擁護するプロパガンダのため、マルクス経済学を学んでも経済をまともに理解するのは難しい」とある。高橋洋一は「学生時代にマルクスの『資本論』を読んで、こいつは馬鹿だなと思った」と語った。需給関係を無視した労働価値説を嘲笑ったものだ。

 ところが、高校の政治経済では「資本主義国家は市場の失敗から社会主義に近づき、社会主義国家も市場原理を導入して資本主義に近づいた」と教えているのです。「市場の失敗」という概念は存在しますし、20世紀の資本主義国家が福祉国家の理念の下に社会保障を充実させたのは事実ですが、それは資本主義国家が社会主義国家に近づいたのではありません。資本主義国家がより成熟したのです。これを「社会主義国家に近づいた」と称するためには、社会主義国家が資本主義国家以上に社会保障が充実していなければならないはずです。
 しかし、日本よりも医療保険制度が充実している社会主義国家など、どこにも存在しません。だからこそ、中国人がこの制度を悪用して日本の優れた医療を受けに来るのです。日本の年金制度は世界のトップレベルではありませんが、それでも老人が発展途上国で悠々自適の暮らしをするくらいはできます。旧ソ連や東ヨーロッパで悠々自適な老後を過ごせる人など共産党幹部くらいしかいなかったはずです。
 資本主義国家は社会主義、少なくとも共産主義者のいうところの社会主義(共産主義の前段階)などに近づいてはいません。ところが、リベラルや社会民主主義という穏健な左派が根付かず、「資本主義VS共産主義」という思考スタイルの者には、その現実が見えないのです。

 文科省の汚染は酷い。安倍晋三の肝煎りで萩生田光一〈はぎうだ・こういち〉が大臣に起用されたが、徹底的な文科省改革を断行してほしい。

 戦後、教科書を墨で塗ったことが想像以上に教育を軽んじる結果になったような気がする。昭和一桁生まれの少国民世代が反日に傾いたのもむべなるかな。そして戦後生まれが学生運動に没頭するのである。敗戦の影響は若い世代の心の傷となって長く国家を蝕む。

 なぜ、マルクスは戦前戦後を通じてインテリを魅了したのでしょう。私は、彼らが「神に挑戦したからだ」という仮説を持っています。マルクス思想が宗教だからと言い換えてもよいでしょう。言い古された表現ではありますが、それゆえ一面の真実を表しています。(中略)
 ちなみに、アメリカ国内の政治的左派を「リベラル」と呼ぶようになるきっかけについて、キリスト教的価値からの自由を指したことが始まりであるとする説が有力です。確かにアメリカの共和党と民主党が激しく対立する価値観の一つに「堕胎(だたい)の自由」(民主党が認め、共和党が認めない)があることを考えれば、この説には説得力を感じます。本当に日本にリベラリストが育つためには、その人たちこそがマルクス教からの自由を主張しなければ無理でしょう。

 これは卓見だ。ニーチェが「神は死んだ。神は死んだままだ。そして我々が神を殺したのだ」(『喜ばしき知恵』『悦ばしき知識』)と書いたのが1882年だが、マルクスはニーチェに先んじていた。「哲学が批判すべきは宗教ではなく、人々が宗教という阿片に頼らざるを得ない人間疎外の状況を作っている国家、市民社会、そしてそれを是認するヘーゲル哲学である」(『ヘーゲル法哲学批判序説』1844年)。

「1782年にスイスで行われた裁判と処刑が、ヨーロッパにおける最後の魔女裁判であるとされる」(Wikipedia)。マルクスが生まれたのは1818年である。ちょうど明治維新の半世紀前だ。魔女狩りの血腥(なまぐさ)い臭いはまだヨーロッパに立ち込めていたことだろう。宗教を阿片と切り捨てるには、まだまだ勇気を必要とした時代だ。その思い切った姿勢はマルティン・ルター以来のロックスターとして持ち上げる価値は十分にあったことだろう。

 森口は日本のリベラルを信用してはならないと警鐘を鳴らす。

「左翼」思想を「リベラル」と詐称するくらいの嘘つきですから、左翼集団の話の内容は基本的に嘘ばかりです。2018年に彼らが積極的に話題にしたLGBTなどはその代表でしょう。

 社会主義国では同性愛者がこれでもかと抑圧されてきた。結局、キリスト教の呪縛から脱却し得ていないことがわかる。

 まともな右派政党や左派政党が登場しないのは、それを求める民意がなかった証拠であろう。だが今、中国の軍事的脅威が高まるにつれて日本の輿論(よろん)も少しずつ変化している。親中派に対する批判は民意の成熟ぶりを示している。

 風頼みの国政選挙ではなく、地域に根を張った地方議会からコツコツと実績を上げ、卓越した政治理念を示すことが望ましいように感じる。

「リベラル」と「左翼」の見分け方/『左翼老人』森口朗


『「悪魔祓い」の戦後史 進歩的文化人の言論と責任』稲垣武
『こんな日本に誰がした 戦後民主主義の代表者・大江健三郎への告発状』谷沢永一
『悪魔の思想 「進歩的文化人」という名の国賊12人』谷沢永一
『誰が国賊か 今、「エリートの罪」を裁くとき』谷沢永一、渡部昇一
『いま沖縄で起きている大変なこと 中国による「沖縄のクリミア化」が始まる』惠隆之介
『北海道が危ない!』砂澤陣
『これでも公共放送かNHK! 君たちに受信料徴収の資格などない』小山和伸
『ちょっと待て!!自治基本条例 まだまだ危険、よく考えよう』村田春樹
『自治労の正体』森口朗
『戦後教育で失われたもの』森口朗
『日教組』森口朗

 ・左翼とは何か
 ・「リベラル」と「左翼」の見分け方
 ・マルクス思想の圧倒的魅力

・『売国保守』森口朗
『愛国左派宣言』森口朗
『知ってはいけない 金持ち 悪の法則』大村大次郎

必読書リスト その四

 日本の左翼は80年代初頭まで、これらの国(旧ソ連、東ヨーロッパ諸国、中国、北朝鮮)の後に続くことを模索してきましたが、とても不可能だと悟り、さらに「左翼」思想をむき出しにしていては自分たちの生活が成り立たないと考え、「リベラル」や「社会民主主義」に擬態したのです。そこで、先の井上氏のリベラリズムの基本的な考え方(※井上達夫『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは、嫌いにならないでください』)やアメリカにおける政治的リベラルの歴史を踏まえて、本当の「リベラル」とそれに擬態した「左翼」の見分け方を示しておきます。

・リベラルは常に言論の自由を重んじるが、左翼は自分たちが優勢な場合には言論弾圧を躊躇しない。
 社会主義独裁国家に権力分立が存在しないのは「正義」は一つしかなく、共産党は常に正義だからです。それゆえ、彼らに多様な言論を重んじる精神はありません。ただし、リベラルに擬態した左翼は自分たちが少数派の時には、「多様な言論」や「言論の自由」の重要性を訴えます。これに対して本物のリベラルは反転可能性(自分が相手の立場になることを許容できるか)という基本原則から、自分が言論弾圧される状況を想定するので、常に言論の自由を重んじます。
・リベラルには「嘘をつかない」というモラルがあるが、左翼には「嘘をつかない」というモラルがない。
 左翼は社会主義国家を樹立するためには暴力革命(つまり人殺し)さえ肯定しますし、事実、新左翼と呼ばれる人たちは数々のテロ行為を行ってきました。自分たちの「正義」のためには手段を選ばないのが左翼の特徴ですから「嘘」をつくことに良心の呵責は一切ありません。これに対してリベラルでは「反転可能性」が基本原則なので、政治的敵の殺害はもちろん、嘘で自説を補強することを拒否します。
・リベラルは妥協を当然と考えるが、左翼は妥協を敗北と捉える。
 リベラルは正義を求めますが左翼のような絶対的な正義ではなく、相手にも一理あることが前提になっています。それゆえ、徴兵制か志願兵制かといったオール・オア・ナッシングの命題を除けば政治的妥協は当然だと考えます。これに対し左翼では政治は常に闘争ですから、政府との妥協は常に敗北を意味します。
・リベラルは愛国心を敵視しないが、左翼は愛国心を敵視する。
 アメリカにおいてリベラルは、国家による経済への関与を肯定する思想として発展しました。そこには貧困で苦しむ同胞を見捨てることを不正義と考えるナショナリズムが横たわっています。ですからリベラルは決して愛国心を敵視しません。その強制をしないだけです。
 これに対して資本主義国家の打倒を目的とする左翼は愛国心そのものを敵視します。日教組は全教に牛耳られていた学校現場を知らない井上氏は、君が代斉唱の起立や伴奏を拒否する教師をリベラリズムの立場から擁護しますが、左翼組合が事実上支配していた学校でただ1人国歌を歌った私は、国旗国歌を否定する教師は「国旗国歌を敵視し、同僚にも不起立と不歌唱を事実上強要する左翼」であると断言します。日本人がクレバーになって左翼が少数派になって以降、リベラルに擬態して「戦争で使われた日の丸(国旗)は血に染まり、天皇崇拝の君が代(国歌)は民主主義の敵だ」から「国旗国歌の強制はよくない」と主張を変えただけなのです。
・リベラルは社会的弱者を救うが、左翼は社会的弱者を利用する。
 政治的リベラルは、大恐慌で苦しむ人々を見て自由を再定義したことに端を発するので、リベラリストにとって社会的弱者を救おうという課題は存在意義そのものです。これに対して左翼はプロレタリアートの憎悪こそが革命の言動力であり福祉は資本主義の延命策と捉えています。彼らにとって経済的弱者は大衆の政府憎悪を掻(か)き立てる道具にすぎません。

【『左翼老人』森口朗〈もりぐち・あきら〉(扶桑社新書、2019年)】

 一々納得できる解説である。森口が示した基準に当てはめると日本人の大半は「尊皇リベラル」と言ってよさそうだ。日本には奴隷が存在しなかったし、諸外国のような厳格な身分制もなかった(江戸時代の士農工商は兵農分離→職業世襲制)。

 前々から不思議に思っていたことがある。16万年前にミトコンドリア・イブから誕生したヒトは4万年前に極東の日本に辿り着いた(その後、アリューシャン列島を渡り北米~南米へ)。にもかかわらず世界最古の国で、更に世界最古の磨製石器、釣り針、土器、漆器、木造建築、木造塔、印刷物、企業、宿泊施設、商品取引所(先物取引)などがあることだ。少し前にはたと思い至った。アフリカから最も遠い地域へやって来た我々の祖先は進取の気性に富み、探検精神が旺盛であったことだろう。あるいは土地を追われてきた可能性もあるが、逃げるだけでは日本まで辿り着けまい。協力、協同、協働といった和の精神も自然と形成されていったのだろう。それぞれの土地で環境に適応する中でモノづくりのDNAが受け継がれていったに違いない。

 日本人がクリスマスやハロウィンなどの異文化をあっさりと受け入れるのも、長い旅路を通して排除よりも寛容に重きを置いたためだろう。世界でも稀な温暖湿潤気候が穏やかさを培い、世界一多い自然災害が淡白さを育てたのだろう。

「弱きを助け強きを挫く」「情けは人の為ならず巡り巡って己(おの)が為」「一寸の虫にも五分の魂」という諺(ことわざ)こそ日本の民族精神を表すものだ。「惻隠の心は仁の端なり」(孟子)。もののあはれを知らなくとも、児童の世界で「可哀想だろ!」という言葉は生きているはずだ。社会民主主義というよりは共同体民主主義が日本の伝統か。

 世界で初めて人種差別の撤廃を提唱したのも日本であった(1919年、『人種差別から読み解く大東亜戦争』岩田温)。これこそ真のリベラルであろう。

2021-07-26

左翼とは何か/『左翼老人』森口朗


『「悪魔祓い」の戦後史 進歩的文化人の言論と責任』稲垣武
『こんな日本に誰がした 戦後民主主義の代表者・大江健三郎への告発状』谷沢永一
『悪魔の思想 「進歩的文化人」という名の国賊12人』谷沢永一
『誰が国賊か 今、「エリートの罪」を裁くとき』谷沢永一、渡部昇一
『いま沖縄で起きている大変なこと 中国による「沖縄のクリミア化」が始まる』惠隆之介
『北海道が危ない!』砂澤陣
『これでも公共放送かNHK! 君たちに受信料徴収の資格などない』小山和伸
『ちょっと待て!!自治基本条例 まだまだ危険、よく考えよう』村田春樹
『自治労の正体』森口朗
『戦後教育で失われたもの』森口朗
『日教組』森口朗

 ・左翼とは何か
 ・「リベラル」と「左翼」の見分け方
 ・マルクス思想の圧倒的魅力

・『売国保守』森口朗
『愛国左派宣言』森口朗
『知ってはいけない 金持ち 悪の法則』大村大次郎

必読書リスト その四

 本書は、1人でも多くの高齢者が「左翼」であることを悔い改め、死にゆく前に祖国日本の発展に貢献していただくために書いた本です。
 ですから、その大前提として「左翼」とは何かを明らかにしておかなければなりません。ただし、定説と呼べるほどの学説はないので、これから述べることは、あくまで本書における「左翼」であることをお断りしておきます。
 人々の政治スタンスは、基本的に「左翼」「左派」「中道」「右派」「右翼」に大別できると考えられています。新聞や地上波テレビなどのオールドメディアでは、これらがあたかも連続的であるかのごとく伝えられていますが、「左翼」「右翼」と「左派」「中道」「右派」の間には大きな断絶があると考えるべきです。
 現在の日本は、「主権国家を基本とする国際秩序」の中で、「資本主義という経済システム」と「間接民主制と権力分立を基礎とする政治システム」を採用していますが、これらのいずれかを、抜本的に破壊・変更しようとする勢力が「左翼」「右翼」であり、これらの枠組みの中で自分が大切と考える価値を実現しようと考えるのが「左派」と「右派」(「左派」は平等、「右派」は自由)、常に双方のバランスを取ろうとするのが「中道」です。
 左翼思想の中で最も強力なものは言うまでもなくマルクス思想ですが、これは理念的には「主権国家を基本とする国際秩序」「資本主義という経済システム」「間接民主制と権力分立を基礎とする政治システム」のすべての破壊を目指す思想です。

【『左翼老人』森口朗〈もりぐち・あきら〉(扶桑社新書、2019年)以下同】

 実にわかりやすい図式である。森口の価値観を踏襲すると政治イデオロギーとは「異なる意見に対する態度」にあるのだろう。左翼と右翼は原理主義で、中道両派は共に生きるという点において町内会的関係(歩み寄り≒妥協)が窺える。

 もっと驚いたのは自分が左派であることに気づかされた(笑)。っていうか私は元々リベラルのつもりだったんだよね。10年ほど前までは。なぜ右派でないのかというと、官僚支配が横行する日本の資本主義制度で自由競争の実現はあり得ないと考えているためだ。

 マルクス思想は元来過激な思想ですから、それを信じる人々の行動が先鋭的になりがちです。マルクス思想を基礎にしてソビエト連邦(以下「ソ連」)という悪夢のような帝国を創り上げたレーニンは、過激な行動をする人やマルクスからさらに思想を先鋭的にする人々を「左翼小児病」と評しました。現在の老人たちが若かりし頃、日本ではマルクス・レーニン思想が大流行したのですが、レーニンの左翼小児病への警鐘は届かなかったのか、多くの人がこの病も併発していました。そして、数十年経った今でも、若かりし時の症状が出てしまうのです。
 左翼小児病は、大学に進学して学生運動をしていた人たちだけが罹(かか)った訳ではありません。学校教育やオールドメディアの宣伝(プロパガンダ)を通じて、あの時代を生きた大多数の人が感染していた病と言っても過言ではないのです。そして、この左翼小児病の後遺症から私たち日本人、とりわけ老人たちはいまだに自由になっていません。左翼小児病の困ったところは、自分が幸せになれないだけでなく、周りの人までも不幸にする点ですが、それは本書で詳述します。
 左翼小児病の主な症例としては次のようなものがあります。
「主権国家を基本とする国際秩序」を否定するのがマルクス思想ですから、彼らは主権国家に住む住人の基本道徳である愛国心を忌み嫌います。また、暴力で主権国家を乗っ取る(彼らが言うところのプロレタリア革命)のが当面の目標ですから、それを妨げる自衛隊や警察にも敵意をむき出しにします。
 彼らは「資本主義という経済システム」こそが貧富の格差をつくっていると確信しているので、大企業や金持ちを目の敵(かたき)にし、それを公言して恥じません。ただし、大企業に勤務していた方は大企業全体が悪いのではなく自分がなれなかった地位の人(ヒラ社員で終わった人なら管理職以上、部課長で終わった人は経営層の人たち)だけを悪者と捉(とら)え、1000万円以上の給与を得ていた方は倒すべき金持ちは年収3000万とか5000万といった超富裕層だけとします。また、労働運動を労働条件改善のためではなく、社会主義政権樹立のための道具だと考えているので、本来の活動に使うべき組合費を、政治活動に費やすことにためらいがありません。
 さらに「間接民主制と権力分立を基礎とする政治システム」は偽りの民主主義だと考えているので選挙結果で左翼政党が支持されなかった時は「民意」は別にあると考えます。

 左翼小児病に該当するのは、創価学会を始めとする日蓮系新興教団、エホバの証人統一教会ヤマギシ会なども同様だ。彼らは既成の社会秩序を否定することで自分たちの正義を鼓吹する。家族や友人たちとの関係をズタズタにするところにささやかな殉教精神を見出す。むしろ過去の人間関係を断絶するのがイニシエーション(通過儀礼)となっている。

 端(はな)から政権を取る気のない立憲民主党や共産党も左翼小児病と考えてよい。彼らは責任がないから理想を語れるのだ。ま、小学生が将来の夢を発表するようなものだ。ただし厄介なのは理想を語りながら伝統的な価値観の破壊を目論むところだ。女系天皇や夫婦別姓、あるいは在日外国人や女性の権利など、ポリティカルコレクトネスの概念に基づいて弱者を擁護するポーズを示す。

 民主党政権の失敗以降、左翼が民意を勝ち取ることができない政治状況に業を煮やして、佐藤優池上彰あたりが本音を漏らし始めた。佐藤優はラジオ番組などで一貫して民主党政権を援護射撃してきた人物である。その後創価学会に急接近する。

 それにしても暴力革命を成し遂げ、粛清と大虐殺を断行したレーニンが心配する「先鋭」とは、常人が考えるそれとは別次元のものだろう。

「20歳の時にリベラルでなければ情熱が足りない。40歳の時に保守主義者でなければ思慮が足りない」とはチャーチルのよく知られた言葉であるが、リベラルを左翼と誤訳する向きも多い。地位もカネもない若者が「世の中を変えたい」と望むのは尊いことだが、その感情を利用して破壊へと誘(いざな)うのが左翼である。若さには破壊への衝動もある。例えば団塊ジュニア(1970年代生まれ)の琴線に触れる政策を示すことができれば、彼らを左翼に取り込むことは容易であったはずだ。いつの世代も社会に対する負の感情を抱いているものだが、彼らが受けた仕打ちは目に余るものがあった。就職面接会場でテロが頻発してもおかしくはなかった。彼らは政治の犠牲者であった。

 日本は世界最古の国である。この国に革命は馴染まない。もしも政権が代わり得るとすれば天皇陛下を中心に据えた社会民主主義政党であると推測する。

2021-07-22

運動によって脳は物理的に変えられる/『一流の頭脳』アンダース・ハンセン


『病気の9割は歩くだけで治る! 歩行が人生を変える29の理由 簡単、無料で医者いらず』長尾和宏
『病気の9割は歩くだけで治る!PART2 体と心の病に効く最強の治療法』長尾和宏
『ウォーキングの科学 10歳若返る、本当に効果的な歩き方』能勢博
『本当のナンバ 常歩(なみあし)』木寺英史
『健康で長生きしたけりゃ、膝は伸ばさず歩きなさい。』木寺英史
『常歩(なみあし)式スポーツ上達法』常歩研究会編、小田伸午、木寺英史、小山田良治、河原敏男、森田英二
『トップアスリートに伝授した 勝利を呼び込む身体感覚の磨きかた』小山田良治、小田伸午
『間違いだらけのウォーキング 歩き方を変えれば痛みがとれる』木寺英史
『ランニングする前に読む本 最短で結果を出す科学的トレーニング』田中宏暁
『サピエンス異変 新たな時代「人新世」の衝撃』ヴァイバー・クリガン=リード
『脚・ひれ・翼はなぜ進化したのか 生き物の「動き」と「形」の40億年』マット・ウィルキンソン
『アルツハイマー病は治る 早期から始める認知症治療』ミヒャエル・ネールス
・『脳を鍛えるには運動しかない! 最新科学でわかった脳細胞の増やし方』ジョン・J・レイティ、エリック・ヘイガーマン

 ・運動によって脳は物理的に変えられる

『ウォークス 歩くことの精神史』レベッカ・ソルニット
『トレイルズ 「道」と歩くことの哲学』ロバート・ムーア

必読書リスト その二

 だが何より大きな発見は、2つのグループがまったく異なる結果を示したことである。
 ウォーキングを1年間続けた被験者たちは健康になったばかりでなく、脳の働きも改善していた。MRIの画像は、脳葉の連携、とくに側頭葉と前頭葉、また側頭葉と後頭葉の連携が強化されたことを示していた。
 簡単にいえば、脳の各領域が互いにより協調しながら働いていたということだ。脳全体の働きが1年前より向上していたのである。身体を活発に動かしたこと、つまり【ウォーキングが、何らかの作用によって脳内の結合パターンによい影響を与えた】のだ。

【『一流の頭脳』アンダース・ハンセン:御舩由美子〈みふね・ゆみこ〉訳(サンマーク出版、2018年)】

 読みやすい上に一分の隙(すき)もない良書である。説明能力の高さそのものがスタイルを確立している。科学が絶対なのではなく、科学的解釈に説得力があるということがよくわかった。

 記憶力や認知機能に関しては筋トレよりも有酸素運動の方が効果があり、ウォーキングよりもランニングが優(まさ)るとのこと。要は「狩猟採集生活に還れ」ということだ。1万年前と同じ狩猟採集生活を送る東アフリカ・タンザニアのハッザ族は一日に8~10km(1万1000~1万4000歩)歩いている。これが一つの目安となろう。

 収穫はそれだけではなかった。おそらく、こちらのほうが重要である。
 それは定期的なウォーキングが、実生活にもプラスの効果をおよぼす脳の変化をもたらしたことだ。心理テストの結果、「実行制御」と呼ばれる認知機能(自発的に行動する、計画を立てる、注意力を制御するといった重要な機能)が、ウォーキングのグループにおいて向上していたことがわかったのである。
 要するに、【身体を活発に動かした人の脳は機能が向上し、加齢による悪影響が抑制され、むしろ脳が若返る】と判明したのだ。

 ここで一旦、これまで読んだことを振り返り、もう一度じっくり考えてほしい。
 ランニングで体力がつく、あるいはウェイトトレーニングで筋肉が増強できることは知っているはずだ。それと同じく、【運動によって脳は物理的に変えられる】。
 脳の変化は、現代の医療技術で測定することができるので、そのことは確認済みだ。脳を変えれば、認知機能を最大限まで高められることもわかっている。

 まずは買い物を狩猟と捉え直すことを提案したい。一日三食摂っている人であれば三度買い物に行ってはどうだろう? 休日であれば遠くのスーパーに出向くのもいいだろう。勤め人であれば一つ手前の駅やバス停で降りて歩くことを心掛ける。もちろんエスカレーターやエレベーターは利用せず階段を上る。それだけでどんな薬やサプリメントよりも効果がある。

 ではなぜ、そんな素晴らしいことが広まらないのだろうか? もちろんカネだ。製薬会社やメーカーは儲からないため手をつけない。そして驚くべきことに消費者側もまた対価を支払わないものに対して不信感を抱いている側面がある。つまりマネーという手段を経なければコミュニケーションが成立しなくなっているのだろう。消費者はカネを支払うことで満足感を得ているのだ。

 広く知られたプラセーボ効果に「高価な薬は100%効く」というのがある。偽薬であっても高いカネを支払えば、霊験(れいげん)あらたかな妙薬と化すのだ。金銭に対する我々の信頼は既に信仰の高みにまで至っている。

2021-07-15

自然派志向は老化を促進する/『若返るクラゲ 老いないネズミ 老化する人間』ジョシュ・ミッテルドルフ、ドリオン・セーガン


・『利己的な遺伝子』リチャード・ドーキンス
・『盲目の時計職人』リチャード・ドーキンス
・『遺伝子の川』リチャード・ドーキンス
・『赤の女王 性とヒトの進化』マット・リドレー
・『ゲノムが語る23の物語』マット・リドレー
・『やわらかな遺伝子』マット・リドレー
『遺伝子 親密なる人類史』シッダールタ・ムカジー

 ・自然派志向は老化を促進する

身体革命
必読書 その五

 わたしたちのほとんどは、「自然派志向」の商品がブームになる以前の時代を思い起こすことができない。しかし、50年前にはテクノロジーが王様で、わたしたちは自然を改良することになんの良心の呵責(かしゃく)も感じなかった。1950年代、子供はまだ幼い頃に扁桃腺(へんとうせん)を切られた。喉頭感染症のときに赤くなる傾向があるため、医師は自然がミスを犯したと考えたのだ。1950年代、スポック博士は母乳よりも乳製品を推奨していた。もちろん、「12の方法で体を強くする」と宣伝されたワンダーブレッドも忘れてはならない。
 その後の半世紀にわたって、わたしたちは自然食品や化粧品、石鹸、漢方薬、さらには自然素材の洋服などを勧められてきた。自然=健康。医学界は――とても立派なことに――体の働きを第一に考えることを学び、壊れてもいないものをあわてていじくりまわすのではなく、体に協力して自然治癒を推奨するようになった。こんにち、あらゆる病気に対する自然療法は、それが可能であるときはより好ましいと見なされている。
 そこまではいい。しかし、つぎのステップに進むには、すこし考える必要がある。わたしたちは老化に関するべつの現実に順応しなければならない。自然食や天然のハーブ、自然療法などは、老化を防ぐとは思えない。
 本書は「老化は進化のプログラムの欠陥ではなく、自然に正しく選択された設計特性である」と主張してきた。老化はごく深い意味において“自然”なものであり、進化によって生みだされ、遺伝子に組みこまれたものなのだ。
 自然なものへの崇拝は、そもそも進化への信仰から生まれたものだ。自然なものとは、わたしたちの祖先である生物や人間が進化してきた環境の一部である。ゆえに、わたしたち地震も自然なものに適応していると考えられる。自然食がよいものだとすれば、それは進化がわたしたちの体に合わせて授けた食物だからだ(この論理をさらに推し進めると、原始時代の食事をそっくりそのまま再現しようとする「パレオ・ダイエット」に行きつく)。自然選択はジェット機時代の生活のペースや、スモッグを吸いこんだりコカ・コーラを飲んだりする生活に合わせて人間をつくったわけではない。とすれば、現代生活の不満の多くは、わたしたちが送っている生活と、進化がわたしたちに準備した生活がマッチしていないことから起こるのではないか?
 そして実際、わたしたちの病気の多くが現代という時代の産物であるのは正しいように見える――喫煙や都会のスモッグによる肺癌、ジャンクフードによるメタボリック・シンドローム(脂肪の増加、高血圧、高血糖といった要因による2型糖尿病)、過剰な刺激による神経病、分裂した社会に生きることからくる鬱病。

 人は金をかけて使うことばかりにあくせくし、
 自分たちを取り巻く自然に目を向けようとしない。

 詩人のワーズワースがこの一節を書いたのは、1802年のことだ! 21世紀のわたしたちの生活モードを見たら、ワーズワースはなんというだろうか? 現代の西欧文明が生んだ孤独によって人間が負った傷、化学汚染、レトルト食品、人間の心理的欲求やバイオリズムを無視して押しつけられたスケジュール――これらはすべてすごくリアルで有害だ。しかし、老化とはあまり関係がない。
 老化は現代社会が生んだ疾病ではない。きのう生まれたものではなく、古くから伝わってきたものだ。19世紀の人々の写真を見たり、ヴィクトリア時代の小説に描かれた人たちの年齢を考えてみればいい。こうした人たちは、タバコや農薬やジャンクフードやコミュニティの崩壊以前の世界を生きていた。こんにちの標準からすれば、19世紀の人たちはみな自然食を食べていたにもかかわらず、現代の同年齢の人間より、容姿も感覚もふるまいもずっと年寄りじみている。19世紀の小説では、40代の登場人物はバイタリティを失っているし、50代の登場人物は現代の老人のように描かれている。そしてもちろん、当時は60代まで生きる人はごくまれだった。19世紀の平均余命はいまよりずっと短かったのだ。これは、出産で命を落とす母親が多かったとか、壮年の人々が伝染病で死ぬことが多かったとかいった理由からではない。当時の人たちは、現代のわたしたちが人生の最盛期と考えている年齢で、すでに健康を害し、バイタリティを失い、認知機能が低下していたのである。

 自然が体にいいという説は、「進化はわたしたちを組み立てるにあたって、最高の健康が得られるように設計したはずだ」という考えに由来する。「自然食を摂取することは、自然選択によって設計されたとおりに体を機能させる手助けをしていることであり、わたしたちは一歩うしろの退いて、体がわたしたちを癒すためにしていることを勝手にやらせたほうがいい」――この仮定は、若者の病気にはよく合致する。しかし、本書をここまでお読みになった方なら、老化は遺伝子に組み込まれた自己破壊プログラムであることを理解しているはずだ。この場合、体は自分を癒すためにベストをつくしたりはしない――それどころか、反対に自分自身に対して害をなすことをしている。
 自然食や自然療法は、体が自分自身を破壊する手助けをするのである。

【『若返るクラゲ 老いないネズミ 老化する人間』ジョシュ・ミッテルドルフ、ドリオン・セーガン:矢口誠訳(集英社インターナショナル、2018年)】

 マット・リドレーを読んだのは2年前である。まだ書評を書いていなかったとは……。小難しい本を後回しにするのは悪い癖である。

 本書はネオダーウィニズム批判を旨としており、読みやすい上に豊富なトピックで飽きさせることがない。訳文も平仮名の多用で読むスピードに配慮している。ドリオン・セーガンはカール・セーガンの息子。

 文句なしの面白さだが結論に異議あり。寿命を伸ばすことに固執しすぎだ。もっときれいにスパッと死ぬ準備をするのが進化の道理だろう。

 そもそも健康を意識すること自体が不健康な証拠である(三木清)。菜食主義者は植物の毒を省みることがない。そういう意味では健康もスタイルと化した感がある(石川九楊)。

 19世紀どころの話ではない。磯野波平が54歳と知った時の驚きは今でもありありと覚えている。当時私は52歳だった。『サザエさん』の連載が始まったのは昭和21年(1946年)のこと。昭和40年代あたりまでは特に違和感がなかったように思う。つまり年寄りが若々しくなったのは終戦前後に生まれた世代と考えてよさそうだ。

 栄養学が散々デタラメを流布してきたのも戦後の特徴である。しかしながら、その一方で平均寿命は確実に伸びた。私が二十歳(はたち)の時分は30代の女性が熟女で、40代は年増(としま)と呼称していた。ところが今時と来たら、40代で結婚したり出産することは特段珍しくない。バブルの頃は女性の年齢がクリスマスケーキになぞらえ、26歳になると「売れ残り」みたいな言われ方をしていた。

 社会全体が高齢化することで周囲から「年寄り扱い」をされることが少なくなったのが最大の要因かもしれない。

「19世紀はヨーロッパ――とくに英国――の時代で、地主階級が存在の正当性を失いつつあるときだった。地主階級はその特権的な地位を正当化するために、社会ダーウィニズムの原理に飛びついた」。私の乏しい知識ではネオダーウィニズムと社会ダーウィニズムの違いもよくわからない。

 マット・リドレーを読むとどことなく新自由主義と同じ体臭がする。以前からネオダーウィニズムを批判している人物に養老孟司と池田清彦がいる。灯台下暗しであった。

2021-06-28

道の本質はその機能にある/『トレイルズ 「道」を歩くことの哲学』ロバート・ムーア


『病気の9割は歩くだけで治る! 歩行が人生を変える29の理由 簡単、無料で医者いらず』長尾和宏
『病気の9割は歩くだけで治る!PART2 体と心の病に効く最強の治療法』長尾和宏
『ウォーキングの科学 10歳若返る、本当に効果的な歩き方』能勢博
『サピエンス異変 新たな時代「人新世」の衝撃』ヴァイバー・クリガン=リード
『アルツハイマー病は治る 早期から始める認知症治療』ミヒャエル・ネールス
『一流の頭脳』アンダース・ハンセン
『ウォークス 歩くことの精神史』レベッカ・ソルニット

 ・道の本質はその機能にある
 ・長距離ハイキング
 ・よいデザインはトレイルに似ている

『ランニング王国を生きる 文化人類学者がエチオピアで走りながら考えたこと』マイケル・クローリー
『動物たちのナビゲーションの謎を解く なぜ迷わずに道を見つけられるのか』デイビッド・バリー
『脚・ひれ・翼はなぜ進化したのか 生き物の「動き」と「形」の40億年』マット・ウィルキンソン
『「体幹」ウォーキング』金哲彦
『高岡英夫の歩き革命』、『高岡英夫のゆるウォーク 自然の力を呼び戻す』高岡英夫:小松美冬構成
『あらゆる不調が解決する 最高の歩き方』園原健弘
『あなたの歩き方が劇的に変わる! 驚異の大転子ウォーキング』みやすのんき
ナンバ歩きと古の歩術
『表の体育・裏の体育』甲野善紀
『ナンバ走り 古武術の動きを実践する』矢野龍彦、金田伸夫、織田淳太郎
『ナンバの身体論 体が喜ぶ動きを探求する』矢野龍彦、金田伸夫、長谷川智、古谷一郎
『ナンバ式!元気生活 疲れをしらない生活術』矢野龍彦、長谷川智
『本当のナンバ 常歩(なみあし)』木寺英史
『健康で長生きしたけりゃ、膝は伸ばさず歩きなさい。』木寺英史
『常歩(なみあし)式スポーツ上達法』常歩研究会編、小田伸午、木寺英史、小山田良治、河原敏男、森田英二
『スポーツ選手なら知っておきたい「からだ」のこと』小田伸午
『トップアスリートに伝授した 勝利を呼び込む身体感覚の磨きかた』小山田良治、小田伸午
『間違いだらけのウォーキング 歩き方を変えれば痛みがとれる』木寺英史
・『間違いだらけのウォーキング 歩き方を変えれば痛みがとれる』木寺英史

身体革命
必読書リスト その五

 アパラチアン・トレイルを歩ききったあとも、その疑問はついて回った。それらに駆りたてられ、また新しい知の地平に導いてくれるかもしれないという思いもあって、わたしは道の意味についてのさらなる探究を始めた。数年かけてその疑問を追いかけるうちに、さらに大きな疑問が浮かびあがってきた。そもそも動物はなぜ動くようになったのだろう? 生物はどのようにして世界を認識するようになったのだろう? なぜ先導する者とあとについていく者がいるのか? わたしたち人間はどのようにして、現在のように世界をつくりかえたのか? やがて、道が地球上で欠かせない行き先案内の役割を果たしていることがわかってきた。小さな細胞からゾウの群れまで、あらゆるサイズの生き物が、道をよりどころにして圧倒的な数の選択肢からすばやく一本のルートを選んでいる。もし道がなかったら、わたしたちは迷子になってしまうだろう。

【『トレイルズ 「道」を歩くことの哲学』ロバート・ムーア:岩崎晋也〈いわさき・しんや〉訳(エイアンドエフ、2018年)以下同】

 そっと胸に抱きたくなるような本である。歩くという行動が思弁に傾くことを抑えて、脳の深層を活性化させているのだろう。クリシュナムルティの名前の出し方も上手い。「真理は途(みち)なき大地である」(『クリシュナムルティ・目覚めの時代』メアリー・ルティエンス)。ゆえに我々は辿り着くことができない。クリシュナムルティは道すら示さなかった。

 どうやら、道が道であるためには土や岩が不可欠というわけではないらしい。道はむしろ空気のように実体がなく、永続せず、流動的なものだ。道の本質はその機能にある。そして、使い手の必要に応じて変化しつづける。人は開拓者を称えるものだ。彼らは屈強な精神を持ち、比喩的にも現実にも、未知の領域を切り拓いていく。だが、あとに続く者たちもまた道ををつくるうえでそれに劣らぬ重要な役割を果たしている。不要な曲がり角を削り、通るたびに道を改善する。道が、詩人ウェンデル・ベリーの言う「経験し、慣れ親しむことによって、動きが場所にぴったりと適合する」状況になるのは、これらの人々の行動のおかげだ。それまでのやり方がうまくいかなくなり、途方にくれたときには、視線を下げ、足元にある見落とされがちな知恵を思えばいい。

 これらのテキストが興味深いのは、まるで仏教の変遷を描写しているように見えるためだ。民族性や歴史性、はたまた気候や食料、そしてそれらが時間をかけて形成した文化がブッダの教えに変化を与えたことだろう。それをよしとしてしまえば教えはプラグマティズムに堕すると私は考える。

「道の本質はその機能にある」という言葉が「筏(いかだ)の譬え」を髣髴(ほうふつ)とさせる。ただし、悟りに至る「道」や「岸」が遠くにあると私は思わない。ゆえに手段(修行)に拘泥すると目的地を見失う。



長距離自然歩道 - Wikipedia
NATS 自然大好きクラブ |長距離自然歩道を歩こう!
NATS 自然大好きクラブ|長距離自然歩道を歩こう!|首都圏自然歩道
東海自然歩道連絡協会公式サイト

2021-06-10

1600年を経ても錆びることのないデリーの鉄柱/『人はどのように鉄を作ってきたか 4000年の歴史と製鉄の原理』永田和宏


鋼の庖丁を選べ
鉄フライパンの焼き直し

 ・1600年を経ても錆びることのないデリーの鉄柱

『森浩一対談集 古代技術の復権 技術から見た古代人の生活と知恵』森浩一

 インドのデリー市郊外の世界遺産クトゥプ・ミナールに、紀元4世紀に仏教国のグプタ朝期に建てられた鉄柱がある。直径42cm、高さ地上7m、重さ約7tで約1mは地中に埋まっていと言われている。鉄の純度は99.72%で、約1600年経つがほとんど錆が進行していない。このような大きな鉄の構造物を作った当時の技術はどのようなものであったであろうか。
 一方、我が国では、1400年前に建てられた法隆寺の修理の際、和釘が見つかっている。その和釘の表面は黒錆で覆われているが錆は進行しておらず、曲がりさえ直せば再度使えると言われている。1779年に作られた英国のアイアンブリッジや、1889年に完成したフランスのエッフェル塔も健在で、これらは前近代的製鉄法で製造された銑鉄(せんてつ)や錬鉄(れんてつ)でできている。

【『人はどのように鉄を作ってきたか 4000年の歴史と製鉄の原理』永田和宏〈ながた・かずひろ〉(ブルーバックス、2017年)】

「グプタ朝期に建てられた鉄柱」とはデリーの鉄柱である。一般的にアショーカ・ピラーと呼ばれているようだが誤り。アショーカ王碑文が認(したた)められているのは摩崖・洞窟・石柱である。

 また錆びない理由については「『純度の高い鉄製だから』という説明がされることがあるが、これは誤りである。(中略)1500年の間風雨に曝されながら錆びなかった理由は、鉄の純度の高さではなくむしろ不純物の存在にあるという仮説が有力である」(Wikipedia)。永田の記述はギリギリのところで踏みとどまっている。

法隆寺 千年の釘 – MAQ設計事務所

 デリーの鉄柱同様、黒錆が美しい。

 人の寿命を超えるものに惹かれるのは永遠への憧れもさることながら、エントロピー増大則に反するあり方そのものが面白いのだろう。その意味では生物の方がずっと面白いわけだが。

 新石器は青銅器を経て鉄器に至った。鉄器は生産性を爆発的に増加させ、都市の形成につながる。枢軸時代の思想革命も鉄器による余剰と余暇が生んだものと武田邦彦は指摘している。

 永田和宏については、『学問の自由が危ない 日本学術会議問題の深層』(晶文社、2021年)に名を連ねているところを見ると、評価できる人物ではなさそうだ。

2021-05-31

同じ走行距離を望むならガソリンの15倍もの重さのバッテリーを積む必要がある電気自動車/『「水素社会」はなぜ問題か 究極のエネルギーの現実』小澤詳司


『自動車の社会的費用』宇沢弘文
『リサイクル幻想』武田邦彦

 ・同じ走行距離を望むならガソリンの15倍もの重さのバッテリーを積む必要がある電気自動車

 前世紀の二つの世界大戦は、石油による石油のための戦争だった。自動車の技術を応用した兵器が実用化されて実戦で使われたが、そのために石油は不可欠の戦略資源となった。アジア太平洋戦争における日本の開戦と敗戦もまた石油と大きく結びついていた。
 敗戦後の日本は、朝鮮戦争の特需をきっかけに、奇跡の経済成長を遂げる。その牽引役の一つが自動車産業であった。日本の自動車メーカーのいくつかは、軍需産業の解体から出発した。

【『「水素社会」はなぜ問題か 究極のエネルギーの現実』小澤詳司〈おざわ・しょうじ〉(岩波ブックレット、2015年)以下同】

 ブックレットという判型はあまり好きじゃないが本書はおすすめできる。

(※『Who Killed The Electric Car?(誰がその電気自動車を殺したのか?)』(監督:クリス・ペイン、ソニーピクチャーズ)の内容を紹介し)スチュードベイカーエレクトリックからEV-1に至るまで、市販されたEVは数多いが、いずれもベストセラーにもロングセラーにもなることはなく消えてしまった。効率がよくクリーンで静かで運転もしやすいのに、EVはなぜ受け入れられないのか。
 それはガソリン車と比べてみるとよくわかる。ガソリン自動車は燃料としてガソリンをタンクに積む。EVは同じように電気をバッテリーに充電する。ガソリンの発熱量は1リットルあたり約8000キロカロリー=9300ワット時。これを40-50リットルのタンクに積むと、車種や走行条件にもよるが、フルタンクで400-500キロメートル走り続けることができる。
 一方、バッテリーに充電できる電力量を体積(リットル)あたりでみたエネルギー密度は、鉛バッテリーが40-100ワット時、ニッケル水素バッテリーが100-300ワット時、リチウムイオンバッテリーでも300-600ワット時ほどである。リチウムイオンバッテリーであってもガソリンの15分の1から30分の1でしかない。さらに重量あたりのエネルギー密度で比べると、ガソリンのわずか2%以下だ。つまりガソリン自動車と同じ航続距離(1フル充電あたりの走行距離)を稼ごうとすると、エンジン効率とモーター効率の差を考えても、ガソリンの15倍もの重さのバッテリーを積まなくてはいけないことになる。また、その充電にも長い時間がかかる。これは非現実的だ。
 このバッテリーの性能問題が電気自動車の最大のウィークポイントであり、その普及を妨げてきた理由なのである。

 同様のことは太陽光発電にも言える。10年分の太陽光電気代で太陽光発電パネルを作ることはできないだろう。所詮はコスト(費用)とベネフィット(便益)の問題である。私が知る限りでは武田邦彦が一番最初に、「国際的な脱炭素社会に向けた電気自動車への動きはトヨタ潰しである」と喝破した。要は欧米自動車メーカーがトヨタの技術に太刀打ちできない背景がある。競争に敗れれば、自分たちが有利になるようルールを変更するのが白人の流儀だ。

 いずれにしても電気を使うから、その電機をどうやってつくるかという問題がある。電気そのものが何らかのエネルギー源を使って起こさなければならない二次エネルギーだから、それによってつくる水素は三次エネルギー、その水素で起こす電気は四次エネルギーということになる。最初のエネルギー源が化石燃料であればCO2発生は免れないし、コストが大変高いものになる。

 私は電気に関する知識はそこそこあるので最初から気づいていた。いずれにせよ脱炭素への動きはグレートリセットを先取りするもので、世界の仕組みを変える意志を示したものだろう。

 自動車はそもそも過剰性能ではないのか。買い物や通勤・通学のために、最高時速180キロメートル、航続距離400キロメートル、4-7人乗りなどという性能が必要なのだろうか。PHVにせよFCVにせよEVにせよ、日常用途も休日のドライブも1台の車で満たそうとするのは欲張りすぎなのではないか。
 実は自動車と自動車中心社会がもたらす数々の問題を解決するうまい方法がある。それは自動車を小さく、軽く、そして遅くすることだ。自動車の消費エネルギーは、空気抵抗と転がり抵抗に大きく左右される。空気抵抗は速度の二乗に比例し、転がり抵抗は重さに比例する。つまり速度を遅く、重量を小さくすれば、それだけエネルギー消費が少なくてすむのである。
 実際、乗用車1台あたりの月間平均走行距離は380キロメートル、うち58%が300キロメートル以下である。すなわち、乗用車の6割近くは1日平均10キロメートル以下しか走っていないことになる。そして、8割以上が二人以下の乗用人数なのである。

 つまり自動車は税負担を増やすだけの道具と化したわけだ。二重三重の課税は完全な憲法違反である。

 それでも人々は移動の自由を欲する。国家も道路を整備してそれに応える。自動運転は運転する喜びを奪う愚行だ。

 効率を目指すのであれば路面電車を張り巡らすのが一番いいと思う。自動化も可能だろう。



2021-05-19

近代化と宗教/『文化的進化論 人びとの価値観と行動が世界をつくりかえる』ロナルド・イングルハート


『人間の本性について』エドワード・O ウィルソン
『文化がヒトを進化させた 人類の繁栄と〈文化-遺伝子革命〉』ジョセフ・ヘンリック
『反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』ジェームズ・C・スコット

 ・近代化と宗教

必読書リスト その四

 文化とは、その社会の生き残り戦略を構成する、一連の学習された行動である。

【『文化的進化論 人びとの価値観と行動が世界をつくりかえる』ロナルド・イングルハート:山崎聖子〈やまざき・せいこ〉訳(勁草書房、2019年)】

 痺れる。簡にして要を得た言葉が短刀の如く胸に突き刺さる。武士道といっても結局は適応化の一つなのだ。そう考えると社会・世間・コミュニティの影響力は想像以上に大きいことがわかる。部族であればしきたりだが、民族や国家にまでコミュニティが拡大すると、思考を束縛するだけの説得力が必要になる。真相は国家が文化を育むのではなく、文化の共有が国家を形成するのだろう。

 工業社会では、生産は屋内の人工的な環境へと移り、太陽が昇ったり季節が移り変わったりするのを受け身で待つこともなくなった。暗くなれば証明をつけ、寒くなれば暖房をつける。工場労働者は豊作を祈らない――生産を左右するのは人の創意工夫で作られた機械だ。病原菌と抗生物質の発見により、疾病さえも天罰とはみなされなくなった。病気もまた、しだいに人の手で制御が進みつつある問題の一つなのだ。
 人々の日常体験がこうも根本的に変わった以上、一般的な宇宙観も変わる。工場が生産の中心だった工業社会では、宇宙の理解も機械的な見方が自然に思えた。まずは、神は偉大なる時計職人で、いったん宇宙を組み立ててしまうと後はおおむね勝手に作動するに任せるという考え方が生まれた。ところが、環境に対する人の支配力が大きくなると、人々が神に仮託する役割は縮小していく。物質主義的なイデオロギーが登場して、歴史の非宗教的な解釈を打ち出し、人間工学で実現できる世俗の理想郷を売りこんでくる。知識社会が発展するにつれ、工場のように機械的な世界は主流ではなくなっていく。人々の生活体験も、形ある物よりも知識を扱う場面の方が多くなった。知識社会で生産性を左右するのは物的制約ではなく、情報や革新性、想像力となった。人生の意義や目的についての悩みが薄らいだわけではない。ただ、人類の歴史のほとんどを通じて大半の人々の人生を支配してきた生存の不確かさの下では、神学上の大難問など一握りの人にしか縁がなかった。人工の大多数が求めていたのはそんなことより、生き延びられるかどうか危うい世界で安心を与えてくれることであり、伝統的な宗教が大衆の心をつかんでいられたのも、主な動機はこれだった。

「工場労働者は豊作を祈らない――生産を左右するのは人の創意工夫で作られた機械だ」。近代化と宗教の図式を見事に言い当てている。文明とは環境のコントロールを意味する。そう考えると現代の先進国は幸福を獲得したと言ってもよさそうだ。ストレスや肥満なんぞは贅沢病なのだ。我々には今日、明日をどう生き延びるかという悩みはない。

 実は3分の1ほどで挫折した。いささか難解で読むスピードがどうしても上がらない。宗教社会学者にでも解説を願いたいところである。それでも必読書にした私の眼に狂いはないだろう。エドワード・O ウィルソン著『人間の本性について』とよく似た読書体験である。

2021-04-07

「自然豊かな日本」という思い込み/『森林飽和 国土の変貌を考える』太田武彦


 このように、これらの古写真が写している明治時代から昭和時代中期までの山地・森林の状況は、現在の日本の森林の姿とはまるで異なっていたということがわかるだろう。実はこれらの古写真は荒廃の激しいところを選んで集めたものではない。場所はどこでもよかったのである。1950年代以前の、背景に山が写っている普通の農村の写真ならば、現在のような豊かな森は見えていないはずである。このころ、日本の森のかなりの部分はとても森とは呼べないほど衰退し、劣化していたのである。

【『森林飽和 国土の変貌を考える』太田猛彦〈おおた・たけひこ〉(NHKブックス、2012年)以下同】

 上念司〈じょうねん・つかさ〉が『ニュース女子』で紹介していた一冊。上念の著書を読む気はないが内容を聞いてピンとくるものがあった。日本の国土は「約70%が山岳地帯で、その約67%が森林である」(Wikipedia)。ともすると「自然豊かな日本」という思い込みがあるが実は違う。戦前はハゲ山だらけだったというのだ。私が子供の時分、禿頭のことをハゲ山と呼ぶことがあったがこれもその名残りか。


近世から近代の日本で、都市近郊の山岳がほとんど禿げ山だったことはあまり知られていない - Togetter

 言い換えれば、江戸時代に生まれた村人が見渡す山のほとんどは、現在の発展途上国で広く見られるような荒れ果てた山か、劣化した森、そして草地であった。この事実を実感として把握しない限り、日本の山地・森林が今きわめて豊かであることや、国土環境が変貌し続けていることを正確に理解することはできないと思われる。

 例えば奈良の大仏(745-752年)、大量の刀剣を必要としたであろう戦国時代(15世紀末-16世紀末)、本格的な貨幣経済が始まった江戸時代など金属製造には膨大な薪(まき)が欠かせない。一言で申せば「貨幣鋳造と武器製造が森林を破壊する」のだ。

 ヨーロッパの場合は更に家畜文化が拍車をかけた(『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男)。ブタが芽を食(は)み、ヤギは根っこまで食べた。

 最も「自然豊かな日本」は現在の日本なのだ。ここでもう一つの思い込みを指摘しておこう。

「地球の肺」とも呼ばれる世界最大の熱帯雨林アマゾンで、記録的な森林火災が続いています。(中略)
 アマゾンは日本の国土の約15倍に及ぶ面積550万平方キロメートルで、ブラジルやペルー、コロンビアなど南米7カ国に広がり、地球上の熱帯雨林のおよそ半分に相当します。地球上の酸素の2割を生み出しているといわれ、多様な動植物が暮らす生物の楽園です。

「地球の肺」が呼吸困難 アマゾン火災、日本も関わりが:朝日新聞デジタル 2019年8月29日 8時30分】

 全くのデタラメだ。森林は地球の酸素供給に寄与していない。

 森林の大部分を占める植物は、たしかに二酸化炭素を吸収して光合成を行うが、同時に呼吸もして二酸化炭素を排出しているからだ。植物単体として見ると光合成の方が大きいこともある(その分、植物は生長する)が、森林全体としてみるとそうはいかない。(中略)
 もっとも大きいのは菌類だ。いわゆるキノコやカビなどは、枯れた植物などを分解するが、その過程で呼吸して二酸化炭素を排出する。
 地上に落ちた落葉や倒木なども熱帯ではあっと言う間に分解されるが、それは菌類の力だ。目に見えない菌糸が森林の土壌や樹木中に伸ばされており、菌が排出する二酸化炭素量は光合成で吸収する分に匹敵する。つまり二酸化炭素の増減はプラスマイナスゼロ。
 だから森林を全体で見ると、酸素も二酸化炭素も出さない・吸収しないのだ。酸素を供給し二酸化炭素を吸収する森は、成長している森だ。面積を増やす、あるいは植物が太りバイオマスを増加させている森だけである。

アマゾンは「地球の肺」ではない。森林火災にどう向き合うべきか(田中淳夫) - 個人 - Yahoo!ニュース

 だが、この20%という数字は、まったくの過大評価だ。むしろ、ここ数日で複数の科学者が指摘したように、人間が呼吸する酸素に対するアマゾンの純貢献量は、ほぼゼロと考えられる。

「アマゾンは地球の酸素の20%を生産」は誤り | ナショナルジオグラフィック日本版サイト

 自慢気に紹介しているが私も最近知った次第である。成熟した森林は酸素を供給しないし二酸化炭素も排出しない。これをカーボンニュートラルという。

 光合成に必要な太陽の光がとどくのは海面から70~80mぐらいですが、この海面に近いところに住む植物プランクトンや海藻によって、地球の酸素の3分の2がつくられています。

海の自然のなるほど 「酸素は海からもつくられる」

 自然界において遊離酸素は、光合成によって水が光分解されることで生じ、海洋中の緑藻類やシアノバクテリアが地球大気中の酸素70パーセントを、残りは陸上の植物が作り出している。

酸素 - Wikipedia

 進化の上でより下等な光合成を行うグループがあって(シアノバクテリアといいます)、それは地球上の大気に酸素をもたらしました。今、私たちが呼吸して酸素を吸っていますが、この酸素です。

藻類(そうるい)ってなんですか? | 東京薬科大学のブログ | エコプロ2019

 細菌の中には、他にも光合成を行うグループが存在するが (光合成細菌と総称される)、酸素発生型光合成を行う細菌は藍藻のみである。藍藻は、系統的には細菌ドメイン (真正細菌) に属する原核生物であり、他の藻類よりも大腸菌や乳酸菌などに近縁である。そのため、シアノバクテリア (藍色細菌) (英: cyanobacteria) とよばれることも多い。

藍藻 - Wikipedia

 これだけ日常的に平然と嘘を書き連ねる新聞を読む購読者が今もいることに驚く。彼らは何らかのファンタジーを必要としているのだろう。

2021-03-04

野生動物が家畜化を選んだ/『家畜化という進化 人間はいかに動物を変えたか』リチャード・C・フランシス


『人間の本性について』エドワード・O ウィルソン
『徳の起源 他人をおもいやる遺伝子』マット・リドレー
『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男
『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ
『文化がヒトを進化させた 人類の繁栄と〈文化-遺伝子革命〉』ジョセフ・ヘンリック
・『文化的進化論 人びとの価値観と行動が世界をつくりかえる』ロナルド・イングルハート

 ・野生動物が家畜化を選んだ

『人類史のなかの定住革命』西田正規
『反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』ジェームズ・C・スコット
『文明が不幸をもたらす 病んだ社会の起源』クリストファー・ライアン
『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』ユヴァル・ノア・ハラリ

 新石器革命が始まった当初、地球の人口は1000万だったと見積もられているが、いまや地球上には70億を超える人々が住んでいる。人口の爆発的な増加は、人間以外のほとんどの生物にとって災難でしかない。しかし、幸運にも家畜や作物としての身分を保障されている生物にとってはそうではない。家畜や作物はわたしたちとともに繁栄の道を歩んできたのである。新石器時代以降、生物の絶滅率は、それ以前の6000万年間に対して100~1000倍になっている。タルバン(ウマの祖先)やオーロックス(ウシの祖先)など、家畜化された動物の祖先(野生原種)の多くも新石器時代以降に絶滅した。だが、家畜のなかには絶滅したものはいない。ラクダやイエネコ、ヒツジ、ヤギについては、それぞれの野生原種は消滅の瀬戸際にいるが、家畜化された子孫たちは地球上の大型哺乳類のなかで最も多い部類に入るのである。進化という観点からすれば、家畜化されて損はなかったのだ。  だが、家畜の成功にはそれ相応の代償もある。進化の主導権を握られてしまうのだ。家畜や作物がどのように進化するか、その運命の支配権のかなりの部分を、人間は自然からもぎとってしまっている。そのため、家畜や作物は、進化の過程を理解するための多くの情報をもたらしてくれる存在になっているのである。実際、家畜や作物は非常にドラマチックな進化の実例なのだ。特殊創造説〔生物の種は天地創造の6日間に神が創造したものであり、それぞれの種はそれ以来変化していないという説〕の信奉者でさえも、オオカミからイヌへの変化は進化によるものであったことを、ある程度にせよ認めてはいる。家畜の作出では、特定の形質をもつ品種を作り出すために人為選択が行われる。ダーウィンは「自然選択」(自然による選択)と「人為選択」(人間による選択)はよく似た過程だと考えていた。だからこそ、イヌやハトの人為選択について、かなり注力して議論したのである。

【『家畜化という進化 人間はいかに動物を変えたか』リチャード・C・フランシス:西尾香苗〈にしお・かなえ〉訳(白揚社、2019年)以下同】

 新石器時代とは大雑把にいえば紀元前6000~紀元前3600年の牧畜・農耕を開始した時代である。紀元前9000年前という説もある。「イギリスの考古学者J.ラボックによって設定された時代名。打製石器に加えて磨製石器が出現し,土器も用いられた。気候が温暖となり,農耕,家畜飼育が行われた。人類は定住・集団生活に移り,ムラ国家を経て氏族国家を形成するようになる」(百科事典マイペディアの解説)。謂わばムラからクニ(≒階級社会)へと文明が階段を上った時代である。

 私は今まで野生の畸形化が家畜と考えてきた。その典型が座敷犬である。畸形同士を交配させることで小型化に成功したわけだ。ところがリチャード・C・フランシスの指摘は全く異なる様相を示している。家畜化とは共生系への移行らしい。

 世界には、牛約14億頭、豚約10億頭、羊約10億頭、鶏190億羽の家畜がいる。それに対し人口は68億人である。人間2人に対し、家畜1頭と鶏5羽の比率である。現在、地表面積の42パーセントが畜産業(家畜飼育の場所や家畜の飼料生産)に使われており、国連食糧農業機関(FAO)は「家畜は世界最大の土地利用者」であると述べている。例えば毎日グラス1杯の牛乳のためには650㎡の土地が必要であり、この面積は乳代替品(豆乳やライスミルク、アーモンドミルク)等と比較して10倍も高い。

Wikipedia

 食用作物41品目の収穫物として,世界全体で総計9.46×1015;(9.46兆)カロリーが生産された。この55%が人間の食用,36%が家畜飼料,9%がその他(工業利用やバイオ燃料)に利用された(表1)。飼料に利用された熱量の89%がロスされ,畜産物に保持されたのは12%,つまり,4%(36×0.12=4.32%)が人間の食料に変換されただけであった。換言すると,食用作物41品目中の熱量の59%(55%+4%)だけが,作物と畜産物として人間の食料として利用され,41%が非食用に利用されたりロスされたりしたことになる。

No.244 穀物を家畜でなく人間が直接食べれば,世界の人口扶養力が向上 | 西尾道徳の環境保全型農業レポート

 米は殆どが食用になっているが、小麦は2割、トウモロコシは6割が飼料用だ(PDF:世界の穀物需給の行方)。バイオ燃料は食い物を燃やすわけだから日本人からすれば罰当たりな話だ。

 本書でこれから見ていくように、多くの場合、家畜化過程をスタートさせるのは人間ではなく動物自身である。理由はさまざまだが、動物が人間のすぐそばで生活するようになるのが第一歩である。この自発的な人馴れ〔原語はself-taming」。2017年、国立遺伝学研究所が「人になつく動物の遺伝子領域を解明」と発表した。そのなかで、「自ら人に近づく」ことを「能動的従順性」としている。人間の近くに自ら近づいてきたオオカミには、この「能動的従順性」があったといえるだろう〕の過程は、主として通常の自然選択を通じて起こる。人間による意識的な選択、つまり人為選択が行われるのは、家畜化過程のもっとあとの段階である。

 衝撃の事実である。なぜこんな簡単なことに気づかなかったのだろう? 動物を無理矢理飼うことはできても慣れさせることは難しい。当初はゴミ漁りが目当てだったのだろう。やがてヒトが餌を与えると大人しく撫でられるようになった。更には自らヒトに体をこすりつけたのだろう。人間にとって犬は最良の友である(『ゴルゴ13』第130巻)。

 人間による選択がイヌの行動に及ぼした効果がドラマチックなのはいうまでもない。なかでも注目に値するのは、イヌが人間の意図を「読み取る」能力を進化させたという点だ。イヌは人間のジェスチャー、たとえば離れたところにある食べものを指さすなどの意味を理解する。野生のオオカミにはこんなことはできない。実際、人間の意図を読み取ることにかけては、人間に最も近い親戚であるチンパンジーやゴリラよりも、イヌのほうがよほど上手だ。ということはある意味、社会的認知に関しては、イヌのほうが大型類人猿(チンパンジー、ゴリラ、オランウータン)よりも人間に似通っているというわけだ。

 これまたビックリである。イヌとオオカミの脳の違いを調べて欲しいものである。「頭がよくなった」ということよりも「コミュニケーション能力を高めた」事実が重い。なぜならその方が圧倒的に進化的優位性が増すからだ。ここで一つ問題が浮かび上がる。高いコミュニケーション能力を進化とするならば、コミュニケーション能力が低い自閉症や発達障害をどう考えればいいのか? しかもイヌとのコミュニケーションは言葉を介さない。テンプル・グランディンは自らのアスペルガー症候群を『動物感覚』と表現した。知性は群れの形を変える。その先が今の私には見えてこない。

 ただ、野生動物が家畜化を選んだのが事実であるならば、人間が奴隷化の道を歩むのは必然と言えそうだ。



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2021-02-19

重商主義は世界商業の覇権をめぐる戦争の時代/『時計の社会史』角山榮


・『超訳「国富論」 経済学の原点を2時間で理解する』大村大次郎
『火縄銃から黒船まで 江戸時代技術史』奥村正二

 ・重商主義は世界商業の覇権をめぐる戦争の時代

『世界システム論講義 ヨーロッパと近代世界』川北稔

世界史の教科書
必読書リスト その四

 こうしてまず16世紀の世界を支配したのは、新大陸を発見したスペイン、および東洋への海上ルートを掌中に収めたポルトガルであった。ところが17世紀になると、世界史の舞台に登場したのはオランダとイギリスである。両者はスペイン・ポルトガルに代わって覇権をめぐって激しく争い、17世紀末にはルイ絶対王権を背景にフランスが一枚加わって、海上の覇権争いはいっそう熾烈となった。
 17世紀初めから18世紀中ごろにいたる時代は、経済史上これを重商主義とよんでいるが、重商主義という表現からくる平和な商業競争のイメージとはまったく異なり、オランダ、イギリス、フランス、スペインを中心に周辺諸国もまきこんで、世界商業の覇権をめぐって戦争につぐ戦争、海戦また海戦といった動乱の時代を迎えた。
 海上制覇を左右した要因はいくつかある。まず決め手になるのは、軍事力としての強力な海軍の保有である。だから各国とも軍艦の数、大きさ、備砲数、大砲の性能、造船技術に力を入れたことはいうまでもない。しかしこうした軍事力とは直接結びつかないまでも、各国とも解決を迫られていた共通の課題があった。しかもその解決が海上制覇にとって、ある意味で決め手になるような重要な課題を抱えていたのである。その難題というのは正確な経度の測定である。というのは、正確な経度が測定できなければ船の位置を知ることができず、いわば眼の不自由な人が勘だけに頼って自動車を運転するようなものだからである。そのためにガリヴァが南洋で座礁したような海難事故は、今日では考えられないくらい頻繁に起こっていた。それがもし軍艦であるなら、敵以上にこわいのは海難による自滅である。その心配されていたことが実際に起こったのである。

【『時計の社会史』角山榮〈つのやま・さかえ〉(中公新書、1984年/吉川弘文館、2014年)】
 私の手元にあるのは新書版で、「ザ・新書」という敬称で呼びたくなるほどの一冊。川勝平太著『日本文明と近代西洋 「鎖国」再考』で本書を知った。このように面白くない本が面白い本につないでくれることがあるので読書には無駄がないと考えてよろしい。しかも、『超訳「国富論」』と併読していたため、上記テキストで理解が深まった。

 更に本テキストが重要なのはワシントン海軍軍縮条約(1922年)をも示唆しているためだ。つまり軍の暴走や五・一五事件にまでつながる話なのだ。

 私は全く時計に興味がないし、腕時計も持っていない。携帯電話すら持ち歩くことが少ないため、今でも道行く人に時間を尋ねることがある。そんな私でも本書の内容には引きずり込まれた。時計と社会を巡る見事な近代史となっている。文章、内容ともに完璧な新書といっていいだろう。

2020-12-23

パラリンピックを3倍楽しむために/『目の見えないアスリートの身体論 なぜ視覚なしでプレイできるのか』伊藤亜紗


・『目の見えない人は世界をどう見ているのか』伊藤亜紗

 ・パラリンピックを3倍楽しむために

・『どもる体』伊藤亜紗
・『記憶する体』伊藤亜紗
・『手の倫理』伊藤亜紗
『ポストコロナの生命哲学』福岡伸一、伊藤亜紗、藤原辰史『悲しみの秘義』若松英輔

 けれど、同じことをしたとしてもやはりそこには違いがあるはずです。「視覚なしで走るフルマラソン」や「視覚なしでするダイビング」がどんな経験なのかが気になる。たとえば、ある中途失明の女性が、「走るっていうのは両足を地面から同時に離す快楽なんです」と興奮ぎみに話してくれたことがありました。視覚なしの生活になって、常に摺(す)り足をする癖がついていた彼女にとって、それは大きな解放感をもたらしたそうです。それまで、私は走ることを「両足を地面から同時に離す行為」と捉えたことなどありませんでした。こうした「同じ」の先にある「違い」こそ、面白いと私は信じています。
 それは感情ではなく知性の仕事です。私たちの多くがいつもやっているのとは違う、別バージョンの「走る」や「泳ぐ」。それを知ることは、障害のある人が体を動かす仕方に接近することであるのみならず、人間の身体そのものの隠れた能力や新たな使い道に触れることでもあります。「リハビリの延長」でも「福祉的な活動」でもない。身体の新たな使い方を開拓する場であることを期待して、障害スポーツの扉を叩きました。

【『目の見えないアスリートの身体論 なぜ視覚なしでプレイできるのか』伊藤亜紗〈いとう・あさ〉(潮新書、2016年)以下同】

 恐るべき才能の出現である。2冊読み、思わずBABジャパン社にメールを送った。直ちに伊藤亜紗を起用して日野晃初見良昭〈はつみ・まさあき〉を取材させるべきである、と。単なる説明能力ではない。柔らかな感性から紡ぎ出される言葉が音楽的な心地よさを感じさせるのだ。その文体は福岡伸一を凌駕するといっても過言ではない。

 街や家はあくまで私たちが生活する場。最低限の法律やルールは用意されているけれど、基本的には個人がそれぞれの目的や思いにしたがって自由に動き回っています。不意に立ち止まって写真を撮る人もいれば、立ち止まったその人をよけて小走りで先を急ぐ人もいる。お互いの配慮は必要ですが、思い思いの活動が許されています。
 それに対して、スポーツが行われる空間は、圧倒的に活動の自由度が低い空間です。管理されているのです。物理的な意味でも地面や水面が線やロープで区切られていますし、ルールという意味でも明確な反則行為が規定されています。
「自由度が低い」というとネガティブな印象を与えますが、近代スポーツとはそもそもそういうものでしょう。つまり、運動の自由度を下げることで、競争の活性を高めるのです。
 このような「生活の空間」と「スポーツの空間」の違いを、「エントロピー」という言葉で説明するならこうなるでしょう。生活の空間はエントロピーが大きく、スポーツの空間は逆にエントロピーが小さい空間である、と。
 エントロピーとは「乱雑さ」を意味する熱力学の用語です。分子が空間内をあちこち自由に動き回っている気体のような状態は、分子が整列して結晶構造を成している固体の状態に比べると、エントロピーが大きいということになります。(中略)
 グラウンドやプールに引かれた空間的な仕切りや実施上の細かなルールは、いわばエントロピーを調節するためのコントローラーのようなもの。コントローラーのツマミをどのように設定するかによって、その空間で行われる競技の内容は変わってきます。

 スポーツが「運動の自由度を下げることで、競争の活性を高める」との指摘自体が卓見であるが、更に続いてエントロピーの概念を引っ張り出すところが凄い。しかも正確な知識だ。エントロピーはしばしば誤って語られることが多い。

 障碍(しょうがい)は情報量を少なくする。眼や耳の不自由な人を思えば五感が四感になったと考えてよかろう。そんな彼らがエントロピーの小さな舞台で不自由な体を躍動させるのだ。障碍とルールという二重の束縛が競技を豊かなものにしていることがよく理解できる。

「パラリンピックを3倍楽しむために」というのは釣りタイトルであるが、明年のパラリンピックがあろうとなかろうとスポーツ観戦に興味がある人は必読である。

2020-12-15

エートスの語源/『ソクラテスはネットの「無料」に抗議する』ルディー和子


『売り方は類人猿が知っている』ルディー和子

 ・累進課税の起源は古代ギリシアに
 ・エートスの語源

SNSと心理戦争 今さら聞けない“世論操作”
『マインド・ハッキング あなたの感情を支配し行動を操るソーシャルメディア』クリストファー・ワイリー

必読書 その三

 プラトンの時代には読み書き能力が急激に発達した結果、抽象化する能力が格段に高くなりました。具体的な意味を持った言葉が、抽象的概念を表現する言葉に変化していきました。たとえば、「エートス(ethos)」というギリシア語は、もともとは動物の「ねぐら」とか「生息地」を意味していたのですが、その後、「人の住処での暮らし方」から個人の習慣行動といった意味で用いられるようになり、アリストテレスのころには「性格(人柄)」という意味で使われるようになっています。アリストテレスは著書『弁論術』で、他人を説得するためには、倫理的にも尊敬できる信頼できるエートスが必要だと書いています。

【『ソクラテスはネットの「無料」に抗議する』ルディー和子(日経プレミアシリーズ、2013年)】

 エートスを私はずっと「気風」と読んできた。折角の機会なので定義を再確認しておこう。

《「エトス」とも》
1 アリストテレス倫理学で、人間が行為の反復によって獲得する持続的な性格・習性。⇔パトス。
2 一般に、ある社会集団・民族を支配する倫理的な心的態度。

エートスの意味 - goo国語辞書

 エートスは、「いつもの場所」を意味し、転じて習慣・特性などを意味する古代ギリシア語である。他に、「出発点・出現」または「特徴」を意味する。

エートス - Wikipedia

 大塚久雄(1989)はこの2つのうち「エートス(ethos)」について、次のように定義している。
「『エートス』は単なる規範としての倫理ではない。宗教倫理であれ、あるいは単なる世俗的な伝統主義の倫理であれ、そうした倫理綱領とか倫理徳目とかいう倫理規範ではなくて、そういうものが歴史の流れのなかでいつしか人間の血となり肉となってしまった。いわば社会の倫理的雰囲気とでもいうべきものなのです」。

PDF:職業エートスの形成に関する一考察 キリスト教精神との関係から 阿部正昭

 近代においては,1つの社会,民族の特色をなす性質,道徳をさす社会学的,人類学的用語としても用いられる。このような意味を明確化したのは M.ウェーバーである。(中略)その意味するところはまず,なんらかのあるべき姿をさし示す「倫理」 ethicsとは区別された,本人の自覚しない日常的生活態度であり,また「激情」 pathosとも対立的なものである。日常的生活行動や生活態度を最奥部で規定し,常に一定の方向に向わせる内面的原理を意味する。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

 エートスのラテン語訳 こそがモーレス——モスの複数形——でありモラルの語源なのである。これは、我々がもつ道徳的感情は、その共同体のモラルの遵守とそこからの逸脱から発生しているのだという説明の論理である(アリストテレス『ニコマコス倫理学』)。

エートス: ethos

 私が啓発されたのは小室直樹の解説で、彼は「行動様式」とした(『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』)。武士と武士道を思えば腑に落ちる。行動様式は努めているうちに自然な振る舞いとなり、やがては道と己が一体化して不可分となる。「簡単にいってしまえば、エシックス(倫理)は思考に訴え、エトスは情動を支配するのだ」と上記書評で書いた。思考は前頭葉で行われ、情動は大脳辺縁系が司る。我々がともすると理性よりも感情に振り回されるのは当然で、大脳辺縁系がより下層にあるためだ。その直線的な志向が既に否定されているポール・マクリーン「三位一体脳モデル」だが、生きるための爬虫類脳(脳幹、小脳)・感じるための哺乳類脳(大脳辺縁系、新皮質)・考えるための人間脳(前頭葉)との位置づけはあながち的外れではないだろう。

 エートスが行動様式であれば、倫理からエートスへの飛翔は前頭葉から大脳辺縁系への深化を示すものだ。前頭葉で考えれば切腹はできまい。意志よりも情動が重い。

 そう考えるとやはり若いうちに尊敬できる人物を知ることが重要だ。「このような人になりたい」「あのような生き方をしたい」との切望が人格の基底を成すからだ。

2020-12-07

累進課税の起源は古代ギリシアに/『ソクラテスはネットの「無料」に抗議する』ルディー和子


『売り方は類人猿が知っている』ルディー和子

 ・累進課税の起源は古代ギリシアに
 ・エートスの語源

SNSと心理戦争 今さら聞けない“世論操作”
『マインド・ハッキング あなたの感情を支配し行動を操るソーシャルメディア』クリストファー・ワイリー

必読書 その三

 古代ギリシアでは、富裕層の市民がレイトゥルギアと呼ばれる民衆のためのイベントにおいて金を出す習慣がありました。アテナイでは、緊急の場合をのぞいて市民から税金を徴収することはありません。その代わりに金持ちがお祭りのための費用、お祭りのメインイベントである演劇や合唱舞曲を上演するための費用、体育行事のための費用などを負担するのです。
 これは、私有財産の一部を公共に(一般市民に)贈与することですが、途中からは、寄附とみなされたり、あるいは税金とみなされたりするようになります。
 小さな都市国家ですから、誰がいくらお金を出してくれたかは、ウワサですぐに広まります。人気のある悲劇や喜劇の上演にお金を出せば、お金持ちは名誉や評判を高めることができます。レイトゥルギアのなかには、アテナイの海軍の船の維持に必要な経費を出すことも含まれます。多額の経費を負担すれば、1年間海軍のキャプテンに就任するという名誉がついてきます。
 こういった人気のあるものなら贈与するが、あまり人気のないものだと誰もお金を出したがりません。仕方がないので、執政官が自発的に申し出なかった金持ちに割り当てます。こうなると、もはや寄附ではなく、税金の意味合いが強くなります。
 金持ちがより多くの公共コストを負担するという累進課税は、14世紀のイギリスで始まったと言われます。が、その考え方自体は、古代ギリシアにさかのぼることができるのです。

【『ソクラテスはネットの「無料」に抗議する』ルディー和子(日経プレミアシリーズ、2013年)】

 ジェームズ・C・スコット著『反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』を読んで税金について眼が開いた。大村大次郎の著作もそれまでとはガラリと色彩が鮮やかになった。明き盲(めくら)とはよく言ったものである。

 渡部昇一〈わたなべ・しょういち〉がかつて「所得税は1割の負担で国民全員が支払えば財政は賄(まかな)える」という大蔵官僚の発言を紹介していたのを思い出した。ところがどの本に書いてあったのかが思い出せない。渡部の著作はさほど読んでいないのだが画像データが多すぎるためだ。仕方がないので『歴史の鉄則 税金が国家の盛衰を決める』(1993年/改訂改題『税高くして民滅び、国亡ぶ』)と『対論「所得税一律革命」 領収書も、税務署も、脱税もなくなる』(1999年)を読んだ。まだ残っていた鱗(うろこ)が目から落ちた。

 選挙権の歴史を振り返ると身分、宗教、性別、人種、納税などが挙げられよう。アメリカの独立はボストン茶会事件(1773年)に始まるが、この時の合言葉が「代表なくして課税なし」であった。渡部の著書に何度も出てくる言葉だが、説得力はあるものの日本国内においては外国人参政権との整合性がとれない。

「カネを出しているのだから口も出させろ」との主張には筋が通っている。しかしながら国家として考えた場合、いざ戦争となれば母国と日本のどちらにつくのかという問題が生じる。極端な例を想定すれば問題は単純化できる。中国が日本へ2億人の人々を送り込めばどうなるか? 実際に似たようなことが北海道で進行中だ。

 渡部は累進課税と相続税は自由主義に反すると主張する。財産権の侵害の他ならず、悪平等の考え方が社会主義的であるとまで説く。株式会社や二世議員は相続税を回避するシステムとして使われている。納税や節税にかかる労力が社会にブレーキをかけているのも確かである。

 企業の規模を問わず、所得の高低を問わず、誰もが租税を回避するのは政治家と官僚が愚かであると判断しているためだ。そもそも税制そのものが不平等だし、税金を支払うに値する国家かどうかが疑問である。大村大次郎は「この国(日本)に税金を支払う価値はない」と言い切っている。

 マンモス教団では信者が嬉々として布施を行っている。仏教では喜捨と呼ぶ。理想的な徴税のあり方だと思う。決して皮肉ではなく。

2020-11-12

人類史の99%以上は狩猟採集生活/『売り方は類人猿が知っている』ルディー和子


『なぜ美人ばかりが得をするのか』ナンシー・エトコフ
『予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』ダン・アリエリー

 ・人類史の99%以上は狩猟採集生活

『ソクラテスはネットの「無料」に抗議する』ルディー和子

必読書 その三

 うつ病、不安障害、パニック障害といった心の病に悩む人たちが多くなっているのは、私たちの脳が、現代の環境にまだ適応していないからだといわれます。
 200万年前ごろに始まったとされる旧石器時代に生きていた先行人類のころから、私たちは、進化の歴史の99%以上を狩猟採集生活をして暮らしてきました。農業文明や工業文明になってからの歴史は1%にも満たないのです。私たちの脳は、まだ、群れをつくって狩猟採集生活をしていたころに適応していた心の仕組みから、現代の環境に合った仕組みには変わってきてはいないのです。
 遺伝子解説技術の発達によって、現生人類の中には10万年ほど前から故郷アフリカを出て、世界に広がっていったグループがいたことがわかっています。中東・中央アジアに進出したグループもあり、その一部が1万年以上前に日本にたどりつきました。その日本においても長い間狩猟採集生活が続いたわけで、稲作は紀元前3500年ごろには始まっていたといわれてはいますが、農業文明の始まりとなれば紀元前500年ごろでしょう。日本人の場合は、長い進化の時間の中で農業文明や工業文明が占める割合は0.1%です。

【『売り方は類人猿が知っている』ルディー和子(日経プレミアシリーズ、2009年)】

 ナンシー・エトコフを思わせるほどの出来映えだ。マーケティング本の枠に収まらない広汎(こうはん)な知識がわかりやすい文章で綴られている。

 アメリカでパレオダイエットが持て囃(はや)されている。パレオとはパレオリシック=旧石器時代の略だ。原始人ダイエットとも称する。ダイエットは食習慣の意味だ。加工食品が体に悪いことは以前から指摘されていたが、グルテンフリー~パレオダイエットの流れはそれを不自然な穀物食にまで拡張したものだ。

 磨製石器の誕生によって新石器革命と名づけられているが重要なのは農耕(1万年前)と牧畜(5000年前)である。どちらも長い歴史を経て品種改良が施された。と同時に定住革命が起こる。

 一般的には第二次世界大戦以後(1945年)を現代と呼ぶが、それ以前の人類は貧困と飢餓を克服していなかった。日本人が食うのに困らなくなったのはたぶん昭和31年(1956年)あたりからだろう(「もはや戦後ではない」が流行語。ついでに書いておくと日本で公害問題が表面化したのも1950年代から60年代にかけてのこと)。

 で、鱈腹(たらふく)食べられるようになると今度は食べ過ぎで健康が阻害される羽目となった。中庸や少欲知足は難しいものだとつくづく思う。有吉佐和子が高齢者の認知症問題を取り上げたのが1972年である(『恍惚の人』)。

 食べ過ぎているなら食べる量を減らせばいいのだが食欲を抑えるのはかなり難しい。意志の強弱と考えられがちだがそうではあるまい。飢餓を回避する回路が埋め込まれているためだろう。もしも明日、世界から食料が消え失せれば、デブの方が長生きできることは明らかだ。

 糖質制限は元々糖尿病患者の食事療法であったが、狩猟生活が長かった人類の歴史を思えば理に適っている。農耕は穀物を食べることを強制する。穀物はいずれも高でんぷん質で消化された後ブドウ糖(糖質)となる。

 GI値(グリセミック・インデックス)は食品による血糖値上昇の度合いに注目した指数だが、「主な食品のGI値」を見ると高GI(70以上)の食品は狩猟民族が容易に食べられるものではないことに気づく。穀物の収穫は秋になるまで待つ必要があるし、根菜やイモ類も毎日見つけることは難しいだろう。さほど神経質になることもないと思うが、「食欲の秋」と言うくらいだから秋から冬(貯蔵食品に頼る季節)にかけては、むしろ高GIが望ましいのかもしれない。

 マラソンランナーは大会数日前から炭水化物を多く摂取する。軍隊の特殊部隊も同様で作戦数日前からは一切の訓練をやめて炭水化物漬けの食事を摂る。体力を使う場合は好きなだけ米を食べればいい。

 我々が伝統と考えていることは人類史のわずかな期間に過ぎない。文明に依存すればするほど家畜化が進む。狼なら大自然の中で生きてゆけるが座敷犬には無理だろう。内なる野生の声に耳を傾けよ。

2020-10-20

「人間を守るため」という真の目的/『続・人類と感染症の歴史 新たな恐怖に備える』加藤茂孝


『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男
『人類史のなかの定住革命』西田正規
『人類と感染症の歴史 未知なる恐怖を超えて』加藤茂孝

 ・「人間を守るため」という真の目的

『感染症の世界史』石弘之
『感染症の時代 エイズ、O157、結核から麻薬まで』井上栄
『飛行機に乗ってくる病原体 空港検疫官の見た感染症の現実』響堂新
『感染症と文明 共生への道』山本太郎
『感染症クライシス』洋泉社MOOK
『病が語る日本史』酒井シヅ
『反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』ジェームズ・C・スコット

 リスクマネジメントとして考えてみると、津波の対策として有効なのは、いかなる巨大な津波でも防げる巨大堤防で日本列島を取り囲むことではなく、津波発生の素早い予報・周知と前もって一次避難の場所を設定し、日頃から避難訓練をすることである。「人間こそが人間を守る」。感染症対策もこれと同じであり、病原体は、今後も絶えることなく新たに人間社会に侵入・出現してくる。この侵入・出現を防ぐのは、早期発見のためのシステム・ネットワークを構築し、早期発見・診断に続く早期治療・対策を実施することである。制度や規則は基盤となるものであり重要ではあるが、そこに、デュ・ガールの言う「人の本性」、芥川の言う「人間性」への配慮を大切にした「人間を守るため」という真の目的を失わないようにしないと、制度も基盤も生きたものにはならない。

【『続・人類と感染症の歴史 新たな恐怖に備える』加藤茂孝〈かとう・しげたか〉(丸善出版、2018年)】

 正篇と較べると続篇は私の胸に驚くほど響かなかった。たぶん働き過ぎの影響もあるのだろう。あるいは加齢による体力の低下が原因かも。機会があれば再読する予定だ。

 リスクマネジメントの「人間を守るため」という真の目的については以下の書籍が参考になる。

『新・人は皆「自分だけは死なない」と思っている 自分と家族を守るための心の防災袋』山村武彦
『人が死なない防災』片田敏孝

 昨今のコロナ騒動で感じるのは、各国政府における科学とは無縁の意思決定で、いたずらに国民の不安を煽り、国家への依存度を高めようとしているようにしか見えない。一方の国民はテレビ情報を鵜呑みにして科学者気分に浸っている。国家は帝国を目指し、帝国は覇権を主張する。コロナ騒動は戦争の序曲として静かに恐怖を煽り続けることだろう。

穀物が国家を作る/『反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』ジェームズ・C・スコット


『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男
『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ
『文化がヒトを進化させた 人類の繁栄と〈文化-遺伝子革命〉』ジョセフ・ヘンリック
『文化的進化論 人びとの価値観と行動が世界をつくりかえる』ロナルド・イングルハート
『家畜化という進化 人間はいかに動物を変えたか』リチャード・C・フランシス
『親指はなぜ太いのか 直立二足歩行の起原に迫る』島泰三
『人類史のなかの定住革命』西田正規

 ・定住革命と感染症
 ・群集状態と群集心理
 ・国家と文明の深層史(ディープ・ヒストリー)を探れ
 ・穀物が国家を作る

『小麦は食べるな!』ウイリアム・デイビス
『文明が不幸をもたらす 病んだ社会の起源』クリストファー・ライアン
『お金の流れでわかる世界の歴史 富、経済、権力……はこう「動いた」』大村大次郎
『脱税の世界史』大村大次郎
・『対論「所得税一律革命」 領収書も、税務署も、脱税もなくなる』加藤寛、渡部昇一
『人類と感染症の歴史 未知なる恐怖を超えて』加藤茂孝
『感染症の世界史』石弘之
『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』ユヴァル・ノア・ハラリ
・『近代の呪い』渡辺京二
『シリコンバレー式自分を変える最強の食事』デイヴ・アスプリー
『医者が教える食事術 最強の教科書 20万人を診てわかった医学的に正しい食べ方68』牧田善二
『医者が教える食事術2 実践バイブル 20万人を診てわかった医学的に正しい食べ方70』牧田善二

必読書リスト その四

 しかし、なぜ穀物は、最初期の国家でこれほど大きな役割を果たしたのだろうか。結局のところ、ほかの作物は――中東ではとくにレンズマメ、ヒヨコマメ、エンドウマメなどの豆類が、中国ではタロイモ、ダイズが――すでに作物化されていたのだ。なぜ、こうしたものは国家形成の基盤とならなかったのだろう。もっと広げれば、なぜ歴史記録には「レンズマメ国家」がないだろう。ヒヨコマメ国家やタロイモ国家、サゴ国家、パンノキ国家、ヤムイモ国家、キャッサバ国家、ジャガイモ国家、ピーナッツ国家、あるいはバナナ国家はなぜ登場しなかったのだろう。こうした栽培品種の多くは、土地1単位当たりで得られるカロリーがコムギやオオムギよりも多く、労働力が少なくて済むものもある。単独で、あるいはいくつかを組み合わせることで、同程度の基礎的栄養は提供されたはずだ。言い換えれば、こうした作物の多くは、人口密度と食料価値という農業人口統計学的な条件を、穀物と同じ程度には満たしているのだ(このなかで水稲だけは、土地1単位当たりのカロリー値の集中度という点で抜きんでている)。
 わたしの考えでは、穀物と国家がつながる鍵は、穀物だけが課税の基礎となりうることにある。すなわち目視、分割、査定、貯蔵、運搬、そして「分配」ができるということだ。レンズマメやイモ類をはじめとするデンプン植物といった作物にも、こうした望ましいかたちで国家適応した性質がいくつか見られるが、すべての利点を備えたものはない。穀物にしかない利点を理解するためには、自分が古代の徴税役人になったと想像してみればいい。その関心は、なによりも収奪の容易さと効率にある。
 穀物が地上で育ち、ほぼ同時に熟すということは、それだけ徴税官は仕事がしやすいということだ。軍隊や徴税役人は、正しい時期に到着しさえすれば、1回の遠征で実りのすべてを刈り取り、脱穀し、押収することができる。敵対する軍隊にとっては、穀物だと焦土作戦がとても簡単になる。収穫を待つばかりの穀物畑を焼き払うだけで、耕作の移民は逃げるか飢え死にするかしかない。さらに好都合なことに、徴税役人にしても敵軍にしても、ただ待っていれば作物は脱穀され、貯蔵されるので、あとは穀物倉の中身をごっそり押収すればいい。実際に中世の十分の一税では、耕作農民が脱穀前の穀物を束にして畑に置いておけば、超税官が10束ごとに1束ずつ持っていくことになっていた。

【『反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』ジェームズ・C・スコット:立木勝〈たちき:まさる〉訳(みすず書房、2019年)】

 国家とは徴税システムなのだ。衝撃と共に暗澹(あんたん)たる気持ちに打ちひしがれた。小室直樹が「税金は国家と国民の最大のコミュニケーション」(『消費税は民意を問うべし 自主課税なき処にデモクラシーなし』)と指摘したが、初期国家は奴隷に支えられていた。つまり搾取を、民主政という擬制によってコミュニケーションと見せかけるまでに奴隷制度は薄められたのだろう。であれば国民とは納税者と消費者の異名である。

「チンパンジーの利益分配」(『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール)を思えば、人類の不公平さはあたかもチンパンジー以下に退化した感を覚える。社会主義・共産主義への憧れがいつまで経っても消えない理由もこのあたりにあるのだろう。ただし旧共産圏が格差を自由主義以上に拡大した事実を我々は知っている。

 一体誰がどのような目的で国民の富を奪っているのだろうか? 税は強制的に徴収される。所得税は新しい税で、源泉徴収が導入されたのは第二次世界大戦前のことだったと記憶している。確かヒトラー率いるドイツに続いて日本が導入したはずだ。元々は収穫高に応じて負担が決められた。近代では戦費調達を目的とした税も多い(酒税、たばこ税など)。一旦設定された税が取り消されることはない。税負担は増え続ける一方で軽減に応じる国家は見当たらない。、国家はきっと酷税によって亡ぶことだろう。

 現代の奴隷は「自らお金を支払う者」である。消費には必ず税が含まれている。マイホームを購入すれば、印紙税・登録免許税・不動産取得税・固定資産税・都市計画税などの負担があり、自動車を買えば、自動車取得税、消費税、自動車重量税、自動車税を取られ、ガソリンには2種類のガソリン税と石油税が含まれる。飛鳥時代の税金(租庸調の租)は収穫の約3%であった(税の歴史 | 税の学習コーナー|国税庁)。現在、日本の国民負担率(税+社会保障費)は42.8%(2016年)で、財政赤字分をも含めた潜在的国民負担率は50.6%となっている。所得の半分以上が税として徴収されている事実を殆どの国民は自覚していない。

負担率に関する資料 : 財務省
国民負担率の国際比較(OECD加盟34カ国)【PDF】
各国の「国民負担率」 - 前原誠司【PDF】
国民負担率の内訳の国際比較をさぐる(2020年時点最新版)(不破雷蔵) - 個人 - Yahoo!ニュース
世界で一番、税金が高い国

 渡部昇一が財務官僚に訊ねたところ、本当であれば所得税1割を全国民が納めれば国家は回ると答えた。だとすれば、4割の税金はどこに消えているのか? 2020年度の税収63.5兆円から単純計算すれば、25.4兆円のカネが消えていることになる。誰かの懐(ふところ)に入るにしては大きすぎる額だ。

 穀物が国家を作るための道具であったとすれば、穀物が健康を損なう原因になっていることは十分あり得る。本書では初期国家周辺の狩猟採集民が健康においても人生の充実度においても優(まさ)っていたと断じている。

 一貫して恐ろしいことを淡々と綴る筆致に白色人種の残酷な知性が垣間見える。300ページ足らずで4000円を超える価格をつけたみすず書房は更に残酷である。こんなべら棒な値段の本は買わない方がいいだろう。図書館から借りればよい。



税を下げて衰亡した国はない/『税高くして民滅び、国亡ぶ』渡部昇一

2020-10-12

国家と文明の深層史(ディープ・ヒストリー)を探れ/『反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』ジェームズ・C・スコット


『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男
『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ
『文化がヒトを進化させた 人類の繁栄と〈文化-遺伝子革命〉』ジョセフ・ヘンリック
『文化的進化論 人びとの価値観と行動が世界をつくりかえる』ロナルド・イングルハート
『家畜化という進化 人間はいかに動物を変えたか』リチャード・C・フランシス
『親指はなぜ太いのか 直立二足歩行の起原に迫る』島泰三
『人類史のなかの定住革命』西田正規

 ・定住革命と感染症
 ・群集状態と群集心理
 ・国家と文明の深層史(ディープ・ヒストリー)を探れ
 ・穀物が国家を作る

『小麦は食べるな!』ウイリアム・デイビス
『文明が不幸をもたらす 病んだ社会の起源』クリストファー・ライアン
『お金の流れでわかる世界の歴史 富、経済、権力……はこう「動いた」』大村大次郎
『脱税の世界史』大村大次郎
・『対論「所得税一律革命」 領収書も、税務署も、脱税もなくなる』加藤寛、渡部昇一
『人類と感染症の歴史 未知なる恐怖を超えて』加藤茂孝
『感染症の世界史』石弘之
『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』ユヴァル・ノア・ハラリ
・『近代の呪い』渡辺京二
『シリコンバレー式自分を変える最強の食事』デイヴ・アスプリー
『医者が教える食事術 最強の教科書 20万人を診てわかった医学的に正しい食べ方68』牧田善二
『医者が教える食事術2 実践バイブル 20万人を診てわかった医学的に正しい食べ方70』牧田善二

必読書リスト その四

クロード・レヴィ=ストロースは書いている。

文字は、中央集権化し階層化した国家が自らを再生産するために必要なのだろう。……文字というのは奇妙なものだ。……文字の出現に付随していると思われる唯一の現象は、都市と帝国の形成、つまり相当数の個人の一つの政治組織への統合と、それら個人のカーストや階級への位(くらい)付けである。……文字は、人間に光明をもたらす前に、人間の搾取に便宜を与えたように見える。

【『反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』ジェームズ・C・スコット:立木勝〈たちき:まさる〉訳(みすず書房、2019年)】

 秦の始皇帝が行ったのは文字・貨幣・暦・度量衡の統一である。秦(しん)は英語のChinaとシナの語源でもある。シナという呼称については以下のページに記した。

都市革命から枢軸文明が生まれた/『一神教の闇 アニミズムの復権』安田喜憲

 レヴィ=ストロースの絶妙なエピグラフから農耕革命の欺瞞を暴く驚愕の一書である。

 定住と最初の町の登場は、ふつうは灌漑と国家が影響したものだと見られていた。これも今はそうではなく、たいていは湿地の豊穣の産物だということがわかっている。また、定住と耕作がそのまま国家形成につながったと考えられていたが、国家が姿を現したのは、固定された畑での農耕が登場してからずいぶんあとのことだった。さらに、農業は人間の健康、栄養、余暇における大きな前進だという思い込みがあったが、初めはそのほぼ正反対が現実だった。以前は、国家と初期文明はたいてい魅力的な磁石として見られ、その贅沢、文化、機会によって人びとを引きつけたと考えられてきた。実際には、初期の国家はさまざまな形態での束縛によって人口を捕獲し、縛りをつけておかなければならず、しかも群集による伝染病に悩まされていた。初期の国家は脆弱ですぐに崩壊したが、それに続く「暗黒時代」には、実は人間の福祉が向上した跡が見られることが多い。最後に、たいていの場合、国家の外での生活(「野蛮人」としての暮らし)が、少なくとも文明内部の非エリートと比べれば、物質的に安楽で、自由で、健康的だったことを示す強い証拠がある。

 人類のコミュニティが部族から国家へ【進化した】との思い込みがくっきりと浮かび上がってくる。しかも我々はそれが自然の摂理であるかのように錯覚している。テキスト中の「暗黒時代」とは国家不在の時代を意味するのだろう。つまり集団を嫌ったアウトサイダーの方が豊かな生活をしていたというのだ。そこから導かれるのは国家を成り立たせたのは奴隷の存在であることだ。

 そこである感覚が要求してくる――わたしたちが定住し、穀物を栽培し、家畜を育てながら、現在国家と呼んでいる新奇な制度によって支配される「臣民」となった経緯を知るために、深層史(ディープ・ヒストリー)を探れ、と。

 私は元々群れや集団に関心があり、人類のコミュニティがダンバー数の150人から国家に至ったのは必然であり、国家を超えるコミュニティの誕生は難しいと考えてきた。ヒトが動物の頂点に君臨したのは知恵があるためだ。腕力では動物に敵わないが人類は武器とチームワークで動物を打ち負かした。武器は手斧(ちょうな)に始まり、投石、弓矢、火、火薬、刀剣、火砲そして銃(13世紀後半、中国で誕生)へと発展した。第一次世界大戦(1914-18年)では機関銃が使われ、第二次世界大戦(1939-45年)ではミサイル(ドイツのV2ロケットが嚆矢〈こうし〉)と原子爆弾が開発された。あらゆる集団は組織化された暴力(軍隊・警察)に膝を屈する。つまり国家とは人々の暴力を制御するところに生まれるものなのだ。これが私の基本的な考えで「国家とは軍隊なり」と言えるかもしれない。ところが食糧を基軸に考えると全く異なる人類の姿が現れる。

 さらに〈飼い馴らし〉の「最高責任者」であるホモ・サピエンスについてはどうだろう。〈飼い馴らされた〉のはむしろホモ・サピエンスの方ではないだろうか。耕作、植え付け、雑草取り、収穫、脱穀、製粉といったサイクルに縛りつけられているうえ(このすべてがお気に入りの穀物のためだ)、家畜の世話も毎日しなければならない。これは、誰が誰の召使いかという、ほとんど形而上学的な問いかけになる――少なくとも、食べるときまでは。

 安定した食糧生産を支えるのは安定した労働力である。ここで考える必要があるのは狩猟・漁撈(ぎょろう)との比較だ。労働生産性からいえば明らかに農耕の方が分が悪い。労働時間はもとより、天候リスクや戦争リスクを思えば収穫までの期間が種々のリスク要因となる。すなわち農耕の背景には何らかの強制があったのだろう。

〈飼い馴らし〉は、ドムス周辺の動植物の遺伝子構造と形態を変えてしまった。植物と動物と人間が農業定住地に集まることで新しい、非常に人工的な環境が生まれ、そこにダーウィン的な選択圧が働いて、新しい適応が進んだ。新しい作物は、わたしたちがつねに気をつけて保護してやらなければ生きていけない。「でくのぼう」になってしまった。家畜化されたヒツジやヤギについてもほぼ同じことがいえて、どちらも野生種と比べると小柄だし、おとなしい。周囲の環境への意識も低く、性的二形性〔雌雄差〕も小さい。こうした文脈のなかで、わたしは、同様のプロセスがわたしたちにも起こっているのではないかと問いかける。ドムスによって、狭い空間への閉じこめによって、過密状態によって、身体活動や社会組織のパターンの変化によって、わたしたちもまた、〈飼い馴らされて〉きたのではないだろうか。

「ドムス複合体」なるキーワードが提示されるが、domesticate(飼い馴らす)された環境で育てられた家畜や農産物と、定住を開始したヒトが相互に飼い馴らされて生物学的変化を遂げてゆく様相を意味する。切り取られた自然環境の中で新たな進化――あるいは退化――が起こる。

 ではなぜ人類は農耕の道を選んだのか? 国家と文明の深層史(ディープ・ヒストリー)は見たこともない相貌を現す。

2020-10-08

群集状態と群集心理/『反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』ジェームズ・C・スコット


『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男
『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ
『文化がヒトを進化させた 人類の繁栄と〈文化-遺伝子革命〉』ジョセフ・ヘンリック
『文化的進化論 人びとの価値観と行動が世界をつくりかえる』ロナルド・イングルハート
『家畜化という進化 人間はいかに動物を変えたか』リチャード・C・フランシス
『親指はなぜ太いのか 直立二足歩行の起原に迫る』島泰三
『人類史のなかの定住革命』西田正規

 ・定住革命と感染症
 ・群集状態と群集心理
 ・国家と文明の深層史(ディープ・ヒストリー)を探れ
 ・穀物が国家を作る

『小麦は食べるな!』ウイリアム・デイビス
『文明が不幸をもたらす 病んだ社会の起源』クリストファー・ライアン
『お金の流れでわかる世界の歴史 富、経済、権力……はこう「動いた」』大村大次郎
『脱税の世界史』大村大次郎
・『対論「所得税一律革命」 領収書も、税務署も、脱税もなくなる』加藤寛、渡部昇一
『人類と感染症の歴史 未知なる恐怖を超えて』加藤茂孝
『感染症の世界史』石弘之
『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』ユヴァル・ノア・ハラリ
・『近代の呪い』渡辺京二
『シリコンバレー式自分を変える最強の食事』デイヴ・アスプリー
『医者が教える食事術 最強の教科書 20万人を診てわかった医学的に正しい食べ方68』牧田善二
『医者が教える食事術2 実践バイブル 20万人を診てわかった医学的に正しい食べ方70』牧田善二

必読書リスト その四

 最初の文字ソースからはっきりわかるのは、初期のメソポタミア人が、病気が広がる「伝染」の原理を理解していたことだ。可能な場合には、確認された最初の患者を隔離し、専用の地区に閉じこめて、誰も出入りさせないというステップを踏んでいる。長距離の旅をする者、交易商人、兵士などが病気を運びやすいことも理解していた。分離して接触を避けるというこの習慣は、ルネサンス時代に各地の港に設置されたラザレット〔ペスト患者の隔離施設〕を予見させるものだった。伝染を理解していたことは、罹患者を避けるだけでなく、その人の使ったカップや皿、衣服、寝具なども回避したことからも示唆される。遠征から還ってきて病気が疑われる兵士は、市内に入る前に衣服と盾を焼き捨てるよう義務づけられた。分離や隔離でうまくいかなければ、人びとは瀕死の者や死亡者を置き去りにして、都市から逃げ出した。もし還ってくるとしたら、病気の流行が過ぎてから十分に期間をおいてからだった。またそうするなかで、逆に病気を辺境へと持って行ってしまうことも多かったに違いない。そのときには、また新たな隔離と逃避が行われたのだろう。わたしは、初期の、記録のない時期に人口密集地が放棄されたうちの相当多くは、政治ではなく病気が理由だったと考えてまず間違いないと思う。

【『反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』ジェームズ・C・スコット:立木勝〈たちき:まさる〉訳(みすず書房、2019年)】

 やはりコロナ禍であればこそ感染症に関する記述が目を引く。「初期のメソポタミア人」とは紀元前3000年とか4000年の昔だろう(メソポタミア文明)。恐るべき類推能力といってよい。脳の特徴はアナロジー(類推、類比)とアナログ(連続量)にあるのだろう。

 ここでの目的のために、この群集と病気の論理を適用するのはホモ・サピエンスだけにしておくが、今の例のように、この論理は、病気傾向のあるあらゆる生命体、植物、あるいは動物の群集に容易に適用できる。これは群集に伴う現象だから、鳥やヒツジの群れ、魚の集団、トナカイやガゼルの群れ、さらには穀物の畑にも同じように適用できる。遺伝子が類似しているほど(=多様性が少ないほど)、すべての個体が同じ病原菌に対して脆弱になりやすい。人間が広範に異動するようになるまでは、おそらく渡り鳥が――1カ所にかたまった営巣することや群集して長距離を移動することから――遠くまで疾患を広める主要な媒介生物だっただろう。感染と群集との関係は、実際の媒介生物による伝播が理解されるずっと前から知られていて、利用されてきた。狩猟採集民はそのことを十分にわかっていたから、大きな定住地には近寄らなかったし、各地に離れて暮らすのも、伝染病との接触を避ける方法だと見られていた。

 渡り鳥から他の動物に感染する規模は限られる。ましてその動物と人間が接触する可能性は更に限られる。人間にとって低リスクということはウイルスや微生物にとっては高リスクとなる。奴らが生き延びる可能性は乏しい。

 もう一つ別のシナリオを考えてみよう。寄生生物は宿主(しゅくしゅ)を操る(『心を操る寄生生物 感情から文化・社会まで』キャスリン・マコーリフ)。ひょっとすると寄生生物の操作によって人類は都市化をした可能性もある。リチャード・ドーキンスは「生物は遺伝子によって利用される乗り物に過ぎない」と主張した(『利己的な遺伝子』1976年)が、「寄生生物によって利用される乗り物」ということもあり得るのだ。

 定住とそれによって可能となった群集状態は、どれほど大きく評価してもしすぎにはならない。なにしろ、ホモ・サピエンスに特異的に適応した微生物による感染症は、ほぼすべてがこの1万年の間に――しかも、おそらくその多くは過去5000年のうちに――出現しているのだ。これは強い意味での「文明効果」だった。これら、天然痘、おたふく風邪、麻疹、インフルエンザ、水痘、そしておそらくマラリアなど、歴史的に新しいこうした疾患は、都市化が始まったから、そしてこれから見るように、農業が始まったからこそ生じたものだ。ごく最近まで、こうした疾患は人間の死亡原因の大部分を占めていた。定住前の人びとには人間固有の寄生虫や病気がなかったというのではない。しかし、その時期の病気は群集疾患ではなく、腸チフス、アメーバ赤痢、疱疹、トラコーマ、ハンセン病、住血吸虫症、フィラリア症など、潜伏期間が長いことや、人間以外の生物が保有宿主であることが特徴だった。
 群集疾患は密度依存性疾患ともよばれ、現代の公衆衛生用語では急性市中感染症という。

 つまり感染症は人類の業病ではなく都市化による禍(わざわい)なのだ。移動しない群れで私が思いつくのは蟻(あり)くらいなものだ。定住・農耕革命は人類を蟻化する営みなのかもしれない。

 いずれにせよ国家システムが進化の理に適っているのであれば人類は感染症と共生できるだろう。そうでなければ感染症によって死に絶えるか、あるいは国家以外のシステムを築いて生き延びるしかない。

 群集状態には感染症リスクが伴うが、群集心理には付和雷同・価値観の画一化・教育やメディアを通した洗脳などの問題があり、こちらの方が私は恐ろしい。